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各記事に散らばっている諸葛亮(孔明)の性格特徴、人物像をまとめておきます。
2018/11/4 今さらの伝記(簡略版)を書いてみました。

〔目次〕
基本的なこと。まず、何の仕事をした人なのか
生い立ちと、大まかな生涯
歴史家による人物評
エピソードに表れた人格
見た目には、そんなに凄い感じじゃない
・(別記事)諸葛亮のホロスコープ分析はこちら
後書き。何故、この記事を書いたか

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■基本的なこと。まず、「何の仕事をした人なのか」

諸葛亮(しょかつ・りょう)/孔明(こうめい)とは、一言で言えば古代に生きた戦略家であり政治家です。
約1800年前、現在の中国がある地域に生きていました。

 名前についてはこちら。古代中国の名前、「姓」「名」「字」について。「諸葛亮孔明」は間違い

西暦200年頃の古代中国は魏(ぎ)・呉(ご)・蜀(しょく)の三国に分かれて戦争をしていました。
そのうちの蜀という国で、諸葛亮は防衛部門のトップを勤めました。劉備が蜀の皇帝となってからは首相を勤めています。

フィクションの『三国志/三国演義』での彼は、奇想天外な作戦を立てて敵を翻弄する天才作戦家として描かれているようです。
(筆者は『演義』系フィクションを読んだことがないので正確なことは分かりません、すみません)
『演義』という書物は彼の死後1000年後に編まれたものですが、実は生きている当時から「天才軍師」として騒がれ敵国に恐れられていたことはあまり知られていないようです。『三国演義』のベースとなる民間伝承は、彼の死後だけではなく生きている間から語られていたものと思います。
 参考:孔明を天才と祭り上げたのは司馬懿ではない
ただ本人は下で書く通りいたって地味な人物でした。

なお、役職と最終地位名を正しく言うと、「軍師(ぐんし)」および「丞相(じょうしょう)」となります。
「丞相」とは大臣のトップ、首相のことです。

「軍師」という役職のほうは、現代日本人には理解するのが少し難しいと思います。と言うのも、日本の歴史創作で使われる「軍師」または「参謀」という用語が、中国における現実の「軍師」と全く違うからです。
まず、日本で使われる「軍師」や「参謀」の用語イメージを頭から消し去ってください。
古代中国で「軍師」とは、戦場で殿様の耳に作戦を囁く者のことではありません。特に軍師職トップが戦場へ同行することは滅多にありませんでした。
三国時代当時の仕事内容から言えば、「軍師=国防省の職員」等をイメージするのが正確です。つまり国家戦略や、戦争全体の作戦を考える軍事専門家です。
諸葛亮の役職「軍師将軍」というのは、その専門家たちをまとめる長官(トップ)ということになります。職場は戦場ではなく、内勤のデスクワーク。官公庁の庁舎に閉じ籠もっている官僚さんをイメージすると正しくなります。
追記: 諸葛亮個人の立場としては、防衛府の長官・国家政策立案の他に、劉備直属の補佐役でもありました。だから現代俗語の「ナンバーツー」と呼ぶのが相応しく、独特なため正式な中国の地位で表現するのは難しいかもしれません。通常、中国王朝でこのように一人へ権限が集中することはあり得ないので稀有なことのようです。

だからよく、「諸葛亮は一度も作戦らしい作戦を立てたことがない」などと得意げに語っている三国志マニアがいますが、その人はフィクションの知識しかないお子様なのだと思って間違いないでしょう。
「戦争」という言葉が戦場だけを指しているのだと思うのは誤りです。
戦争とは戦時中における国家の営み全てを指す用語です。従って戦場に同行していなければ「作戦を立てていない」のではありません。現実には、蜀の国家戦略全てに諸葛亮が関わっていたと言えます。
 詳細:軍師とは何か

■生い立ちと、大まかな生涯

諸葛亮は西暦181年8月19日出生(光和4年7月23日生)。現在の山東省臨沂市(徐州琅邪郡陽都県)出身です。

諸葛家は代々役人を勤めた名家。祖先は諸葛豊。
父は珪、兄は七歳上の瑾、弟は均。亮と均は同じ両親の子ですが、瑾は異母兄だと私は考えています。
(「諸葛」は母方の姓と考えられます。そのため瑾について「祖先は諸葛豊」との記述がないのです。ウィキペディア等によく書かれる母親の姓はフィクション小説のものだと思われます。→異母兄と考える理由

