我傍的、ここだけの話

吉野圭のプライベートブログです。自作品『我傍に立つ』裏話と世間雑記、占星術メモ

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〔ご案内〕このブログでは主に小説内容に関する記事を書いています。

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『我傍に立つ』
…歴史小説ではありません。古代東洋が舞台の架空小説。前世イメージを描いた人間物語です。現代的な感性・現代文で書いたので、特別な知識は要りません。どなたでもお読みいただけます。(ただし戦闘描写は省いています。このため歴史小説好きの方には物足りない可能性があります)→『我傍』ご感想

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『僕が見つけた前世』
… 筆者の体験を描いた「ほぼ自伝」な小説です。十代の子でも読めるよう、柔らかい文体で書いています。特別な知識は要りません。日本語が分かる方なら、どなたでもお読みいただけます(ただしPG12)。 →『僕前』ご感想

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『永遠の雨、雲間の光』シリーズ
… SFファンタジー。『我傍』以外の、前世記憶として浮かんだイメージを描いています(3巻は『我傍』と対になる話で、メインストーリーです)。若干、難解。残酷描写があるためPG12。 →『永遠』ご感想

この他、いただいたご感想とレス

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勉強が好きか、嫌いかで人間の価値は決まらない

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吉野 圭-Yoshino Kei
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雑談です。

「勉強嫌いだった」というネガティブ情報は不利なのか

昨夜、『先主伝(劉備伝)』の2を上げたのだけどさっそく不安を覚えている。
何故なら「あまり読書を好まず、狩りや乗馬、音楽を好んだ。また、流行の美しいファッションに身を包んでいた」という記述があるので。つまり勉強嫌いの都会的な遊び人タイプだったということ。
フィクション劉備ファンの方、史実はこんな感じの人ですが、大丈夫ですか……?

史実を書いているだけなのにディスっているように見られてしまう、という劉備の実像は悲しい。

あれでも本質は皆様が思う通りの人だと思うのだが。
なかなか本質だけ見る人は少ない。
アンチはこういった表面的な欠点ばかり責めるし、ファンの方もショックを受けるかもしれないなどと想像して気を遣う。

儒教的な価値観では史実の劉備のようなタイプは「悪」なのか?
私が致命的だと自分で思うのは、フィクション設定をおぼろげな知識でしか知らないこと。
だからフィクションファンの人たちの気持ちをほとんど理解していない、かもしれない。
それで知らずにフィクションファンの人たちの気持ちを踏みにじっていることがあり、申し訳なく思う。

だけど私は史実の劉備のほうが圧倒で好きなのだよね。(当たり前かもしれないけど)

昔、マニアの方に半強制的に横山アニメの『三国志』冒頭を見せられたことがあり、だからフィクションで描かれる劉備がお行儀の良い好青年として描かれていることは知っている。
でも私は、あのアニメを見たときがっかりして、
「あんな人だったら誰もついていかないだろうな」
と思った。
フィクション劉備に私は関心が持てない。現実で彼についていった人たちも同じと思う。
「叔父さんに遊学費を出してもらったのに音楽などに明け暮れ・ろくに勉強せず・読書も嫌いで、しかし義に篤く言動が一貫していて、踏みにじられている人を見れば放っておけない」という現実の彼だからこそ皆がついて行ったのだ。「勉強嫌い」というところも含め、その人格の全てを皆が愛した。
(欠点を見て見ぬ振りをしたという意味ではなく、むしろ長所だった。勉強嫌いだったのに人としてはとても賢かった、という)

陳寿について私が本当に凄いなと思うのは、「勉強嫌い」といったアンチが喜ぶネガティブなエピソードも省かずに記録したところだ。
“神は細部に宿る”
と言うが、人格も細部に宿るもの。
たったあれだけのネガティブ記録なのだが、人格が薫り立つ。“らしさ”が感じられる。
陳寿はたくさんのフィクションを足したのだが、実はマイナスをしていない(肝心なことを省いていない)。
絶妙に人格を描き出すツボを心得ていた。だからこそ私は陳寿を凄い歴史家だと思っている。はっきり言って、天才ではないかと思う。


