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2012年筆。かつて人気だった記事なので上げておきます。

目次
我々世代の「ヒーロー」とは
『「のび太」という生き方』中学生の感想文
藤子F作品における、真実の「のび太」
余談。「のび太」ではなく「キテレツ」だった自分

■我々世代の「ヒーロー」とは


 子供の頃、テレビアニメや漫画の世界で強いヒーローは流行ではなかった。
 たとえば「リアルロボ」と呼ばれる『ガンダム』。何故、「リアル」なのかと言うと悪と正義が明確に分けられておらず、しかも能力の高い絶対的英雄が登場しないからだそう。つまり現実世界に近い。
 主人公のアムロは気が弱く小さいことでウジウジと悩み、我がままで義務から逃げたがる。一般によく見かけるタイプの少年、シャア言うところの「坊や」に過ぎない。そんな一般少年が大きな責任を負わされることで少し成長し、自分の全能力を搾り出すようにして目の前の課題に取り組んでいく必死な姿が共感を呼んだ。この流れは『エヴァンゲリオン』等にも受け継がれたか。

 だから私たち以下の世代には、英雄を無条件に崇拝することを知らずに育った人がたぶん多い。
 私に限って言えば、『三国志』さえ知らずに育った。もし幼い頃の私が『三国志』等を知っていたとしても、作られた英雄の嘘話には興味を覚えなかったはずだ。
 大人たちも誰も、子供たちに強い英雄を崇拝することを押し付けず、英雄そのものを教えなかった。そんな時代だった。

 この時代を最もよく象徴している創作が『ドラえもん』ではないだろうか。
 なにしろ主人公は尊敬心を少しも抱かせることのない、何をやっても駄目ないじめられっ子だ。
 人格的にもお世辞にも立派とは言えない。弱虫なうえに甘えん坊ですぐ他人に依存し、努力は大嫌いで、秘密道具を使って他人を陥れようとする腹黒な面も持っている。
 それまでの創作のヒーローたちとは正反対の主人公である。
 だけどその主人公の駄目なところが現実の人間らしく、読者が自分を重ねて痛々しく眺めながら共感する部分であり、世界中に渡って多くの人に読み継がれている理由だろうと思う。
 絶対的英雄に中毒して現実から逃げ続ける人生もたぶん楽しいのだろうけど、私たちの現実をずっと支え続けてくれたのは何もできない「のび太」のほうだった。


■『「のび太」という生き方』中学生の感想文

 少し前から、『「のび太」という生き方』という本に関して中学生が書いた読書感想文が話題になっている。

 中学三年生の読書感想文/「のび太」という生き方

 素晴らしい文だと思う。この完成された文を中学生が書いたという驚きをひとまず措いて、純粋に人が書いた文として素晴らしい。

 特に、
… 受け入れられているという実感もとても大切なことだと思った。また、のび太が夢を叶えることが出来た根本的な理由はドラえもんと出会ったからである。つまり、ドラえもんはロボットの形をした希望そのものであると言える。僕にロボットの形をしたドラえもんはいないけれども、心の中にドラえもんは存在する。希望を持ち続けることにより、心の輝きを失わずに、豊かな人生を送りたいと思う。
 この締め括りに感動を覚えた。

 そうだな、ドラえもんの道具ではなく、ドラえもんという友達がのび太を変えたのだ。
 友に受け入れられているという実感。
 友を大切に思う気持ち。
 それがあるだけで人は能力などなくても奇跡を起こすことができる。
 