名家の子として幼少期は何不自由なく育ちますが、幼い頃に父が死亡。
均とともに伯父の玄に引き取られ、12歳頃には伯父とともに彼の任地である南昌(長江を越えた南方)へ移住しました。
しかし養父である玄も間もなく死亡。(玄は豫章太守に就くが、朱皓との戦に敗れるか民衆の反乱に遭って死亡した。詳細不明)

伯父の死後、襄陽の親族と距離を置き、隆中という里で自給自足の思索生活を始めます。
亮が二十代半ばの頃、近隣の樊城に有名な武将である劉備が滞在していました。私の推測では親族からうるさく奨められ、劉備に目通りするため樊城へ行きますが、ここで劉備と言葉を交わし意気投合します。その後、三顧の礼を受けて出仕することになりました。
 参考 →三顧礼の真相。本当にあった? なかった? 論理的に考えてみる

出仕後は劉備の補佐役・軍師として、劉備陣営の全般的な作戦立案を担当します。
フィクション小説のように出仕直後からいきなり活躍したわけではありません。ただし年を経るごとに、次第に重要な役回りを持つようになっていったと考えられます。

大きな戦闘や入蜀~国家樹立までの年表、詳細は省きます。年表だけはウィキペディアにも間違ったことは書かれていませんので参照してください。
以下の記事ではフィクション小説で誤解が浸透している話のみ、史実をご説明しています。 

 →三国志フィクションで誤解が浸透している話、本当のところ

劉備が王となり、後に蜀漢皇帝の座に就いたとき、亮は劉備から丞相の地位を賜っています。
西暦223年に劉備が亡くなった後は、後継の劉禅に従い、丞相として国家実務の全権・全責任を負いました。
その後、自ら兵を率いて南方を平定。
漢王朝復興のため数度にわたり北伐を行いますが、果たすことなく。
西暦234年9月末、満53歳で陣中にて死亡。過労死と言われています。
死後、敵将であった司馬懿が陣を見回り、「けだし天下の奇才なり」と称したことが今に伝わります。

国内では死後に亮の財産を調べたところ、自分で申告していた通りの僅かな資産しか持っていなかったことが分かり、人々は衝撃を受けたそうです(独裁に近い権力を持ちながら私腹を肥やさなかった人は、めずらしいため)。ということは、「天下の奇才」と言うよりは「天下の正直者※」との評価のほうが正しい気がします。 

吉川英治『諸葛菜』:「実に、愚ともいえるほど正直な道をまっすぐに歩いた人であった。」


■歴史家による人物評


陳寿など近い時代の歴史家評によれば諸葛亮の性格は次の言葉でまとめられるようです。
・忠義、公平、厳粛、無私
・法の運用において私情をはさまず、「忠義をつくして人民の利益をはかった者には、意見の対立した者でも厚く賞し」、「法度にそむき職責に怠慢な者は、親族であってもかならず処罰」するなど徹底的に公正だった
・臨機応変が不得手
・独特の発想をした(新奇の工夫が得意だった)
陳寿評の原文訳はこちらにあるので、参考にしてください。


■エピソードに表れた人格


歴史家の評は素晴らしい。しかし人間の個性は、何気ないエピソードに強く表れるもの。
この項目では各種逸話に表れた諸葛亮の性格を分析してみます。

・若い頃のエピソード:
学習法として、重箱の隅を突くような暗誦を嫌い、テキストは一度読んだきりで読み返すことはなかった。学友たちが細かい学習にこだわり議論しているのを眺め、「君たちはそれだけ懸命に勉強しているのだから、少なくとも県知事にはなれると思うよ」と言った。
…これは本人が後に「県知事」を遥かに超える出世をしているため、「自分はお前らより優れている」との嫌味で言ったものと解釈されています。
が、私が思うに、ただ本心から「君たちは県知事になれる」と思ったのでそう言っただけでしょう。「必死で細部まで勉強している人たちは偉いな。自分には真似できない」という素直な感想です。
そうであっても、この態度はいけませんね。子供っぽい。
内心、出世にこだわり必死で勉強する人々(ガリ勉)を気の毒だと思う気持ちがあったのは否めないと思います。