人間の価値は勉強量で決まらない

――前置きが長過ぎた。

何が言いたいのかというと、人間の価値は
「勉強が好きか嫌いか」
には関係ない
、ということ。

少なくとも私はそんな表面的な属性で人を判断したことが一度もない。

むしろ、どちらかと言うと「勉強が嫌い」で「読書しない」タイプを好きになる傾向があるのは自分でもどうかと思う。
 関連記事:読書嫌いのあなたに萌える (これは一般向け記事。バカっぽい表現でお恥ずかしいのだけど筆者の現在現実)

ただ勉強ができるタイプでも、それだけで嫌うということはない。同属なので会話がはずまなくて仲良くなれない、ことは多いが。
いずれにしても、勉強という基準で人間の価値は判断できないと私は思っている。

むろん、サイコパスは知能が低いという傾向は確かにある。
国語が苦手な人は暴力性を持つという話も正しい。
これは文脈つまり本質を読み取る「理解力」や「思考力」が乏しい人は犯罪者になりやすい、という傾向を意味している。

“知能の高い人が優しい”ように見えるのは、理解力や思考力が高いからだろう。
しかし理解力や思考力は、残念ながら知識・学力・学歴(勉強量)と必ずしも比例しない。

何度も書いている通り、真に賢い人は勉強などしなくても本質を鋭く見抜くし、義が何であるのか生まれ持って知っている。
そのいっぽうで、どれほど学歴が高くても理解力がなく、「やっていいこと・悪いこと」が全く分からず、暴力で私欲を満たすことしか考えていない人がいる。現代にはわりと多い。

人類の永遠の謎は、
「勉学では人格を鍛えられない」
ということ。
昔の偉い人たちが長いこと、勉学で人格を鍛える方法を考えてきたのだが不可能だということが最近分かりつつある。

だから学歴や知識量だけで他人を信頼してはならないのはもちろん、勉強嫌いだったという人をあなどってはいけない。
“真の賢さ”
を持つ人こそを尊敬すべき
と思う。


追記 この記事は「勉強しなくてもいい」「勉強すべきではない」と主張する内容ではありません。勉強が役に立つことは間違いない。でもただ知識がない、学がないというだけで他人を差別するな、ということ。


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正史翻訳、スタートのお知らせ

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吉野 圭-Yoshino Kei
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予告していた『正史・三国志』翻訳スタートさせました。
予定を変更して『先主伝(劉備伝)』から翻訳していきます。

 →正史・三国志 目次

解説込みで書いてみると、なかなか大変です……。まだ一記事しか書いていないのに神経を遣ってぐったり。
仕事をしながらでは、いったいどのくらいかかるか。先が見えず眩暈がします。
(本業の訳者は凄いなと尊敬)

このペースでは終わりませんので、蜀志も主要人物のみとします。
いずれ曹操や孫権にも手を出せたらと思っています。

以降、トップには更新記事を上げませんので、時々カテゴリ
 正史・三国志 日本語訳
を覗いてチェックしていただければ幸いです。



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孔明という字の意味

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吉野 圭-Yoshino Kei
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諸葛亮の字、「孔 明」という熟語の意味を解説致します。

(正史・三国志翻訳に先立ち豆知識のご提供。
そう言えば、ここのブログできちんと書いたことがなかったと気付いてこの記事を上げます)

字(あざな)とは何か

まず古代中国の名前について、基礎知識から。

古代中国の成人は、「姓(氏)+名」とは別に「字」という呼び名を付けます。
「字」は日本語で“アザナ”と読みます。
日本で言う「通称」という意味のアザナ・あだ名とは違うので間違わないようにしてください。戒名でもありません。

字は姓名とは別ですが、正式に持つ名です。
「弱冠(じゃっかん)」、つまり成人する二十歳の年に一度付けたら生涯変えることはありません。
単なるニックネームではないので、日本人のように時期によってアザナを変え、「数十、数百の名を持つ」ことになった人物はいないのです。もしいたとすればその人は正体を隠すために変名して逃亡する罪人などで、通常の身分の人にはないことです。