 友への想いとは、確かに希望と呼ぶのも不自然ではないが、もっと強烈で強力な現実の力だと私は感じる。

 魯迅の有名な言葉(実際は魯迅ではなく魯迅がペテーフィ・シャンドルの詩を引用したもの)に、
「絶望は虚妄だ。希望がそうであるように」
 というものがある。 
 もしかしたら希望は絶望と同じように永く心に留めることはできないかもしれない。ある日、唐突に絶望の風が吹いて希望の火がかき消される――かのように思える――瞬間が人生には必ず訪れる。
 だけど人への想いは幻の風だけで消えない。
 “今”友がいないのだとしても、かつていた友を想う気持ちでもいい。
 今のところ人生で誰も自分を愛してくれる者はないと感じているなら、自分が愛した人のことを思い浮かべてみる。すると力が湧いて来る。
 人を想い、人のために動くなら、どんな力でも湧いて来る。
 たとえ無力な自分でも、玉砕することが分かっていても、困難に突き進んでしまう力が自分を押すことを感じるだろう。

 そう、長編における弱虫ヒーロー、「のび太」のように。

 弱虫でありながら優しさだけを武器にして困難に飛び込む「長編のび太」の姿こそが、我々の希望。そしてあれが現実における本物のヒーローの姿なのだ。

「のび太」という生きかた 頑張らない。無理しない。




■藤子F作品における、真実の「のび太」


 ところで私は『「のび太」という生き方』という本を読んでいないから詳しいことは分からないが、上の読書感想文を読んでいていくつか気になる点があった。

 読書感想文を書いた彼は解説本を読んで、初めて『ドラえもん』の奥深さ、藤子・F・不二雄のメッセージに気付いたと言う。
 子供の頃、私は原作だけで充分に藤子・F・不二雄の言おうとしていることを感じ取ることができたし、藤子F作品の奥深さには子供心にも感嘆したものだが。最近の子は解説されないと駄目なものか?
 (ああそうかぁ、テレビで一時期やっていた無理めの脚本。藤子F先生本人が書いたのではない話。あれが今の子たちの『ドラえもん』のイメージなのかもしれない。今の子が悪いんじゃ、ないよな)

 それから肝心の解説本のこと。
 解説本では、のび太に関して
「悪口を言わない」 「妬まない」 「何度もチャレンジする」 「がむしゃらに立ち向かっていく」
 などと書いてあるらしいが、そこはたぶん正しくないですよ。
 のび太は毎日のように出木杉くんに嫉妬して歯噛みしていた。ジャイアンやスネ夫の悪口は常時言っていた。がむしゃらに、一心不乱に努力して勉強するなんて場面も見られなかった。確かに反省するということがないから打たれ強く「何度もチャレンジする」ように見えるのだが、比較的にすぐくじけていじけて泣く。
 私は子供の頃、のび太には「なんだこいつ最低な性格だな」と思った記憶がある。

 のび太の長所を言うとしたら、ただ一点、「優しいところ」だろう。
 弱い動物が道端で泣いていたら捨てておけない。巨大に成長した恐竜でも慈しみ愛する。
 出木杉に嫉妬したり、ジャイアンを憎んだりして悪口を言うのだが現実に相手を陥れるような悪さはしない。あ、いや、しようとはするのだが最終的に性根の「優しさ」が顔を出して、踏みとどまる。
 独裁者となった時は世界中の全員を消して(粛清!)しまうのだが、ひどく反省して元に戻す。

 弱虫さの反対にあるこの優しさが、長編において危機の環境に置かれた時に「後にひけない」気持ちとなって最終的に友を守り抜く。

 そして友を守り続けた心が、のび太の夢を叶えさせる。
 

 たぶん解説本に書かれているのは主に長編ののび太のことなのだろう。
 長編は、のび太もジャイアンもスネ夫も別人かと思うほどキャラが違う。
 確かに長編は感動的で、私も大好きだけど、『ドラえもん』の真髄は日常のほうにあると思います。あの悪辣な登場人物たち、人間の悪い面を描き出したブラックなところが、藤子F作品の醍醐味。

 実は藤子F先生にはシニカルでブラックな作品も多い。
 人の悪い面を浮き彫りにして読者に直面させる、そういう古典的な文学の手法が藤子F先生の作品にはある。
 シニカル作品を子供向けにしたのが、『ドラえもん』だろう。

