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ニュースサイトで取り上げられていて、こんな掲示板があることを知った。
ここを読み、意外と「死ぬことが怖くてたまらない」人たちが多いのだと知って驚いている。

 ⇒死にたくない人が集まるトピ
1. 匿名 2018/05/08(火) 22:53:31
死にたくないです。死後のことを考えるとゾッとします。死んだら何も感じなくなるみたいですが、永久に目の覚めない暗闇のようで怖いです。死んだら肉体はなくとも魂の存在となり自我のある状態でこの世を見ていたいです。とにかく死んで明日がこないこと、目が見えないこと、時間が進まないこと、永久に自分に戻れないことが怖いです。死なない特別な存在に自分はなりたいです。なぜ人は死がこんなにも恐怖で仕方がないのでしょうか

死ぬのは怖いだろう誰だって。
生物である限り死ぬのが怖くなければ生き残れない。死を避ける気持ちは正常で健康的な心理。

ただ、
“死ぬことを想像すると恐怖で夜も眠れなくなる”
という、タナトフォビア(死恐怖症)まで行くと心の病気と言える。
その重度の恐怖心は、パニック障害や精神障害の発症へつながる。

私が上の掲示板を見て驚いたのは、現代ではこの心の病を既に発症している人がとても多いということ。
ここまで多いとは知らなかった。
小学生まで死恐怖症を発症しているという話に驚く。幼い頃から死の恐怖に苛まれなければならないとは。長い人生のほとんどを死の恐怖に怯えながら過ごさなければならないなんて……想像するだけで辛い。

どうしてこれほどにも「死」を恐れる人が現代に多いのか?
言い古されてきたがやはり自明のこと、唯物思想のせいではないだろうか。

以下、まとめずに書きたいことを全て書くので、読みたいところから読んでください。

〔目次〕
発狂した唯物論者の教義を信じさせられている、現代人の不幸
死後は無だと信じている人が何故、死が怖いのか
物に興味のない人が唯物思想を信じると、死は怖くないが自殺志願者となる
死恐怖症も、自殺志願も原因は同じ
半端な輪廻思想も救いとはならない。輪廻の結論として、一瞬の大切さを知ること

☆この記事では便宜上「発狂」という言葉を使いましたが、差別の意図はありません。


■発狂した唯物論者たちの教義を信じさせられている、現代人の不幸


近代西洋でタナトフォビアの末に発狂した人々を眺めていると、たいてい形而上否定の唯物論者だ。
しかもその人たちは子供の頃、強烈に神を信じていた人々。
神を信じ過ぎた反動から神を心底憎み、心の中で神を殺したので
「死んだら行き場がない」
と自分で思ってしまった。

彼らは「死後は無」と言うのだが、物欲が強いから無となることも怖いという。物質しか拠り所のない彼らにとって、積み重ねてきた「物」が消えうせることが何より怖いのだ。
その結果、彼らは死ぬことを異常に恐れる。
死が恐怖だから肉体にしがみつくことになり、「超人」となることを願った。ところが、永遠の命を得ることは現実には不可能だ。
(最近欧米で流行の「トランスヒューマニズム/超人運動」は、まさに物質世界で永遠の命を得、超人となることを実現させる試み。しかし機械の身体であろうと、物質である限り、永遠に存在し続けることなど不可能だろう)

死ぬことは100%確実。それなのに死んだら行き場がない――永遠の無、永遠の闇に閉じ込められるしかない。
そう信じた唯物論者たちは、恐怖のあまり発狂した。

いっぽう東洋人は抑圧者としての「神」を知らない。地上と神との対立を経験したこともない。
つまり、東洋には唯物思想の前提としての「人間を縛り抑圧する創造主(神)」「創造主が支配する天界」という概念がなかった(雲上に神々は存在していたが、地上との対立構造としての天界ではない)。
だから東洋人は「神を殺す」必要もなかった。
それなのにわけもわからないまま
「神は死んだ」
という言葉だけ輸入し、唯物思想を猿真似した。

東洋人よ、いったい何に反抗しての「形而上サヨウナラ」なのか? ※
神の抑圧という前提もないのに神を殺した東洋人の態度は滑稽極まるが、それはともかくとして日本・東洋を含めた現代世界一般、
「唯物思想だけが正しい」
「目に見える物以外の存在を信じる人は精神異常者か、バカ」
ということにされたのは事実。現実に精神異常となり入院する運命にあるのは唯物論者たちであるのにも関わらず……。