字の使い方はこちらを参照してください。
→『古代中国の名前、姓・名・字について。「諸葛亮孔明」は間違い』

なお字は普通、父親が本人とともに考えて付けるものですが、諸葛亮の場合は二十歳のときに父親も養父も亡くなっていました。
したがって、諸葛亮本人が自分一人だけで考えて付けた字と考えるのが妥当です。
自分で考えるのですから当然、それなりに考え込んで付けています。

はなはだ明るい、というおバカ解釈

本題。「孔・明」という字の意味についてです。

一般に三国志の解説書では、孔・明の意味を
「はなはだ(孔)・明るい」
と解釈しています。

学者たち曰く、
「諸葛亮は、自分の“亮(あきらか)”という名を気に入っていた。だからその意味を拡大して、“はなはだ明るい”という意味の字を付けたのだ」
とのことです。

そんな適当な解釈でいいのでしょうか? 笑
歴史学って、ラクな商売だなと思いましたね。

いくら諸葛亮が自意識の低い人間だったとしても、さすがに生涯にわたって使う自分の字について
「名に因んで適当に付けた」
ということはなかったと思います。
平易で呼びやすい字であることと同時に、彼なりの生涯の決意を持って名付けたはずです。

余談:
まあ、「はなはだ明るい」つまり
「最大級の光明」
と訳すのも、個人的には自作品の主人公の名「アテン」と一致して面白かったのですが、これは偶然に過ぎません。あるいは何か因縁ある一致だったのかもしれませんが。


孔・明を読み解いていこう

では各漢字から意味を解説していきましょう。

■孔の意味

「孔」
という漢字は、古くは燕の子を意味する象形文字です。
つまり元々は親が待ち望んだ子供という意味を表していました。
そこから、
「願いが叶う・実現する」
という意味になったものです。
なので転じて、
「願いが通る → あな(貫通する)」
と読むようになりました。

諸葛亮が用いた「孔」のイメージとしては、石を穿つ雨滴のように、長い長い時間をかけて貫き通すという意味です。
この「雨滴」になろうと決意したわけです。

■明の意味

「明」のほうは簡単だと思います。
日と月の光を表す「明」は、すべてを明らかにします。
つまり、この世を照らす真実――理(正しいことわり)のことです。

∴熟語として読むと、「明(真実)を孔(かな)える」となります。

もちろんこれが正しいかどうかは裏付けのない話なので分かりません。あくまでも解釈の一つと考えてください。なお、「そんな解釈は今までどの歴史書籍でも見たことがない」と仰るのは当たり前。この解釈は地上でただ一人、筆者独自のものだからです。

総じて、「雲間の光」のイメージ

ここからは私の異次元の想像です。これこそ裏付けのない話なので、フィクションとしてお読みください。

彼が「孔明」という字を思いついた場面はいったいどのような状況だったのか?

諸葛亮が二十歳頃を過ごした荊州、襄陽付近は比較的に雨量の多い土地でした。
日本の梅雨のように、長雨が続く季節もあったのではないかと想像します。
(ここは間違っているかもしれませんし、現代とは違う可能性があります。雨が似合う土地柄であることは確かなのですが、調べてみると今は東京のほうが雨量が多いという残念なお知らせ)

そんな長雨の最中、低く垂れこめた雲が割れて日の光が差し込む瞬間がありました。
隆中を散歩していた彼は、雲間の光を見上げて思いました。
「自分はあの光を導く者になりたい」と。
何千年かかるか分からないけれども、石も穿つ雨滴のように根気よく続けていけば、いつか真実に通る時が来るかもしれない。
そう想い、願いを「孔明」の名に篭めたのだと思われます。

おそらく彼には分不相応な願いだったのでしょう。完全に名前負けしているような気もします。
しかし文字に刻まれた望みはいつか一個の人間の存在を離れ、実現する時が来るでしょう。

私も彼と同じく、この世で真実が叶う日が来るよう祈っています。


※この記事に書いた解釈は筆者独自のものです。引用はここのURLと筆者名「吉野圭」を示してください。自分が考えたとして盗用することを禁じます。アーカイブ
ちなみにこの話は1998年から様々な場所で公開しています。


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ウーマンラッシュアワー村本のネタを考える。物言わぬ常識人たちの罪