 (藤子F先生は『ドラえもん』をギャグ漫画と言っていた。決して感動だけを狙った作品ではない)

 
 『ドラえもん』を希望の物語として読むのもいいが、もう少し大人になったら藤子F作品のブラックさも味わって欲しい。

 他人が介入するとどうしても作者の意図が薄められてしまうもの。
 ぜひ、アニメだけではなく原作を読んで欲しいものです。

 (可能なら『ドラえもん』以外の藤子F作品も読んで欲しい)



余談の自省

 偉そうなことを言いながら自分自身の人生はどうなのかと言うと、たぶん負け組に入るのだろう。学歴や収入や家の大きさ、子供の有る無しで他人を評価するタイプの人々に言わせれば。
 「成功者か失敗者か」と問われれば明らかに私は「失敗者」だ。
 自分の能力を活かす生き方ができなかったという点で。

 私がのび太と大きく違う点は、勉強だけはできたこと。なまじ、できてしまったからまずかったのか。
 (ところで上の作文を書いたのも開成の子。のび太の気持ちなど本当に心底は分からないよな)

 だから私はどちらかと言うと、のび太よりも『キテレツ大百科』のキテレツに甚くシンパシィを感じていた。
 キテレツは勉強ができる。できるのに、のび太と同じ、いやそれ以上に仲間はずれになっていて苛められているのだ。 
 私立の進学校などに通っていない限り、小中学生の世界で勉強ができるということは人気者となる要素がゼロである。喩えるなら、「激しい暴力に対するスプーン曲げが出来る程度の超能力」、と同じくらい完全に無意味で無価値な能力だ。
 私は小学校の頃、「ちくしょう勉強なんかできたって何の意味があるんだ」と腐っていた覚えがある。
 キテレツのクラスでの扱いがのび太と同じであることは、勉強ができるからこそなお悲哀が感じられる。
 
 キテレツよりさらに共感を覚えたのは、『エスパー魔美』の魔美のクラスメイト、高畑。
 彼は天才でテストでは必ず満点を取ることもできるが、わざと間違いの答えを書いて点を落とすという寂しい努力をしている。
 ウィキペディアで今調べたところ、「他の努力家に申し訳ないから」という理由でテストの点を落としていたのだそうだが、私が読んだ時の印象ではもっと深刻な理由だったように覚えている。自分の深刻過ぎる気持ちを重ねて増幅し読んでしまったのかもしれない。

 中学の時、『エスパー魔美』を読んだ友人の女子が(高畑について)
「自分でテストの答えを間違えて点を落とすなんて。信じらんない! こんな人、現実にいるわけないよね!?」
 と憤るのを聞いて私は、生きた心地がせず冷や汗を流していた。
 あの女子は高畑と同じ罪を犯している人間がまさか横にいるとは思わなかったろう。


 実際、私は高畑やキテレツほどの天才ではなく、文系でほんの少しだけ勉強ができた程度。確かに教科書を一読するだけで合格点を取れる、という程度の能力はあったが理系天才のキテレツたちにはとうてい届かない。
  それでもイジメが席巻していた当時、勉強ができることは隠さなければならないと怯えていた。テストの点をわざと落とすことをして、これは犯罪みたいなもの だと自分で自分を責めながらやめることができなかった。先生にも親にも、もちろん友達にも告白できず、たった一人で罪を抱えて孤独にあえいでいた。辛い学生生活だった。
 (念のため、私は実際にイジメを受けた経験はない。過剰に怯えたのは他にも理由がある)

