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この記事はかつて非公開での投稿で書いたものですが、客観的な部分のみ公開しておきます。
(歴史に興味のない方へ、延々とこのような記事を上げて申し訳ありません。スルーしてください)

〔目次〕
かつて異説をバカにした歴史学者たちが、昔から自分が唱えてきたような顔をし始めた
異説の内容、引用
よかミカンの妄想に反論と、現実にあったことの真相

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■かつて異説をバカにした歴史学者たちが、昔から自分が唱えてきたような顔をし始めた

正統な記録書とされる『蜀志/諸葛亮伝』には、劉備が諸葛亮の庵を訪れた時が初対面であった、と記録されています。
しかし何度も書くように、陳寿の記録書(本編に)は政策的な意図で事実を捻じ曲げた箇所が多いので、真実なのかどうか考えながら読む必要があります。

諸葛亮が劉備と初めて会った日のことについては異説があります。
それは劉備が先ではなく、諸葛亮のほうが先に劉備のもとへ赴いて対面したという話です。
どうやら近年ではこちらの異説を有力と考える歴史学者が増えてきたようです。

加来耕三氏などは近年、異説のほうを「真実である」と断定的に書くことにしているらしく、私は驚きました。
読者をバカだと思っているからなのかどうか知りませんが、一切論拠を説明せずに自分の空想を断定的に書くのは良くありませんね。異説が真実だと確信している私ですら、一般の記事で断定的に書いたことはないというのに。

二十年前は「異説」はバカバカしい・あり得ないなどと言われてほとんど無視されていて、この件について触れる解説書も少なかったのです。
本国の中国では、「異説」は歴史学会で否定され、「異説」を載せた本が禁書扱いとなったほどです。

それなのにほんの二十年で、ここまで状況が変化したことには驚きです。

いったいこの二十年で何が起きたのか?

もし、密かな私の宣伝がネット住民を通じて間接的に浸透してきたのなら、それほど喜ばしいことはないのですが。

まあ私は完全無名で無力ですので、それはないかな。笑
偶然でしょうね。

偶然にしても、真実が伝達されるのは嬉しいことです。

※注意 陳寿の三国志には魏を高め、蜀を貶め、特に諸葛亮をA級戦犯(三国時代の戦乱は諸葛亮のせい)に仕立てる目的で本編にいくつかの創作が挿入されています。ただ諸葛亮をはじめとする蜀人物は当時の一般民衆に大変な人気でした。 参考⇒諸葛亮を「天才」と祭り上げたのは司馬懿ではない
あからさまな悪口を書けば暴動が起きます。このため悪口としては抑えめなのですが、設定としては明らかに落とされています。本来「勝てば官軍・敗ければ賊軍」、民衆の圧倒的人気がなければ蜀人物はもっと貶められていたことでしょう。なお、後に編まれた『演義』は陳寿の『正史』ではなく、民間での人気をそのまま反映した創作です
現在、「陳寿は蜀人物が好きだったので贔屓目に書いた、だから正史によるイメージは全部ウソだ! 我が曹操様は何も悪いことはしていない。曹操様は天下統一して平和な世の中に導くため、涙をのんで虐殺もした天才なのだ」と言う工作員の嘘を鵜呑みにして布教活動している曹操崇拝者が多いのですが、真っ赤な嘘なので信じないように。この論理は現代大国の統一政策をスムーズに進めるためばら撒かれている洗脳教育です(下線部は暗に毛沢東などを賞賛するための洗脳トリック。ファシズム国家がよくやる手法です、騙されないように)。

■三顧礼異説の内容

参考のため裴松之註「異説」をここに引用しておきます。
※一部、人物名の姓はカットします。
 劉備が樊城に駐屯していたのは、曹操がちょうど河北の平定を終えたときのことである。諸葛亮は曹操のつぎの目標が荊州であるのに、荊州牧の劉表は優柔不断で軍事面の知識もないことを知っていたので、襄陽の北にあった樊城へおもむき劉備に見参した。ところが、劉備は諸葛亮を知らなかったうえ、かれが若いのを見て、「食客の希望者だろう」くらいに思って、とくに言葉をかけることもしなかった。やがて時間がきてみなが引き取ったのに、亮はひとり黙然と居残っていた。劉備は劉備で、「この若造いったい何者だ」と思いながらも、声もかけずにいた。
 備は生来、旗の飾りにする牛毛を編むのが好きだった。たまたまある人からボウ牛(ヤク)の尾を贈られたので、なぐさみに編んでいた。亮はそれを見ると、進み出ていった。
「名将の聞こえ高い将軍のこと、当然、遠大なお志をお持ちと思いましたのに、なすこともなく旗飾りなどを編んでおられるとは、これは驚きました」
 備はこれはただ者ではないと悟り、ぱっとそれを投げ捨てていった。
「なんと申す。わしは手なぐさみにやっていたまでじゃぞ」
 すると亮がいった。
「将軍には、劉鎮南(劉表)と曹操を比べて、いずれが優るとお考えですか」
「とうてい曹操の敵ではないわ」
「では、将軍ご自身を曹操と比べてみられていかがですか」
「やはり、向こうが上だ」
「いまや曹操にかなう者はいないというのに、将軍の軍勢はわずか数千。これで曹操の軍勢に対抗しようというのは、あまりにも無謀というものではありませんか」
「わしもそれを憂えているのだ。いったいどうしたものだろう」
 このように備が虚心坦懐に手のうちをさらけだしてみせたので、亮はいった。
「現在、荊州の人口は決して少ないわけではないのです。戸籍に載っている者が少ないのです。それで、その不完全な戸籍簿の人数にしたがって兵を徴発するので、民衆は喜ばないのです。劉鎮南に進言され、州内に命令を下し、まだ戸籍に載っていない者たちをすべて登記させ、そのうえで兵を徴発すれば軍勢を増強できるでしょう」
 劉備はこの計に従って軍勢を増強することができた。このことがあって以来、備は亮が雄大な戦略構想を持っていることを知り、最高の賓客としてもてなすことにしたのである。