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吉野 圭-Yoshino Kei
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昨夜の『THE MANZAI』でウーマンラッシュアワーが披露したネタが、また賛否両論でネットを沸かしているらしい。

※この記事では敬称略

ウーマンの炎上ネタとは?

https://kokodakenobekkan-2018.tumblr.com/post/180967250071/ウーマン村本-the-manzaiでまたも時事ネタlgbtもネット大反響デイリースポーツ

私も観たが、内容はともかく技能が凄かった。
あれだけの長文を淀みなく早口でまくしたて、一度も噛むことなく終えるという職人芸に感服! 
「ただそれだけ」と言ってしまえばそうなのだが、「それだけ」でもけっこう凄いことだ。真似できる人は少ないだろう。

時事ネタをお笑いに放り込むという行為そのものを批判する人も多いが、外国ではそもそも「ユーモア」とは皮肉・風刺のこと。笑いのジャンルは政治風刺から生まれた。だから時事を皮肉らなければエンターテイメントとしても成立せず、無価値とみなされるはず。
日本のように
「小説・マンガ・芸能・音楽等の芸術では政治ネタ絶対タブー」
というお子様思考の風潮のほうが異常で間違っていると思う。全てがディズニー映画のようではつまらないし、そちらの世界のほうが危険だ。
政治について、言いたいことも言えない世の中なんて本当に危険極まる。ここはC国か?と言いたくなる。いやむしろC国人のほうが殺される危険を冒してまで言いたいことを言っている、民主主義のはずの日本に住んでいる人々が何も言わないとは情けない。

ただし、私はひたすら楽しいだけの芸術も必要と思う者で、茂木健一郎のように
「日本のお笑いはオワコン」
などと思ったことは一瞬もない。
楽しいだけのお笑い・時事を皮肉るお笑い、どちらも必要では? と思う者。
芸人がやりたいことを本気でやることが許される世界となり、そのうえで内容を評価したいものだよね。表層のジャンル分けで叩くのではなく。


肝心の、風刺としてのウーマンのネタについて――
村本の
「言いたいことを言ってやる」
という心からの想い、気概も感じられ、その内容にも成長を感じた。
「LGBTの人たちにカミングアウトという言葉を使わせている。自分が自分のことを言うのにカミングアウトという言葉を使わせている社会は普通じゃない」「沖縄の海ってだれのもの?日本のもの?アメリカのもの?違う。沖縄県民のものなんです。今こそ沖縄県民の怒りの声に耳を傾けるべき」
ここの話を聴いていると、村本はきっと性根が優しい奴なんだなあと思う。
踏みにじられている人たちに同情して何とかしたいと思う、その気持ちは大事だ。

でもね。
それらは全てサヨク団体が唱える虚偽のお題目コピーに過ぎない。
ネットで勉強している形跡が分かるのだが、全く「自分の頭で考えていない」ことも手に取るように分かり惜しいなと思った。

弱者を助けたい気持ちは分かるし、その気持ちは大事なものでぜひ正しく発揮して欲しいのだが、何かの団体の題目を鵜呑みにしてオウム返しするだけなのはまずい。

今までほとんど読書をしたことがなく、勉強嫌いだった子が時事に目覚めると陥ってしまいがちな典型的な穴に落ちている。
偏ったネット検索やある団体本の読書だけで情報を仕入れるので、エコーチェンバーに取り込まれ、完全な信者となってしまうという。
(あくまでも傾向として言えば、ツイッターを最初に始めた子はパヨクに、掲示板やユーチューブから入った老害たちはネトウヨになりやすいらしい。どちらも国語が苦手な知的弱者だということでは共通している。完全に同じ穴のムジナ)

私が村本の話題を見かけたのは「ドナドナ炎上」事件が最後だったかな。あれ以降、エコーの症状がさらに増している気がする。
村本くん、水道橋の言うことちゃんと聞いてる?
偏らず、色々なジャンルの本を読んでる?
あと一歩進んで、自分の頭で考えて欲しかったな。
考えないでいるとそのまま嘘の題目に騙されて団体に入ってしまい、いずれ彼らの主である独裁者の手先となり、殺戮行為を手伝う奴隷になってしまうよ。

