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諸葛恪は諸葛亮の兄の長男で、亮にとっては甥に当たります。

実は、諸葛恪は筆者がなんとなく「他人とは思えない」人物です。
もし三国時代について何の知識もなく、『三国志』の創作を一読したのみだったら、私はこの人物に自己投影していたような気がします。

〔目次〕
人物紹介。諸葛恪とは
恪に発見する、自分自身の姿
恪の道と他の道とを分ける分岐点
教訓。他人軸で生きてはならないということ



■諸葛恪(しょかつ・かく/203年 - 253年)


 諸葛恪は、呉に仕えた諸葛瑾の長男。弟に喬、融がいる。
 兄弟の中でも恪は最も優秀で、少年の頃から才気に溢れていたが驕慢で負けず嫌いなところがあり、議論では辛辣に相手をやり込めたという。
 瑾はこの長男に手を焼き、叔父の亮も「恪にはいい加減なところがあり金計算などの細かい仕事には向かない」という内容の手紙を呉へ送っている。

 大人になると優秀さを発揮。
 山越(異民族)討伐を成功させ、孫権の信頼を得、孫権の危篤時には他の人物とともに後事を託されている。

 税金を免除するなど分かりやすい政策を敷いたため、民の人気を得た。
 恪が外出しようとすると、恪の姿を一目見ようとして門前に大勢の人々が集まったという。

 252年、東興の戦いにて魏に大勝。
 しかし翌253年に合肥新城を攻めた時は敵に騙され城を攻め落とすことが出来なかった。さらに兵士の間に疫病が蔓延し、それでもしばらく撤退しなかったため大量の死者を出した。

 この失敗で権力が衰えたにも関わらず、なお権力を独占しようとしたので人望を失い、最終的に暗殺されている。
 諸葛恪の一族も皆殺しにされた。弟の諸葛融の一族も皆殺しにされている。恪の遺体は埋葬もされず投げ捨てられたという。

 
以上……真っ暗な気持ちになる記録です。 

「恪が暗殺される日には生臭い風が吹いていて、飼い犬(だったか?記憶曖昧)が恪の着物を噛んで放さず外出を引きとめようとした。それでも行ったので殺された」という話も残っています。
不思議な話ですが、恪はあまりフィクションの人物として語られないので、創作ではなく現実に起きた出来事として記録されているのでしょう。

私は「弟の融も巻き添えになった」事実には衝撃を受けました。結局、喬以外の諸葛一族は皆殺しに遭ったということです。
関係のない妻や子、弟一家まで皆殺し。どうしてそんなことをするのだろう? 私には理解が出来ません。
「だから中国は嫌いなんだ」と思ってしまうが、この一族皆殺しの風習はなにも中国に限ったことではないですね。もちろん日本にも当然のこととしてあった。世界中にこういう事件はあります。おそらく復讐を防ぐために必要な、本能的な行為なのかもしれない。ただ、私にはどうしても納得いかないだけです。


話を戻します。
いったい、恪はどうしてこのような最期を迎えることになったのでしょうか?

嫉妬や権力争いで殺されたのだとも言えます。
ただ恪自身の人格に問題があり、それ故に人望を失い、身辺を守ってくれる人もいなかったことは確かです。もし支持してくれる人が多ければ、たとえ命を狙う者がいたとしても簡単に目的を遂げることは出来ないからです。


■恪に発見する、自分自身の姿


こう書くと全面的に恪を否定しているようですが、そうではありません。
上にも書いた通り、筆者にとって恪は「他人とは思えない」人物。
つまり、自分にも似たところはあると感じるため全面否定は出来ないのです。

おそらくそう感じるのは私だけではないはずです。

「才気に溢れ」
「人を人とも思わず」
「議論となれば相手をやりこめる」
こんなタイプは周りを見れば一人や二人は見つかるのではないでしょうか。

多少なりとも勉強が出来た人は、かつて自分がそちら側だった(少なくとも片足くらいは突っ込んでいた)ことを否定出来ないと思います。


どうしてこうなってしまうのか。
子供時代に「優秀だ」という評価を大人から浴びせられると、子供同士の世界ではどうしても孤独となりがちです。
そんな孤独を経験した人間は、誰でも十代の頃に「人を人とも思っていない」様子を装ったことがあるはずです。
「人を信じない振り」
「人を愛さない振り」
を演じて周りをシャットアウトするわけです。自分自身でさらに孤独となることを選ぶ。
何故そんな行動を取るかと言うと、自分は不幸な人間だとは思いたくないからです。
特別枠という隔離ボックスには大人たちによって強制的に入れられたのですが、「僕は隔離されたんじゃない。自分から隔離ボックスへ入ったんだ。何故なら僕は友達など必要もないほど特別な人間だから」と思い込むことで苦しみを緩和しようとします。