※「形而上」は元々『易経』の中に出て来る漢語で、形のないものという意味。近代西洋でキリスト教と結び付いた、二元論の一方として使われる“Metaphysics”とは歴史背景も意味も異なると思う

さらに現代では新たな宗教としての「科学教」が人類を支配し、「それは科学的ではない」の一言で、物質以外の存在を片端から潰している。
「科学教」信者は、有るものまで無いと言う。
最も過激な信者は、重力も風も無いと主張する。彼らにとって目に見えない・触れられない物は「無い」という定義であるから。
それは、
「1 足す 1は 3」
と押し付けるに等しい。
無理なこと、感覚に反することを信じるように強要されている人間が、発狂するのは当たり前。

その結果としての現代。
何も知らされず、心を壊した人たちが作り上げた聖書「唯物思想」を信じ込まされた現代人たちが、追い詰められて上の掲示板などに集い恐怖を語り合っている。


■死後は無だと信じている人が何故、死が怖いのか


改めて上の掲示板を眺めてみる。

トピ主:
とにかく死んで明日がこないこと、目が見えないこと、時間が進まないこと、永久に自分に戻れないことが怖いです。

他、匿名さんたち:
31. 匿名 2018/05/08(火) 22:58:28
何百年、年千年、何万年、何億年、何兆年、地球が滅びようが続く永遠の無が怖い

93. 匿名 2018/05/08(火) 23:42:20
私もタナトフォビアです
いつかは永遠の無になる
今まで頑張ってきたことも全て無になるんだと思うとから変な汗がでてくる

96. 匿名 2018/05/08(火) 23:45:09
>>94
魂の存在とか生まれ変わりとか天国とか信じてる人が羨ましい
嫌味とかじゃなく本当に羨ましい
私は無になると確信してるから怖くてたまらない

186. 匿名 2018/05/19(土) 21:01:13
死ぬのがほんと怖くて怖くて、たまに発作的に恐怖が沸いてきて心の中で絶叫を上げたりする。
こんなに怖い思いをするんだから、生まれるというのは罰なんだと思う。
どうせ何もかも消えてしまうと思い始めてから、前向きには生きられなくなった。
ちゃんと受け入れられている人が同じ人間だとは信じられない。
年を取れば自然と平気になると思ったけれど、そんな事はないし。
きっと何歳になってもみっともなく取り乱して死ぬんだと思う。

その恐怖をずっと味わい続けていることは気の毒と思う、しかし……、
……分からない……。

「死後は無」だと思っているのに、どうして死んだ後のことを心配するのだろう? 
「無」となった者は何も感じ取れない。感じ取る主体がない。それなのに、そのことを「怖い」と仰る。完全に非合理で、矛盾している。

ここが唯物思想の真に怖いところ。
唯物思想には文字通り「物」しかない。だから、「物」にしがみつくしかない。
「物」にしがみつけない状態はこの上ない恐怖だ。
その究極として、死んで今まで積み重ねた「物」が無に帰してしまうことを考えたら。
自分が「物」のない無の世界へ永久に閉じ込められたとするなら――想像するだけで恐怖が襲ってきて心が壊れてしまうか。


■物に興味のない人が唯物思想を信じると、死は怖くないが自殺志願者となる


意外に思われるだろうが、私は幼い頃、「死後は無」だと心から信じていた
なまじ学習能力が高い子だったために、現代でスタンダードな「唯物思想」を素直に学び取り、真面目に信じていたのだと思う。

だが、そんな私が死を恐れたことは一度もなかった。
「死は無」なのだとすれば何も心配することはない、感じ取ることができなくなるのだと理屈で考えたので。
積み重なった物が消え去るのだとしても、「無」となった存在にとってはどうでもいい。
「無」が「無」となった後のことを心配するのは理屈が通らない。

――と、思うことができたのは、たぶん私には生来的に物欲がなかったからなのだろう。
「しょせん消え去る物」に対して、私は生まれつき一切関心が持てないタイプだった。
しかしそれも障害だったのだと思う。

物に興味を持たない弊害が、やがて「自殺願望」として出た。

私は「死は無」であるのだから、いつ死んでも良いと思っていた。
「肉体は物質に過ぎない」、そして「肉体は自分の所有物」なのだから、いつでも自分自身で処分を決めていいと考えた。
幼い頃、「いつ死んでもいい」という程度の気持ちだったのが、十代となり人生の辛さが増してくると積極的に「死にたい」へ変わった。
それで、毎日のように死ぬことばかり考えていた。