 参考検索:「沖縄」や「原発」のワードに反応してしまう人へ、餌に釣られてセミナー等へ参加しては駄目です。善良に見える看板は嘘の釣り、正体は日本へ独裁を誘い込む暴力団体。⇒パヨクについて、ちょっと学んでおこう

 当ブログ内参考記事: →三国志ジャンルの捏造記事について +蜀ファンへメッセージ【拡散希望】 (これもK産国系パヨク団体の日本における工作の一つです。この通り彼らは各種ジャンルで、様々なバリエーションの活動をしているから気を付けて)

あとはネタとして、相方をもっとうまく使ったらどうだろうか?と思った。
ただ聴いているだけのパラダイスが気の毒だった。うまく使えば活きてくる人だと思うのに。

私は爆笑問題の時事ネタが好きだけどね。
太田の暴走を田中がうまく抑える(ように見せている)ことで、ネタとして成立している。ああいうのをユーモアというのではないだろうか。

村本には学ぶ姿勢があり、チャレンジする意欲があるので可能性はあると感じた。
今がダメになるか飛躍するかの分岐点と思う。
もっと自分の頭で考えることを覚えれば大飛躍する可能性あり。
せっかく唯一無二の技能があるので、ネタの内容をどうにかしてベテランとなったときには名人と呼ばれる域になっていて欲しいね。

(上から目線ですみません。あくまでも観客としての意見)


政治ネタについて

政治ネタは私もブログやSNSなどではなるべく避けることにしているが、これはアクセスが下がるからではなくて逆に上がるから。
偏った思想の人ばかり来られても退屈ではないか。元々そういうブログではないし。

政治ネタを始めると、同じ話題ばかり求められて同じ話題ばかり書き続けることになってしまう。
何よりそれが嫌なのだ。

あと実際に危険だということもある。
私は本名で活動しているからダイレクトに身に危険が及ぶ。
身に危険が及ばなかったとしても、ブログだけでも潰されたら元も子もない。
ささやかながら自分の声を届ける場所として、ブログは長く続けて行かなければならない。これは大げさだけど使命だと思っている。

ただ、黙ってばかりいてはいけないと思うから時々政治ネタを炸裂させてしまうことがあるね。
いつも反省するのだけど、どうしても言わなければいけないことはやはりあると思う。


日本人の政治ネタを避けたがる風潮は良くないことだと以前から思っていた。
避け続けたから結果、学びの土台がなくて、若者や老害が凶暴思想のエコーチェンバーにはまっておかしな社会になりつつある。
皆が思ったことを言える社会であれば、もっと自分の頭で考える子供たちが育ったはずだというのに。

今、日本は
「物言わぬ常識人」
ばかりの世の中。
そして大声で叫んでいる者たちは凶暴団体のメンバーとカルト宗教の信者ばかり。
若者は自然と何か叫んでいる団体のほうへ吸い寄せられて行くだろう。何の知識も与えられていない故、判断の手段すらないので、凶暴団体の叫びを鵜呑みにしてしまうのは仕方のないことだ。

誰に一番罪があるのか? と言うと、
「物言わぬ常識人」たち

にだと思う。

――そもそも「反原発」とか「沖縄」とか「LGBT」「貧困」、「平和」さえも、嘘つきサヨク団体に盗まれてしまったのは常識ある一般人が何も語ってこなかったからだ。
団体に所属しない常識人が語らなければ、あの嘘つきプロたちが看板を盗んでいく。
パクりこそ彼らの日常業務なので)
気付けば、本当に弱者を守るために上のテーマを叫びたくなった時に、「サヨク」のレッテルで封じられて叫ぶことさえできなくなっている。
これこそが嘘つきたちの狙いなのだ。弱者を守る手段を封じることが本当の目的。そしていずれ、思う存分欲望のままに弱者への暴力をふるうことを企んでいる。

常識ある皆さん、もう少しネットで語るべきだ。若者を救うために。
本物の「人道」と「平和」を守るために。

私もブログに影響のない範囲で語っていこうと思う。


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『ボヘミアン・ラプソディ』異端スターの孤独を描いた物語。この人生は体感すべき

