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炎上ニュースはあまり見ないのだが、のぶみ氏という男性の絵本作家が書いた歌詞に批判が集まっていて、批判の理由が気になり関連記事を読んでいた。

それで出会ったのが、『ママの毎日』というブログ記事。
「男性絵本作家はこれをパクったらしい」とのことで被害記事として引用されていたのだけど、思いがけずこの文章に心が震えた。
人を吊るし上げるための炎上ニュースで、これほど感動させられる文に出会えるとは思わなかった。きっかけはともかく、出会いに感謝。

素晴らしいので長めに引用させていただく。
独身の頃

ヒールの靴が好きだった
お酒は苦手だったけれど友達と過ごすお酒の場の楽しい雰囲気が好きだった

好きな音楽はミスチルでいつもウォークマンに入れて好きな時に聴いていた
電車の中でゆっくり本を読むのも好きだった

お風呂では半身浴をして
美容院には2ヶ月に1回は必ず行っていた

お化粧するのも好きだった
1人で行く映画館が好きだった

流行りの雑誌を買い
流行りの曲を聴き
流行りの服を着て
流行りの場所へ好きな時に出かけた。


そんな私は 今

泥だらけのスニーカーを履き

子どもたちの着替えやオムツが入った大きなバックを肩にかけ

ちゃんとした化粧もせずに

髪を一つにくくり

毎日
子どもたちの手を繋いで公園へ散歩に行っている。


聴く曲はミスチルからアンパンマンマーチに変わった。

眺めているのはファッション雑誌から
子どもの母子手帳や幼稚園からの手紙に変わった。

考えていることは
今日の夕飯のメニューと
長女が幼稚園から帰ってきたあとのおやつ、お風呂、夕飯の流れの確認。

今日の天気で洗濯物が乾くかどうかと
明日の長女の遠足が晴れるかどうか。

最近眠くなると激しくぐずる長男を昨日つい怒ってしまったから
今日は早く寝かせてあげよう。
今日は怒らないでおやすみをしよう。

そんなこと。

毎日 押し流されるように迫ってくる日常があるから

キレイに片付いた部屋も
大の字で朝まで眠れる夜も
ゆっくり塗れるマスカラも

なんだかもう思い出せない。


そう。

思い出せないから

私たちは つい 忘れてしまうのだ。


この毎日が

ずっと続かないということを。


1人でゆっくりお風呂に入れるようになったら

湯船の中 あなたと向き合い数を数え

柔らかく響いたあなたの声を

私は思い出すのでしょう


1人で好きなだけ寝返りをうち眠れるようになったら

どこまで寝転がっても隣にいないあなたのぬくもりを

私は探すのでしょう


好きな音楽のCDを好きなだけかけられるようになったら

この部屋の中に溢れていたあなたの笑い声を思い出して

私は泣くのでしょう


好きなだけお化粧に時間をかけられるようになったら

私の洋服をひっぱり
膝の上によじ登り
私のやることなすことをお邪魔してくるあなたのその小さな手を思い出して

私は泣くのでしょう


好きなだけヒールが履けるようになったら

笑い転げるあなたを追いかけて走り回り
泥だらけになって遊んだあの空を思い出して

私は泣くのでしょう


自分とパパの洗濯物だけを回す日々が訪れたら

砂まみれの靴下も
おしっこを失敗したズボンも
牛乳をひっくり返したシャツも

洗濯カゴにないことを知って

私は泣くのでしょう


あなたの足音がしない部屋の掃除機をかける日が訪れたら

粉々になったビスケットの食べこぼしも
小さなおもちゃの部品も
あなたの細い柔らかい髪の毛も落ちていないことを知り

私は泣くのでしょう


1人で好きなことを
好きな時に
好きなだけ出来るようになったら

どんな時も「ママ」「ママ」と私を呼び

どんな時も私のことを探しているあなたの姿を思い出して

私は泣くのでしょう


一体いつまであるのかな

一体 いつまでここにいてくれるのかな


そして

そんなことを考えているうちに

また 今日も終わってしまった。


私たちの日常は「子どもが側にいる『今』」だから

子どもから離れて1人になれた瞬間が特別に感じて

好きなことを堪能できる喜びを噛み締めるけれど


でも 自分の人生を考えてみたら

特別なのは

本当は 子どもが側に生きているこの毎日の方。


でも 私たちはそれを忘れてしまう。

なんだか ずっと続くような錯覚を起こして毎日を過ごしているけれど

大変に思えるこの毎日に

数えきれない 愛しい が散りばめられていることを

私たちは いつか知るのです。



子どもたちが

この世に生まれてから今日まで

ママとパパのために
全身を力いっぱい使って思い出を撒き散らしてくれていたことに

私たちは 過ぎてから気付くのです。


ママの毎日は