 高畑のエピソードに触れた時、漫画とはいえ生まれて初めて自分と同じことを考えている人を見つけて救われた。
 あの時、藤子F先生には生涯の恩を感じたな。


 思うに、藤子F先生は「のび太」ではなく、キテレツや高畑タイプの子供だったのではないか。
 だけど事実をそのまま描いても共感というほどのものは得られなくて、いっそ勉強さえもできない主人公を描いてしまったら最もヒットした。
 ヒットへ導いた「のび太」の力が示すように、もしかしたらこの世で最も強い人間とは「優しさ」以外に何も持たない者だったのか、と藤子F先生も驚いたことだろう。
 

未来ある人たちへ // 

18/8/26追記 上で「この世で最も強い人間とは「優しさ」以外に何も持たない者だった」と書いたけど、これは全ての才能を棄てるべきだという意味ではないので注意。
すでに持っている才能も個性の一つ。個性を棄てるのもまた、自分を繕い世間に嘘をついていることになり、苦しみの種となる。
棄てることなく、繕わず、ありのまま生きることが本当は一番正しい。
私は繕ってしまったので道を誤った。

大人になって振り返ってみれば、勉強ができるということは大人世界においてかなり得だったと分かる。
ただ勉強ができるというそれだけで一発逆転も可能だ。
勉強ができる子が嫌われて、叩かれ潰されがちなのは「コイツは将来有望だ」と皆が本能で悟っているからだ。
(性格的に問題ある子は別である。テストの点だけで他人を評価し、低い点を取った子を見下したりすればその部分だけは責められても仕方ない。ただそれでも集団でイジメという行為をやるのは人間として最低に汚い、イジメが正当化される理由は一つもない)

将来有望……そんなことは言われなくても賢い子たちのほとんどが気付いているだろうが。
私は“良い子”過ぎたのか、周りが嫌だと言うことをやらないことが正しいのだと信じてしまった。だから嫌われてはいけないと過剰に思うあまり、自分を潰してしまった。

“良い子”であり過ぎてはいけない。「死ね」と言われても言うなりになって死んではいけない。
「嫌味なヤツ」と思われてもいいから本来の自分のまま生きるべきだ。

もし、イジメの対象となってしまい酷い目に遭わされるなら、能力を出せる時まで隠しておけばいいのだ。
その代わり勉強は密かに続けていけ。
後になって出せなくなるほど本気で自分を潰してしまったらいけない、私のように。

正直言って私は後悔している。
才能をドブに捨てて、人生を無駄に潰してしまった。
そのせいで誰かの役に立ちたくても、今たいした役にも立たない大人となった。神(地上へ送り出してくれた、応援してくれた霊たち)に申し訳なく思う。私はひどい罪を犯してしまったのかもしれない。


自分がのび太と違う点、のび太の長所をもう一点挙げよう。
それは「求める力」があること。
のび太は素直に夢を求める。自分の願望に我がままなのだ。
静香ちゃんが欲しいなら、欲しいと言う。結婚して欲しかったら、結婚してくださいと言う。
そのことが夢を叶える能力として最低の条件だった。当たり前過ぎるけど案外、見落としがちだ。

私ももう少し我がままで、素直に願望を口に出していたら今頃はもう少し役に立つ大人となっていたかもしれないと思う。たとえば、大学の学費を出してくれる人がいたかもしれない。いや確かにいたと今は分かっている。
残念ながら、私は堪えた。我慢した。“イイ子ちゃん”過ぎた。
そして黙っている者に夢を叶える資格は与えられない。

(「権利の上に眠る者は救われない」――法律だけではなく人生にも言えることらしい)


こんな私を反面教師として、これからの人生がある若い人たちはどうか「のび太」となってください。

そして夢が叶ったあかつきには、他人を見下さないように。
「のび太」のように優しさを失わず、他人のために動く人間となってください。

いくら夢を叶える力があると言っても、他人を見下して嘲笑する目的のためだけに頑張るのは虚しいと思うのです。そんな人は「のび太」ではなくて単なる私利私欲の亡者。他人の役に立つことは一生にない。


2012年3月10日筆 2018年8月25日、読みづらかった箇所を改稿

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