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吉野 圭-Yoshino Kei
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ちょっと肩の力を抜いて、現代一般の雑談に戻りましょう。


話題の映画を体験しに行った

久しぶりに丸一日休みが取れた先日、話題の『ボヘミアン・ラプソディ』を観に行った。
“ライブシーンの臨場感が凄い!”
“フレディが蘇ったみたいで興奮する!”
という噂だったので、これは歴史的体験として映画館で観ておかねばと思ったからだった。



この映画は1970年~80年代に一世風靡したQueen(クイーン)というバンドのリード・ボーカル、フレディ・マーキュリーを描いた伝記映画。

私はクイーン世代ではなく、音楽についてもあまり詳しくないので前知識なく観たのだが、全ての曲に耳馴染みがあったのは驚いた。
人生のなかで何度も、CMやBGMで聴いてきた曲ばかりだ。
音楽に疎い人間でさえ一緒に口ずさめるほど何度も聴かされてきたとは、確かに凄まじい伝説バンドだ。

世代ではない者のボンヤリしたイメージだけで言うと。
楽曲は子供心に上品だなと思っていて、クラッシック(オペラ?)とロックの奇妙な融合を魅力的には思っていた。意味はさっぱり分からなかったが(笑)、嫌いではなかった。
映画で改めて聴いてから衝撃を受け、今さら何度も聴いている。
当時は新しかったのだろう手法を駆使したオリジナルな楽曲は、今となってはクラシカルな印象だが、唯一無二の血の通った音楽として胸に響く。
振り返れば、誰も彼らを真似できなかったことが凄い。クイーン世代には言わずもがなのことだろうけど、現代の機械音とは比べ物にならないエネルギーがある。心を育てる濃厚な音楽と思う。

人物としてのフレディ・マーキュリーのイメージは、……子供の頃のイメージなので申し訳ないのだけど、
「派手な衣装を着た、ちょっと変なタンクトップおじさん」
と思っていた。
子供的にはあの胸毛と髭、派手な衣装のインパクトばかりが強くて、「うーん。無理」と苦笑いで逃げたくなる感じだったな。
際物として話題を取るミュージシャンなのだと思っていたけど、こちらの記事によれば当時の大人たちの評価も概ね同じだったらしい。
彼らの異端ぶりを象徴するのが外見だ。普通にいうところのロック的な「格好良さ」「美しさ」とは違う美意識があった。それはギャグすれすれでさえあった。

フロントマンがいわゆる美形ではなく異形だった。和服(女物)をはだけて着用。かの有名な全身タイツ。ブライアンのひらひら多めの服。フレディが口ひげを生やした時、日本にはしゃれか本気か「フレディのひげを剃らせる会」という団体がラジオ番組や雑誌に登場した(実在したのか?)。女王の王冠とガウン。ひげのあるまま女装。ライブ・エイドという大舞台なのに休日のお父さんみたいなフレディ――。

『ボヘミアン・ラプソディ』はもっとクスクスという笑い声と共に観られてもいいと思う。
https://toyokeizai.net/articles/-/253786?page=3
ですよねえ。

フレディが「異形」だったということは意外で、当時の女の人たちにキャーキャー騒がれていた印象だったから美形扱いなのだと思っていた。(映像で観ればわりと端正な顔のような気がするのだが、私には美醜がよく分からないのかな?)
「歯が出ていた」という事実さえも全く知らず、「どうして矯正しないのか」とまで言われていたことも知らなかった。
あと、始めからあの髭・短髪・タンクトップだと思っていたので、途中からスタイルが変わったことも知らなかった。
はたまたゲイとなったのも途中からで、女性と結婚していた過去があったということさえ知らなかった。

つまり、ほとんど何も知らなかった。偶像としてのイメージしか。
そんな私には、「一個の人間・ファルーク」の真実は意外な話の連続で、新鮮な驚きをもって眺めることのできた物語だった。

結果、
「なるほど。三国志のフィクションイメージしか知らない人が現実を知ったときの驚きは、こんな感じなのか」
と疑似体験することができて個人的には面白かった。
(我ながら、どういう次元で観ているんだろうか。笑)


