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近ごろ例の中国サイトのウォッチャーのようになっているが。この記事も気になって読んでみた。

『諸葛亮の羽毛扇に秘めた物語』 http://www.epochtimes.jp/2018/01/30458.html

当たり前のことだが、これは民間伝承のファンタジー。史実ではないので鵜呑みにしないでください。
色々と突っ込みどころ満載な物語。
そもそも「羽毛扇」という小道具からして、常時持参している意味が私には全く分からないのだが。あんな邪魔なものを持って庁舎を駆け回ったり、膨大な書類を片付けるなどの仕事ができるのか? 『三国演義』が編まれた頃の中国官吏は、よほど優雅な暇人ばかりだったのだなと想像する。(冗談です。現実は大変な時代。庶民には大変さが伝わっていなかっただけだろう)

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 ⇒現実の孔明は「白羽扇」を持っていたか?2 (引用可、公開できるところ抜粋)

上URLから物語を引用していく。
諸葛亮の幼少時代については謎が多いが、中国ではこんな伝説が残っている。

 諸葛亮が8、9歳の時、まだ喋ることができなかった。家は貧しく、父は彼に近くの山で羊の放牧をさせていた。
諸葛亮は他の人々より多めに記録が残っているのに何故「謎が多い」と仰るのか分からない。
そして何故、貧乏キャラなのかよく分からない。笑
まあ筆者は共感するけどね。名家出身なのに貧乏、というあたり。9歳で「まだ喋ることができなかった」というところは理解不能だが。
その山の中に道教の寺院があり、白髪の道士が住んでいた。……道士は諸葛亮のことが気に入り、彼の病を治して言葉が話せるようにしてやった。「家に帰ってあなたの両親に、私の弟子になるということを伝えなさい。読み書きや天文地理、陰陽八卦、兵法などを教えよう。ご両親がそれに同意したならば、毎日ここに勉強しに来なさい。一日も怠けてはいけない」。

 それから諸葛亮は道士に弟子入りし、雨の日も風の日も、毎日山へ行って教え請うた。諸葛亮は勉強に励み、一度目を通した文章は全部憶え、一度聞いた話はしっかりと記憶した。道士はますます諸葛亮のことが気に入り、熱心に教えた。

ところがこの七、八年後。諸葛亮は雨宿りした寺で若く美しい女と出会った。女性に会うためその寺へ足しげく通ううちに勉強に身が入らなくなり、「考えもまとまらず、道士が話したことはすぐに忘れてしまうようになった」という。
道士は落胆して言った、
「私はお前が賢い子だと思い、必要とされる人間に育てるために病気を治し、弟子にしたのだ。数年前のお前は賢く、努力家だった。しかし、今のお前は怠け者に変わってしまった。こうなれば、いくら賢くても意味はない」
道士、理屈が通らず。笑
もし不憫だったとか、なついてきたので可愛くなったという理由であれば、「賢さ」などどうでも良いはずだろう。逆にもし始めから「賢さ」だけを求めたなら、わざわざ喋ることもできない子に目をつけないだろう。

道士が言うには、
「お前が親しくしているあの女性は、普通の人間ではない。彼女は、もともと天宮の一羽の鶴で、王母の桃を盗んで食べたために天宮から打ち落とされたのだ。人間の世界に来て美女に化け、勉強もせず努力もせず、ただ遊び暮らしている。お前は彼女の美貌に惹かれただけで、怠けている彼女の一面を知らなかったのだ。もしお前も彼女と同じようにふらふらしていれば、一生何も成し遂げられないだろう」
とのこと。
慌てふためいた諸葛亮が「どうすればいいですか?」と尋ねると、
「あの鶴は毎晩、夜中の1時に鶴の姿に戻り、天河まで飛んでいって風呂に入る。この時、お前は彼女の部屋に入り、彼女の衣服を燃やしなさい。この衣服は彼女が天宮から盗んできたもので、燃やしてしまえば二度と美しい女性に化けることができなくなる」…
「あの鶴は、寺が燃えているのを見れば直ちに天河から飛び降りてくるだろう。もしお前を攻撃しようとしたら、この杖で追い払いなさい。このことをしっかりと覚えておきなさい」
と言って杖を渡した。
諸葛亮は言われた通りにした。
寺が燃えると鶴は戻って来て、道士が言った通り攻撃してきたが、格闘の末に追い払った。
その時、諸葛亮の手元に残ったのが鶴の尻尾の羽毛だった。
諸葛亮は事件の教訓を忘れないよう、戒めとして鶴の尻尾の羽毛を扇子にして持ち歩き、勉学に励んだのである。
めでたし、めでたし。(?)