・わりと細かかった晩年:
しかし孔明という人間は細かい仕事も自分でやらなければ気がすまない性格でした。
「襄陽記」にこんな逸話が載っています。
諸葛亮がある時金銭や穀物の出納簿を自ら調べていると、
楊顒という丞相主簿に「自分の仕事をやれ。他人の仕事を奪うなよ(実際はやんわり言ってます)」と窘められた、というお話です。
出典は忘れてしまいましたが、諸葛亮が武器の管理の不十分さを怒っていたという話もあります。
同じ丞相職をしていた曹操からはあまり聞かない細かい指摘です。

→『諸葛亮の死因は過労死らしいけど、一体どんな仕事してたの?』から再引用
「孔明は細かい」と有名になった原因のエピソード。
>諸葛亮が武器の管理の不十分さを怒っていたという話
は、史実だと思います。
命がけの軍事で怠慢を許せないのは当然のことですが、武器管理の現場に総司令官が乗り込んで行くのは……まずかったのではないでしょうか。現場担当者はたまったものではなかっただろうと想像します。

・でも、自分が悪いと思ったら素直に謝る: 
上記事の
楊顒という丞相主簿に「自分の仕事をやれ。他人の仕事を奪うなよ(実際はやんわり言ってます)」と窘められた
という事件の後、亮は
「その通りだね。申し訳ない」
と謝ったそうです。

通常、権力者は下位の者に意見されたら怒るのかもしれません。
ネットの反応を見ると、「お偉いさんなのに謝ってんじゃねーよ」と諸葛亮を非難する声があるのですが、当時も周りから「おかしい」と思われたでしょう。
このエピソードからは、諸葛亮が自分に意見したというだけのことで他人を断罪するタイプではなかったことが分かります。人や立場ではなく、意見の内容を客観的に判断したと言えます。
しかしおそらく自分がそうであるために、他人も全てを客観的・合理的に判断できると考えていたはずです。
上下も立場も気にせず誰に対しても平等に接し、「合理」優先で意見したために、生じた軋轢は多々あったと思われます。

・友人でも処罰する: 
法的安定性を何より重視しました。→法的安定性とは
泣いて馬謖を斬る」の故事はとても有名のようですが、その行いから「怖い」「冷血ロボット」のイメージがあります。
「冷血ロボット」の評価は正しいのかもしれません。
ただし実際は、法文に対して杓子定規というわけではなく、諸葛亮本人が「処罰は罪に応じて適宜に」と述べている通りケースバイケース(法理論に基づき・過去の判例相当に照らし)で判断していたものと思われます。
なお現代の歴史家が、「諸葛亮は保身のためにライバルを次々と粛清していた」と言っていますが、捏造の誹謗中傷です。そのような記録は一切ありません。

・自分が悪いと思ったら自ら降格もする:
上に同じ。
友人であろうと、自分自身であろうと、対応は同等。
立場ではなく「実際に犯された罪・責任」という中身で「適宜」の処罰を考えました。
(現にロボットと呼ばれる筆者が言うのも何ですが)まるでAIです。

・でも実際は、泣いてばかりいる:
やたらと「泣いた」エピソードが多い。多過ぎる。
情にもろいのか、ロボットなのかはっきりして欲しい。
(本人的にはこの「泣いた」エピソードの多さ、恥ずかしいでしょう……)
おそらく情に弱いくせに行いがロボットなので、なおさら辛かったのだと思います。

こんなカルタにまでなっている。痛い。
「意外とよく泣く名軍師」
→人生は格言だ!~横山光輝「三国志」武将かるた

・反乱を起こした少数民族と対等に戦い、対等な話し合いをした:
蜀の南方で少数民族の反乱が起きたときに、諸葛亮は自分で軍を率いて反乱を治めました。
そもそも少数民族の反乱に国家の首相が自分で出向く、ということはあり得ない非常識です。ただ、少数民族だろうと蜀だろうと同じ「集団の代表者」ですから、代表同士で話をしなければならないというのが諸葛亮の考えでした。
軍力は対等ではありませんので当然ながら蜀が圧勝し、敵方のリーダー孟獲は捕らえられます。しかし、諸葛亮は彼を捕虜とともに解放しています。
その後、孟獲は幾度も蜀軍に挑むがそのたびに捕らえられ、同じく解放されたことから諸葛亮に心服したとされています。