スターの壮絶な孤独、そしてかけがえのない絆

この映画の価値は、話題となっているラスト21分のライブ再現にも確かにあるが、何より個人としてのフレディの苦悩を描いたことにある。

スターの高みに祭り上げられたフレディ。
栄光のなかでの、想像を絶する孤独が痛々しくて涙せずにはいられない。

フレディの孤独について、「セクシャル・マイノリティとして差別された孤独」とだけ理解している人も多いようだけど、私はそうではないと思う。
確かにマイノリティは少々生きづらい。差別もある。恋人も友達も得られる確率が大多数の人より低い。
ただこれだけは言える――孤独へ落ちたならマイノリティ・マジョリティ、どちらの境遇も同じだと。
性的属性など全く無関係に人は常に孤独の危険に晒されている生き物。
マイノリティでもパートナーがいれば孤独ではないし、ストレートでも一人きり孤独の底に落ちることがある。

おそらく、人間関係に妥協できない人ほど孤独を感じる可能性が高くなるだろう。
「傍に居て欲しい」
そう心から願う相手が、常に傍に居てくれるとは限らないのだから。
求めても求めても叶わない願いがある。
癒えない孤独がある。
そんなとき、妥協して手近な人間関係でごまかしてしまえる人は、あれほど傷付き苦しんだりしない。

つまりフレディが孤独を感じていたのはセクシャルマイノリティだったからではない。
誰よりも寂しがりで、真実の人間関係を求めたからこそ妥協できず、偽物の愛や友情を拒絶していってしまったからなのだ。自分をごまかすことのできない正直な人だったと言えるだろう。

だけど結果として、その性質ゆえに彼は最終的に真実の愛を知り、恋人と友達に囲まれ死んでいく。
彼の傍には最初から真実の友がいて、彼を心から愛する恋人がいた。反発していた両親さえも深い愛を持っていたことを、フレディは最後には思い知る。

45歳で早世したフレディを「可哀想」と思う人は多いだろうが、勘違いだ。
これは愛に囲まれて生きて死んだ人の、最高に幸福な人生のお手本だ。


個人的に共鳴したところ

映画レビューから話が逸れるけど、個人的に私は我がこととして観た部分が多かった。
社会から疎外されていて、孤独を感じており、真実の友だけ求めているというところ……できる限り正直に生きたいと思うからなおさら孤独になってしまうところ……、自分にも共通していると感じたので。

そしてこれは私だけ、特殊なのかもしれないが
「高みに祭り上げられた孤独」
にも異次元の感覚で共鳴してしまい、辛かった。
特にフレディが嫌らしいメディアのフラッシュを浴びる場面、嘲笑の視線を浴びる場面は我がことのように感じられ観ていられなかった。
下世話な他人の評価の勝手さ、嫌らしさが本当によく表現されていて突き刺さる。
欲望や嫉妬だけを向ける周囲の人間の醜さも、怖いほどリアルに描写されている。

ちょうどあの冷酷な視線を浴びていた頃のフレディのインタビュー映像の言葉には打たれた。https://youtu.be/vW01ecOtzPYより
Q.あなたを一言で言うと?

フレディ回答:(僕は音楽の娼婦さ、とふざけて答えた後で)
バカげた質問だ 僕は僕だ
Q.人々の記憶にどう残りたいか?

フレディ回答:そんなこと一度も考えたことない
死んだら逝くだけだ
勝手にすればいい 僕が死んだ後なんて誰が気にするの? 僕は気にしないよ
全く同感だ。
“死んだら逝くだけ”、それが理想。
いつまでも語られるなんて悪夢だ。

だけど語られる運命を負ってしまったなら、せめて悪用されないように頑張るしかない。それもまた義務で宿命なのだと思う。
すぐに義務感などを抱いてしまうのが私の小物なところ。
「名が悪用されて誰かが泣こうが、殺されようが、知ったことはない。私には何の義務も責任もない」、そう笑い飛ばせればいいのに。

自分で言うのもなんだけど、難儀な性格だ。
こういうところもやはりフレディに近いか。


(ん? やはり純粋な現代一般の雑談とは言えないかこれ)


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