一見矛盾しているようなのだけど、実は
 死恐怖症 = 自殺願望
とイコールで表すことができる同じ病だ。
この対極にある心理は同じ一つの唯物思想という考えから発している。

参考。この状況を知って欲しい。
「昨年の自殺者数は2万1321人」
「過去最多だった03年(3万4427人)の約3分の2になった。ただ、20歳未満は前年比47人増の567人」
戦乱状態と同じくらい、いやもしかしたらそれ以上に悲惨だ。


■死恐怖症も、自殺志願も原因は同じ


唯物思想を信じて「死恐怖症」となるか、「自殺志願者」となるかの分かれ道は、「物欲があるかどうか」に関わる。
物を大切に思う人は死が怖くなる。
物に興味がない人は自殺願望が強くなる。
つまり、「物」という基準しかないので、生きるも地獄・死ぬも地獄 どちらの地獄を選ぶか? という極端な二択しかなくなる。

このどちらでもない、中間の状態に至るにはどうすればいいのか?
と言うと、やはり古代の人々がそうしてきたように、死後世界を信じて「生まれ変わり」などを受け入れるしかないのかもしれない。

実を言えば「輪廻転生」だって辛いことがなくなる思想ではないのだけど……。


■半端な輪廻思想も救いとはならない。輪廻の結論として、一瞬の大切さを知ること


考えてみれば私は、
「唯物思想」も
「輪廻思想」も
どちらも信じる状態を経験してきたのだな。

どちらが良かったか、と問われると、実はすぐに答えられない。
何故なら、唯物思想のほうが圧倒でラクだったから。
だって何も考えなくていいではないか。笑
唯物思想は思考停止したい人、怠惰な人に向くと思う。
(だから現代人に絶賛支持されているのだろう)

でも、どちらが正しいと思うか、と問われれば、私は今「輪廻思想のほう」と答えるしかない。
それは思想でも宗教でもなく、ただの法則でしかないために。

>魂の存在とか生まれ変わりとか天国とか信じてる人が羨ましい

確かに教祖様の言うことをボンヤリ信じられる人は羨ましいな。唯物思想を信じている人たちも含む。
他人の話を鵜呑みにするだけで疑問を持たない人は、自分で何も考えなくて済んでいるから、ラクでいいなと思う。
(これは嫌味に当たるかな、「羨ましい」は嘘だから。他人の言葉を鵜呑みにしている人は不幸だから気の毒だと思っている。ただ、心理状態としてはラクなのだろう)

私は教祖や聖書など他人の言葉を「信じて」いるわけではないために、むしろ輪廻転生という法則が厳しく感じられる。
物理化学の法則と全く同じように、宇宙法則でしかない。ということは人間ごときの「信じる・信じない」とはまるで別次元にあるシステムだから、「信じない」ことを選ぶこともできない。いや、信じないことを選んでも別にいいのだけど、そんなことで宇宙法則は変わらない。
つまり、我々の意識が一切関係ない。
言わば「信じる・信じない」ではなくて、「知る・知らない」でしかないところが、とても過酷だと感じられるな。

実を言えば、私は輪廻転生(死後世界)の実在を知った結果、「死後は無」と信じていた子供の頃より死ぬことが怖くなった
何故なら、真面目に生きていかねば死後世界で受け入れてもらえず、来世があったとしても苦しい人生となることが分かったから。
今この一瞬が、未来の評価につながる。そう思いながら生きるのは、わりとしんどい。
まるで良い大学へ推薦入学したいから学生生活を懸命にがんばる、という学生のごとき心境。

推薦の評価を意識してしまう人生など、くだらない。
これはこれでどうなのかと思う。
(こんな今と比べて前世は完全に無心だったのだ。無心だから必死で生きられたと言える)

でも少なくとも、簡単に「死んでもいい」とは思えなくなった。
このことは、肉体を大切にせず、生きることに対して投げやりだった私を救った。
たぶん究極の救いではないにしても、私にとっては命を救う緊急避難だったのだ。

当然ながら、今の私は「死んだら全て無効になる」と思う恐怖も皆無。
行いは全て積み重なっていく。
地球が残っていれば人類の記録にさえ残されてしまうだろう。千年でも二千年でも軽く残される。二千年前の自分が書いたものを、昨日書いた文書のように目の当りにすることさえあるかもしれない。(恥ずかし過ぎる。涙)
昨日は今日に等しい。だから一瞬一瞬をおろそかにはできない。投げやりになっている暇などないということだ。