ママでいられる毎日です。


私たちは この命が尽きるまで

どんなに子どもと離れていても子どもを思い、心配し、愛し続ける 子どもたちの母親だけれど


でも 子どもたちの側で『ママ』でいられることの出来る日の

なんて短いことかを

いつか思い知るのでしょう。


今日もあなたは

屈託のない笑顔で振り向き

「ママ!」と言って

両手を広げて こちらに飛び込んでくる。


忘れるものか。

絶対に。

絶対に。


あなたの前髪を切り過ぎて笑った昨日を。

あなたを怒って自分に涙が出た今日を。

あなたの寝相に笑った夜を。

あなたが摘んでくれたシロツメクサの白さを。


あなたに許された私を。

あなたがいてくれるこの毎日を。


私は 絶対に忘れない。

 -LICOオフィシャルブログ『ママの毎日』より
……堪えられなかった。
「忘れるものか。絶対に。絶対に。」
で、泣いてしまった。

私は、今の人生で親になることが叶わなかった人間。
だから親の気持ちというものが、分かるとは言えない。言う資格がないと思う。

しかし状況は遥かに違うのだけど、人を想い、人のために生き、
「この命 尽きるまで」
と愛を捧げきる人生の幸福は分かる。

それは誰かに強いられてのガマンではないし、誰かに褒められるためにやっているわけでもない。
肉体があるのだから辛さや苦しさを感じるのは致し方ないこと、命が本当に尽きてしまったのも肉体には限界があるから仕方ないことだった。
ネガティブなことが山ほど浮かぶのも、弱い人間なのだからやむを得ないだろう。

だけどその思い出は決して、何ひとつ怨嗟ではないのだよね。

何よりも、人を愛して全力を尽くすのは幸せなことだったと思い出す。
それ以上の幸せはこの世にはない。

(ここで言う“人”は、我が子でも国民でも同じだと私は思う)

そして苦しみも忙しさも過ぎ去ってしまった後は――泣くんだ、やはり。
愛する人たちが傍にいた、あの苦しくも幸福な日々を思い出して。

自分のためだけに時間を使い、自由に散歩ができて、好きなだけ睡眠を貪ることのできるこの平和な日々も確かに快適なのだけど。
ふと寂しさを感じる時、かつての苦しい日々は幸福だったのだと気付く。自分はなんという幸福な人間だったのかと。
この時が一番切ないな。
過ぎ去ったものは決して帰らないし、自分自身も決して帰ることができないのだという事実を思い知る瞬間が切ない。

だからこそ、愛する人が傍にいる時間を大切にしなければと思う。
「明日があるから今日を大事にしなくていい」
「今の人生なんて棄ててしまっていい」
などという、愚かでくだらないことを言わないでくれ。
今日この時こそが、かけがえのない時間であることを知って欲しい。どんな「今」であっても二度と戻っては来ないのだということを、どうか分かって。

戻らないから愛しい。
だからこそ、「絶対に忘れない」と言える。
仮に記憶を失ったとしても、愛しさは消えないのだ。
永遠に持ち越すことができるのは、人を愛した想いだけだ。


……それで、嫌な世俗の話に戻って申し訳ないが、炎上した絵本作家さんはこの「二度と戻らない日々が愛しい」という気持ちがよく理解できなかったのだと思う。
実際、パクりかどうか、つまり剽窃かどうかは微妙なところ。
確かに歌詞全体の構成も似ているので、このブログに感化されてイメージが湧き『あたしおかあさんだから』の歌詞を書いたことは想像できなくもない。
ただそこまでは創作家としてよくあり得ること。完全に依拠したという根拠がなければ、著作権侵害とするには難しい。(全く不可能ではないが)

だが絵本作家さんの問題は、パクりかどうかではなく、不十分な理解にある。
もし仮に正当な経緯で
「このブログからイメージして歌詞を作って」
というリクエストがあったのだとしても、あの中途半端な歌詞では原作者に対して不誠実と言える。

「あれではただの恨み節」
「お母さんはガマンしているだけのネガティブな存在なの?」
「母親がガマンして子育てすることを賛美している。女性差別だ」
と怒られるのも無理はないかもしれない。
たぶん彼にとっては他人事で、浅い理解でヒアリングした言葉だけ並べてしまったことが失敗だったと思う。

これは単に彼が創作家として力がなかった、というだけの気の毒な話なのかもしれないが、39歳の男性にはあの気持ちを理解するのは難しいかもしれない。
「この命 尽きるまで」
などという想いは、他人事として絶対に書ける話ではないのだ。

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吉野 圭(Yoshino Kei)
Posted by吉野 圭(Yoshino Kei)
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