中二病の一種ですね。
さほどめずらしい症状ではなく、学年に必ず一人くらいはいると思います。学園物のマンガでも必ず一人は登場する。有名な日本の小説家で言えば、太宰治などもきっとこの症状を抱えていたタイプです。


しかし通常この症状は一過性のもので、早々に「自分はそれほどたいした人間ではない」ということに気付くはずです。
だからこそ「勝ち続けなければいけない」とは思わなくなる。
むやみに他人へ競争を吹っ掛けたり、姑息なことや悪さをして勝とうとする必要もないと気付く。

ちなみに筆者の場合、幼少期にチヤホヤされた経験があるため特別意識という後遺症は今も延々と引きずっています。
しかし何故か「負けず嫌い」という感情が幼い頃から欠落していました。たとえば子供時代、弟とよくオセロをやったのですが、私が勝つと必ず弟が癇癪を起こしオセロ盤をひっくり返すためトラウマとなり早々に敗ける・譲ることを覚えてしまった。
(そもそも他人を押しのけてまでも勝ちたいと思ったことがなかった気がします。椅子取りゲームは大嫌いで必ず人に譲っていた)
以降、人生全て「譲るが得策」となりました。学校では成績優秀で目をつけられる前に小細工をして逃げていた(わざと成績を下げた)。
と、こんな人生も大いに問題ですが。
ただそのおかげで現在、苦しい想いをすることもなく気楽に生きています。


■恪の道と他の道とを分ける分岐点


同じ要素を持ちながら諸葛恪の道と他の道とを分ける分岐点があるのだとしたら、この辺りではなかろうかと想像します。

即ち
・負けることを厭わない
・他人を基準として競争で生きない
・自己を基準とする

要するに他人軸は危険だということです。
他人の目を意識して、「他人よりも自分が上」であることを相対的に求めるのではなく、絶対的な自己の研鑽を求める。自分軸。

ある種、「傍若無人」で良いのだという気がします。
(ただし傍若無人は良い意味でね)
他人なんか関係ない。我が道を行け。我が道だけを見つめろ。

親や教師がこういうことをよく教え聞かせれば、中二病を引きずったまま大人になり破滅する人が少なくなる気がします。


■教訓、他人軸で生きてはならない


再び諸葛恪へ話を戻します。彼のみの特殊事情について。

思うに、恪にとって最大の不幸は、幼少期から「諸葛」の名が重荷となっていたことではないでしょうか。
203年の生まれということはちょうど叔父の諸葛亮が世間で騒がれ始めた時期であり、幼い恪にとってその騒ぎは大人が想像する以上の衝撃だったと思います。

恪は叔父を嫌悪していた気がしますが、同時に「いつか超える」という目標でもあったかもしれません。
決して嫌悪だけとは言い切れないその複雑な感情が、ほとんど諸葛の名を利用する形で人気を獲得させたのだと思います。

合肥で勝利にこだわったのも、叔父が敵わなかった魏を撃破し「叔父を越えて名を馳せる」ためだったのではないかと思わせます。


これらの行動はどこか(諸葛亮の部下であった)馬謖とも重なる気が、私にはします。
そう感じるのは私だけかと思っていたら、ニコ百科によればKOEIのゲームでこの二人はほぼ同キャラ扱いだったそうです。レベルだけではなく性格・口調・特技も似た者同士だったとか。
引用しておきます、
KOEIは馬謖と諸葛恪を似たもの同士だと思っているらしく、この二人は数少ない「知力が高いのに性格が猪突」な武将に分類される。
特に三國志11では性格・口調・特技が全く同じで、能力の総合値も1しか違わないという徹底ぶりだった。
もっとも二人からしてみれば「あんな奴と俺を一緒にするなよ」といったところだろうが。

悲しい評価ですが私は正しいと思いました。

どちらも「名前」に死んだからです。
しかも他人の名前に。

教訓
 歴史上人物など目標とするな。
 他人など目標とするな。
 たとえ親でも兄でも叔父でも他人と思い、目標とするな。
 ただ自分の道だけ目標とすべし。
 



余談ながら上のニコ百の記事は、どなたが書いたか分からないが秀逸です。
これに比べて諸葛亮の記事の浅いこと……小学生が書いているように幼稚。なんだこの差別(笑)。
正統派ぶっているWikipedeaでさえ、諸葛亮に関しては幼稚なフィクション話ばかりで酷いものです。これを見るとフィクション化されている人物は不幸と思う。周りの人々の記録を後世に伝えるための生贄か。

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吉野 圭(Yoshino Kei)
Posted by吉野 圭(Yoshino Kei)
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