このエピソードは「七度捕らえ七度放す(七縦七擒)」という諺になっています。
七回というのは少し大げさだと思いますが、捕らえた孟獲と捕虜を解放したのは間違いなく史実です。
孟獲が話し合いに応じたのは、反乱を起こした自分たちを人として扱って解放したことと、何より「首相が自分で話し合いに来た」ということが大きかったのではと思います。

なおこの話は馬謖が進言したことになっていますが、諸葛亮の長年の考えも同様のものであり、信念として一貫しています。
「心を攻めろ」
とは懐柔策を意味するのではなく、相手を人間として対等に扱う、という意味です。
現代中国の首脳も「心を攻める」の真意を理解し、少数民族に対する暴虐な行いをやめるべきと思います。
 関連する話。韋皋という「孔明の生まれ変わり」


■見た目には、そんなに凄い感じじゃない


これは載せるかどうか迷いましたが、「孔明ってどんな人?」という質問に最も正確に答えるエピソードだと思うので追加しておきます。

三国時代が過ぎて晋の時代。
東晋の武将、桓温という人が蜀に入ったとき、諸葛亮が生きていたときに下級役人を勤めていたという百歳を超える老人の噂を耳にしました。
桓温は興味を覚え、この老人を招いて尋ねています。
「諸葛丞相は、今で言えば誰と比べられるか?」
すると老人は首を傾げてしばらく考え込んだ後、こう答えました。
「諸葛丞相が存命中の時はそれほど特別で偉そうな方には見えませんでした。(質問者の左右に立つ家臣たちを見て、)あなたの横にいる方々のほうがよほど立派で偉い方のように見えます。しかし諸葛丞相がお亡くなりになられてからは、あの方のような人はこの先、もう二度と表れないのではと思うのです」

このエピソードは、『説郛』に収める殷芸『小説』の中に収められているそうです。ウィキペディア(アーカイブ)
西暦347年の出来事とありますが、諸葛亮は234年に死んでいますので、死後113年も過ぎています。老人が二十歳で役人を勤めていたとすれば133歳です。たまにとんでもなく長寿の人はいるからあり得なくはないものの、事実かどうか微妙な年齢です。もしかしたら年代やシチュエーションはフィクションなのかもしれません。

しかし内容はフィクションではないと思います。
実際に若い頃、諸葛亮の近くで勤めていたことのある誰かが現実に語った話でしょう。私が長年、記録と向き合って来たなかで、最も真実を感じて感動を覚えたエピソードです。

諸葛亮はおそらく、
>それほど特別で偉そうな方には見えませんでした。
と思えたでしょう。
どちらかというと気弱で地味なタイプです。だから見た目には偉そうでも凄そうでもなく、どこにでもいる下級役人のように見えたのではないでしょうか。
(上の占星術で見れば内面は変人なので、少し付き合えば「変わっている」と感じるかもしれませんが)

つまり現代で言うところの、「全くオーラのない」人です。笑
だからおそらく「スゴイ人」を期待して諸葛亮に会う人は、ひどく落胆したのではないかと思います。気の毒に。

しかし
>諸葛丞相がお亡くなりになられてからは、あの方のような人はこの先、もう二度と表れないのではと思うのです
というところ、諸葛亮は嬉しいでしょう。

「凄い人だ」と褒めるのでもなく崇めるのでもなく。
対等に、ただ一個の人間として存在を認める。
これほど高度な人間の誠実が表れた評価は、他の歴史人物の記録でも見たことがないと思います。

心が温かくなるエピソードでした。
諸葛亮の魂はこの無名の老人の評価によって、救われたと思います。


【参考文献】

・吉川英治著『諸葛菜』/吉川英治著『諸葛菜』について引用と感想
・陳寿『蜀志~諸葛亮伝』及び裴松之註(特に、陳寿評)
諸葛亮は相国(大臣)になると、人民に安居楽業を保証し(国民に安心の暮らしを保証し)、礼法や規律を明確にし(規則などをはっきりと示した)、官吏の権限・職責を規定し、主君の裁断に従って、誠心を披瀝し、公正な政治を行った。
 忠義をつくして人民の利益をはかった者には、意見の対立した者でも厚く賞し、法度(法律規則)にそむき職責に怠慢な者は、親族であってもかならず処罰した。進んで罪を認め反省した者は重罪であってもかならず許し、言葉巧みに言い逃れようとする者は軽罪でもかならず処刑した。善行には些細なことでも顕彰しないことはなく、悪行には微小なことでも処分しないことはなかった。各種の事務に精通し、日常業務の基本を掌握し、言行一致を要求して、虚偽の言行をなす者とは同席しようとしなかった。
 かくて、蜀の国内では、みながかれを敬愛し、厳格な政治が行われたにもかかわらずこれを恨む者がなかったのは、かれの配慮が公平で、賞罰が厳正だったからである。かれこそはまことに政治の本質を理解していた人材で、管仲・蕭何に匹敵する者といえよう。
 しかし、連年、蜀の軍勢を動員しながら、ついに目的を達成することができなかったのは、おそらく臨機応変の戦略戦術に長じていなかったからではあるまいか。