「中国の思想」刊行委員会 翻訳
この話は『魏略』および『九州春秋』の二つの文献に残されているようです。


■現実にあったことの真相、考えられること

さて上で私は「異説は真実と確信している」と書きましたが、確信している理由については公開でお話しすることができません。この記事下の続きをお読みください。

強いて客観的な理由として述べると、
「劉備が手慰みに持っていた旗飾りについて、諸葛亮は問いかけた」
などと作り話にしては不自然と言えるほどディテールが具体的なことでしょう。
それに若造の諸葛亮が自分から城へ赴いたという経緯はリアリティがある話です。
伝説の思い込みが強く、諸葛亮を高飛車な性格だと思い込んでいるフィクション作家にはとうてい思いつくことなど無理でしょう。

ただ、かつて歴史学会などでこの説が否定されたのは諸葛亮自身が『出師表』にて
ところが先帝は、私を卑しい者として見下すことがありませんでした。
そして、ご自身がこの無名な貧乏人のあばら屋を三度も訪ねてくださり、……
と書いているからです。

某歴史ポータルサイトの女性ライター、よかミカンさんは
陳寿も嘘をつくからぁ~ 出師表なんか嘘に決まってるわ! それか、諸葛亮は自分の評価を上げるために自分は三顧礼されたというエピソードを盛ったのよ! 過去に三顧礼されたという文書があったからそこからパクっただけなのよ。諸葛亮は性格悪いし、出師表は自分を美化して劉禅にパワハラする目的のためだけに書いたものだから、盛ったに決まってるわ!
(すみません、読者様から内容を教わったのみで記事URL未確認のため伝聞のまま その後確認して書き直し。概ねこの通りの要旨ですが、実際の文はもっと嫌みな感じです)
という根拠ゼロの悪口を書いていますが、偏見の妄想が行き過ぎています。
悪口の程度の低さに知性の欠如が感じられます。同じ日本国民としてここまで愚かな歴史記事が大々的に公開されていることを恥ずかしく思う。
中国の方々へ、誠に申し訳ない。

まさか亮がこんな話を盛るわけがないでしょう。
諸葛亮は、
「死後に財産を調べると自分で申告した通りだった」
という記録が残る愚とも言える正直者(吉川英治称)です。
その不器用な正直者が、遺書としてしたためた文書で、自分の評価を上げるためだけに話を盛ることなどあり得ません。
 ※ただし「南陽」と故地の位置を若干ずらして書いたことについては、隆中の方々へ迷惑をかけないために気を遣った可能性があります

もう少し客観的なことを言えば。
そもそも諸葛亮はこの『出師表』を書いた時点で、既に圧倒で暴力的なほど高い評価を得ていたため、盛る必要など僅かもなかったと言えます。
むしろこの箇所は自分の評価を落とし、劉備の評価を高めるためにその人格の素晴らしさを裏付ける事実を書いたもの(そして何より劉禅へ、あなたのお父さんは素晴らしい人だったと伝えるための文)です。

 参考記事 ⇒文章で人を説得するには? 驚きの『出師表』使い方

陳寿が嘘を書いたか?について。
陳寿は確かに政策的な意図で『蜀志・諸葛亮伝』に数多くのフィクションを挿入しています。
ただしそれは地の文、つまり自身の筆による本編のみであり、諸葛亮の『出師表』についてはそのまま引用したと思われます。
何故ならこの文書は当時(諸葛亮の死後まだ数十年)とても有名であり、生存する多くの人が原文を読んでいて創作することが完全不可能だったと考えられるからです。
また、この文書を改変することの政策的意図が全く考えられません。
そもそも陳寿は政策的意図で書いた本編と、改変の必要のない箇所を分ける客観性ある人です。つまり内心では歴史家としての矜持ある人だったと考えられます。その裏付けとしてたとえば人物評には僅かのフィクションもない現実的な話を書いています。これらのことから、『出師表』などの引用文は一字一句、改変なしと考えて間違いないでしょう。

それでは、三顧礼はあったのか?

答えは是。YESです。


三顧礼は諸葛亮が書いている通り現実にあったことだと考えられます。

史実としての経緯はこう。

1.諸葛亮が樊城の劉備を訪ねた
2.話が合い、意気投合
3.劉備が隆中へ出向いて迎える


3については推測ですが、劉備は「下位の一兵卒と寝食を共にした」という記録が残る人なので必ずそうしたでしょう。
そのため諸葛亮は驚き感激し、生涯従ったのです。

続き。
ここからは異次元の話であるため非公開 >>主人と会った日のこと=異説で確定してください
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吉野 圭-Yoshino Kei
Posted by吉野 圭-Yoshino Kei


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