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遺伝子での記憶移植についての話、続き。

私は最近
「もしかしたら魂の記憶と、肉体の記憶は別なのかも」
との考えを強めている。

何故そう思ったのか。第一の理由は、私自身の過去世記憶に肉体に関するものがないので。
“暴力をふるわれたときに痛かった”
“殺されたときに苦しかった”
ということは覚えているのだけど、痛みの感覚は思い出せない。
それとこれは肉体に関心が低い私だけなのかもしれないが、食事など生理的なことについても一切記憶がない。

第二の理由は、今生きていている間でも肉体の痛みの記憶は忘れてしまうので。
たとえばつい一か月前に死ぬ想いをしたのに、その苦しみの感覚をあまり思い出せない。
“死ぬかもしれないという絶望を感じた”
という心の感覚と恐怖は強く覚えているのに、痛みを再生できるわけではない。(再生できたら困る)
これが私だけに起きている現象ではない証拠に、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」という有名な諺がある。事実、熱い物を飲んでも喉を過ぎれば感覚が思い出せなくなるな。
皆さんも死ぬ想いをしたときの苦しみについて、その感覚自体を再生できるわけではないのでは? 
ただ、また同じ苦しみが始まったときに「これはあの時と同じ苦しみだ」と思い出す。死ぬかもしれないという条件への恐怖は、心や頭が記憶を思い出す前に身体が反応する。まさに、「身体で覚えている」という感じ。
これはもしかしたら、ジャンボアメフラシへの実験通り「遺伝子に記憶されている」状態を表しているのではないか? と思った。

前回の『何故、前世記憶では肉体に関する習慣はカットされるのか』では、重要な記憶だけ抜粋して思い出したいから肉体に関する記憶はカットされるのだ、と書いた。
確かにそういうことはあるのだけど、もっと根本的な理由のせいかもしれない。

魂に刻まれる記憶と、肉体記憶は別 という根本理由。

実はこの推測を前回も書きたかったのだけど、「魂と肉体は別々」と書くのは語弊があるかなと思って控えた。
生きている間は、心と身体を一体と考えなければ健康に支障が出る。それに事実でもないと思う。
少なくとも生きている間は魂は肉体と完全に融合し、切り離すことができない。
魂だけが優位となり身体をないがしろにしていると、身体が壊れてしまう。せっかくお借りしている肉体に申し訳ない。
(私は今まで身体をないがしろにしがちな人間だったので、反省してこう書いている)

でもジャンボアメフラシへの実験で、改めて確信を強めた。
やはり、魂と肉体はいずれ別々になってしまうのだろう。
だから肉体が滅んだとき、その肉体での記憶は魂に受け継がれないのだと考えられる。
昔の人が「魂魄」と呼んだり、哲学者が「心身は別だ」という説を唱えたのは真実だったのか。

――これはなんとなく、馬と人間の関係に似ているか?
現代で言えば、車と運転手。
アニメ的に言うなら、ガンダムとアムロ。いや、乗っている間は感覚も一体化するという点、エヴァンゲリオンとシンジが最も正確に表している? 

私の場合、魂と肉体は別だと思うと、かえって肉体を大事にせねばと思える。
「自分のもの」
だと思うから肉体をぞんざいに扱いがちなのであって、お借りした別の生命体だと考えれば粗末にはできない。
まして、自殺など決してやってはいけない。それは他者に対する殺人と同じこと。
「自分の命なんだから、死ぬのも自分の勝手。どう扱ってもいいでしょ」
と言うのはやはり間違っている。
始めからの人生計画で、どうしてもやらなければならない仕事があるなら、肉体へ無理をさせるのも承知で遂行しなければならないと思う(かつての私がそうだったように)。でもその時は肉体へ詫びて、感謝しなければな。
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吉野 圭(Yoshino Kei)
Posted by吉野 圭(Yoshino Kei)
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