/「中国の思想」刊行委員会 翻訳

・他、知恵袋より史実に基づく真っ当な回答を引用
 性格に関する回答、まとめ記事
 諸葛亮は無能VS有能の争いはいつまで続くのか 1
 諸葛孔明というキャラクター、好きか嫌いか?
 (要パス記事)諸葛亮は、気に入らない人物は左遷したり粛清したりする人物だったのでしょうか?

・筆者考察。
 諸葛孔明は石田三成に似ている? 他に似ている戦略家を考えてみた

・トップサイトの評価
(個人的にメモしておきたいと思ったので引用させていただきます)
諸葛亮はこれまで見てきたように、蜀を建ててその勢力を拡大し、魏とも戦えるだけの実力を備えることには成功しました。

これは諸葛亮の政治家としての能力のたまもので、住民たちは諸葛亮の統治を歓迎し、その死から五百年がたっても諸葛亮の事績を讃え続けていた、という記録が残っています。

しかしその遠征事業は様々な条件の不利によって成功せず、客観的に見るならば、彼は地方軍閥の長になったに過ぎず、いたずらに国の分裂を長引かせただけだと見ることもできるでしょう。

にも関わらず諸葛亮には大きな人気があり、過去から現代に至るまで、多くの人が諸葛亮について語っています。

それがどうしてなのかと考えた時に、ひとつの話を思い出しました。

英雄とは何か、というテーマの文章の中に「人が自己保存を第一に考えるのをやめ、何らかの思想に自らを捧げた時、人は英雄としての意識変革をとげる」という記述があります。

諸葛亮が劉備から受け継いだ漢の復興という志を抱き、その実現のために全てを捧げたからこそ、後世の人々は、そこに英雄の心があることを見出し、どれだけ時代が過ぎても、その存在を気にかけずにはいられないのかもしれません。

優秀な政治家も軍人も歴史上には数多くいますが、諸葛亮をその中で際立たせている要因は、大望のために私心を捨て、自らの命をも惜しまずに尽くした献身の中にこそあるように思えます。

諸葛亮に志を託した劉備の存在と合わせて、両者の物語はこれからも語り継がれていくことでしょう。

https://app.k-server.info/history/shokatsuryou/10/


■後書き。何故、この記事を書いたか


近ごろ、このブログに「諸葛亮(または孔明)+性格」の検索ワードで来られている方がいるようです。
この人物名では唯一の来訪。希少過ぎて感謝。
しかし実はこのブログに、諸葛亮の性格特徴がすぐに分かる記事はありません。せっかく来られた方に申し訳ないので、この記事でまとめておくことにしました。

何故、今まで人物像に関する分かりやすい記事がなかったのかというと。
私には彼の性格を短文でまとめることが困難だからです。

現に私はよく友人や家族などから
「孔明ってどんな人だったの?」
と聞かれることがあります。そんなとき、「うっ…… わ、わからない」と答えたきり言葉に詰まり固まります。
面接試験だったら即、落ちてしまいますね。笑
これだけ長年関わっているのだから「わからない」はずはないのですが、逆に深く関わり過ぎて答えられない。答えづらい。
やはり、陳寿など偉大な歴史家の記録を借りるしかなかったようです。

【本音。】
私としては最近この人物の話ばかりしていて、恥ずかしい。でも頑張って書いているのは、読者様サービスのためと、政治的な黒い思惑による人物評の歪みを知ったからです。
政治が、純粋なる人々の精神文化を汚すことを許してはなりません。そう思って亮の真実を書くことを自分に強いている次第です。
詳細:⇒『現代的“諸葛亮後世評価”考(諸葛亮の「後世評価」について) 』

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吉野 圭-Yoshino Kei
Posted by吉野 圭-Yoshino Kei


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