感想を一言。
――動物虐待、反対。
あと、女性に対する扱いも酷いと思った。
勉強が大事なら、普通に彼女へ「さよなら」と言うか、寺へ行かなければいいだけではないか。それも酷いかもしれないが相手に危害を加えるよりいい。まだ何も悪さをしていない相手の衣服を、何故に燃やす必要がある?

何ら情緒も愛もないストーリーに落胆する。
と言うより、日本の物語の完璧さに改めて気付き驚嘆した。
これに比べて、同じく鶴を登場させる物語『鶴の恩返し』の美しさ。あの優しさと愛情に溢れた物語は、思い浮かべるだけでも心が温まる。
言うまでもないだろうけど、私は遥かに『鶴の恩返し』のほうが好きだ。

羽衣伝説』ですら、これより遥かに美しい。
惚れた女の衣を隠して天へ帰れなくしてしまう男。考えようによっては罪深きストーカーの物語なのだけど、帰れなくなった天女の悲しみを眺め苦悩する男の心情など、妙にリアリティがあり共鳴しどころがある。少なくとも愛を描いている。

『羽毛扇伝説』には愛がなく、感動のしどころがない。「自分の出世のためなら動物や女性に対して酷いことをしてもいい」と言っているようで心が寒々とする。
これが教訓物語だとしたら、いったい何の教訓を学べばいいのか分からないな。
たぶん「勉強を怠けるな」ということが言いたいのだろうけど、子供たちはこの物語を読んで勉強に励むようになるか? 『アリとキリギリス』のように描かなければ無理だと思うが。

『三国演義』も含め、全体に中国人は物語の作り方が下手なのかもしれない。
設定は矛盾だらけ(いくらファンタジーでも整合性が無さ過ぎる)、弱者虐待を奨励するかのような場面を平気で描く、何より「能力主義・出世第一」という価値観がおかしい。
根底の価値観が人の道に反しているので、どこに感動すればいいのか、私などは悩んでしまう。

以前、『杜子春』原作を読んだ時も思ったが、唐代以降の中国人は出世が絶対正義であるらしい。愛など微塵も持たないで、冷徹に出世だけを目指すのが普通だったのか。
※「義」という気持ちは現代に至ってもまだ残っていて私は彼らのそういうところは好きだが

たぶん諸葛亮はどちらかと言えば『鶴の恩返し』的な人間であって、『羽毛扇』の主人公的ではないと思う。
唐代以降の人たちは人間観察すらできなくなってしまったのか。
なるほど、韋皋と諸葛亮の違いすら分からなくなってしまったわけだ。
やはり科挙がいけなかったのかな?
(科挙を創設した方を責めているわけではない。血筋に関わらず優秀な者を登用しようという公平な理念は素晴らしかった。しかし次第に受験戦争が過酷になっていき、富も絡んで欲得が第一となったので、科挙を目指す人々が「志」の意味を間違ってしまったのではないかと思う)

心が冷えてしまったのでもう一度、日本版『杜子春』(芥川龍之介)ラストを引用しておこう。
「どうだな。おれの弟子になつた所が、とても仙人にはなれはすまい。」
片目眇(すがめ)の老人は微笑を含みながら言ひました。
「なれません。なれませんが、しかし私はなれなかつたことも、反(かへ)つて嬉しい気がするのです。」
――お前はもう仙人になりたいといふ望も持つてゐまい。大金持になることは、元より愛想がつきた筈だ。ではお前はこれから後、何になつたら好いと思ふな。」
何になつても、人間らしい、正直な暮しをするつもりです。」
最高。こういう人間になりたい。


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吉野 圭(Yoshino Kei)
Posted by吉野 圭(Yoshino Kei)
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