上に書いた通りこのような輪廻思想も究極的に人類を救うとは言えない。
輪廻法則の知覚は、現時点で死恐怖症という病を発症している人を救うかもしれないが、救いは一時的なものだろう。
魂という個性も永遠のものではなく、運命の輪が閉じればいつかは解放されるエネルギーに過ぎないために。
いつかは根元という源へ戻り、魂の個性は消える。
それはもしかしたら、肉体の死と似たことなのかもしれない。人間には想像することもできない長期だとしても、いつか終わるという意味では同じ。

だから結局、究極には同じなのだ。一生も百生も。
大きいと小さいは完全に等しい。
∴今という人生に全てが詰まっている。一個のDNAに全細胞の情報が籠められているように。

だから、半端に輪廻思想を信じるだけでは何も救われない。
もっと先のこと、「終わりと始まり」を超えた究極のところを悟らなければならない。

この投稿が秀逸:
185. 匿名 2018/05/17(木) 02:35:48
曾祖母が4歳の頃亡くなってそれから寝るときに目を閉じるのが怖くなった。
……
けど、死は常に隣にあってたまたま生きてるなら、生きてるうちに好きなことしなきゃなぁと思うまで回復できたよ
好きなことをして死にたい。
自分のために自分の人生を生きたいな

その通り。
私も完全に同意。

私は永遠の命を知って、この人と同じ結論に至った。
実感の程度が「同じ」かどうかは分からないが、笑。私は思っているだけではなく、たぶん実感として知覚した。

「人生は虚しい」などと思うのは気のせい。
やがては消える個性。存在する限り(魂が存在している限り)、この個として二度と味わうことができない一瞬一瞬を大切に味わって生きていくしかない。

一瞬こそ永遠だ。

一瞬を味わうことこそ、輪廻の目的。


逆説的だけどね。これが真実。

私が自分をサンプルとして皆様に伝えたいのは、「輪廻転生は真実」であるということと同時に、今一瞬こそが大切なのだということ。
だからそんなに恐れなくてよろしい。

大丈夫、大丈夫。
死も生も、(究極の視点から観れば)怖いことなんか何もない。
死後と転生を記憶している私が保証する。

 参考になるかもしれない記事: 死の後、数日間の話

 過去にこの感覚に触れた記事: 一瞬と永遠

 自殺したい病の人へ、もう一つの提案。「分」を自覚すること: 「分をわきまえる」という言葉の本当の意味。自分さえ見失った現代人の不幸


【追記】
正直、私が今でも怖いのは、死ぬ時の痛みと苦しみだけ。
何度も死を経験した記憶を持つのに卑小で申し訳ない。笑

こういう物理的な苦痛の恐怖だけは本当に、いかんともしがたい。
苦痛という死の関門を超えなければならない肉体システムだけ何とかして欲しいと思う。つい先日も、「死ぬかと思った」腹痛の際に、どうせ死ぬなら麻酔を大量に打ってもらって早く殺して欲しいと思った。

肉体の苦痛だけはあらゆる思想を吹き飛ばす恐怖だ。
それでも転生した後は苦痛が記憶されていない(痛かったことは覚えているが再生されない)ことは保証しておく。


【追記2】
あと勘違いのないように書いておくと、私は反唯物論者だが(と言うか真実ではないものを信じることが無理というだけ)、だからと言って宗教の神様を受け入れる素地があるわけでもない。

なので全宗教の人に言っておく。
私を勧誘しても無駄。
無駄なメールを送るのはやめてね。

(以下、原理主義カルトに関する話はカットします)

そもそも西には唯物思想の前提として人々を抑圧してきた横暴極まる「神」がいた。
そして「神」の名のもと、この二千年間、残虐な殺戮が行われてきた。
「神」の看板に隠れて殺戮を愉しんだこの者たちのほうが悪魔崇拝だ。残虐行為を愉しむなどの性質を見れば彼らの崇める神こそ「悪魔」と呼べることは明らかだろう。殺戮を好む魂たちは、自分の殺戮に免罪符を与えてくれるその神様が大好きなのだ。

そんな邪悪な魂が崇拝する神と、唯物思想は完全に同じもの。
ただたんに表と裏を返しただけ

表面ではない。本質を見るべき。
真実を見よ。

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