読書嫌いのあなたに萌える

 



読書嫌いのあなたに萌える


 私は「日ごろ読書などしないタイプ」が好みです。
 だからと言って好きな人に本を読んで欲しくないわけではなくて、むしろ日ごろ本を読まない人が何かのきっかけで本を読もうとする態度に惹かれてしまう。
 
 うちの伴侶がまさにそんなタイプです。
 この間、ある本にはまって真剣に読書していた。
 そしてその本が原作の映画を観て、「映像より原作のほうがいいね」などと活字中毒者みたいなことを言っていた。
 日ごろは「小説なんかつまんない、映像のが面白いに決まってる」と強く主張しているのに。
 ちょっと嬉しかった。

 まあ、たまたまある芸能人のファンでその芸能人が出ている映画原作だから読んだだけなんですが。

 これからも好きな本を見つけて欲しいです。
 出来ることならば今度は、私きっかけで。


趣味で差別する奇妙な人々


 上に書いた通り私の伴侶は昔から本を読むのが苦手な人で、そういうところが可愛くて好きなのだが。
 この話を友人にするとものすごく軽蔑した目で見られ、
「あのね。バカにしたら駄目だよ。子供の頃から本を読む習慣のない人は本をあまり読まないものなんだって」
 などと冷静に叱責を受ける。

 いや……バカにしているのではなくて!
 叫びたくなるが相手は聞く耳を持ってくれない。

 いつも参るのは
「他人が本を読まないというエピソードを話す」 → 「その人をバカにして嘲笑している」
 と短絡的に思い込まれること。
 何故なんだろうな。
 あ、自分が本を読まない人をバカにする人間だからそう思うのか。

 友人たちはよく自分の夫や妻が漢字を読めなかったエピソードをして笑っているが、その話を聞いた私が本気で軽蔑して
「あのね。誰でも読めない漢字はあるんだよ。バカにするなんてサイテーだよ」
 と説教したらどんな気持ちになるだろう。
 私は相手が漢字を読み間違える夫のことをバカにしているわけではない、むしろそのエピソードを微笑ましいものとして愛情を覚えながら話していることが分かるので、わざわざ説教する無粋は犯さない。(政治家の漢字の読み間違いを鬼の首をとったように指摘する人とは意識が違う。愛情の表れ)
 それなのに何故、読書に関してだけ「バカにしている」と決め付けられて責められるんだろうか?
 
 もしかしたら、「読書」というキーワードが特別なものなのかもしれない。
 そんなに「読書」は他と違う高尚な趣味なのか。

 なんだか基本的に「読書」に関する考え方が私は他の人とは大幅にズレているらしい。
 それで他人と会話が噛み合わない。永久にズレて解釈される。

 “子供の頃から読書の習慣がない人は大人になってからもあまり本を読まない”、
 そりゃあそうだろ(笑)、と思いますが。
 私だって子供の頃にスポーツをやる習慣がなかったので今もあまりスポーツをやらない。当然に同じ。
 単なる趣味・好き嫌いの問題なのだから、本をよく読む人もいるだろうし読まない人もいるだろう。
 
 そんな好き嫌いごときを責めるのも賞賛するのもおかしい、と私は言っているんだが。
 繰り返すが私の人間に対する好みは、「あまり本など読んだりしないタイプ」。
 もちろん“本が読めないほどのバカだと上から目線で付き合えるから嬉しい”という下劣な理由ではなくて、特に読書に耽溺したりはしない、家でじっと座って本を読んだりするのは苦手で体を動かすのが得意というスポーツタイプの人に惹かれてしまうだけのこと。
 つまり自分とは違うタイプ、自分にないものを持つ人が好きらしいです。
 そんな好みを「サイテー」と言われても困る。すごく困る。幼い頃からの好みだからどうしようもない。
 人間に対する好みも自由、とやかく言われる筋合いはないと思う。


読書嫌いのあなたに萌える part2


 「本を読まないタイプが好き」で、「嫌なら読むな」と言っている私ですが、決して読書人口が増えることを嫌がっているわけではありません。
 むしろ自分の影響で本好きになってくれたら嬉しくて泣いてしまうかもしれない。

 あまり本など読んだりしたことのなかったある歴史人物(劉備)が、読書好きだった家臣の影響を受けて本を読むようになったらしく、息子たちにあてた手紙のなかで
「今、あいつの影響で少しずつ本を読んでいます。本は良いものだと知りました。お前たちも読んでみなさい」
 と書いたエピソードがあります。
 こんなことを書かれたら読書好きは 秒殺ノックアウト です。
 恋人や配偶者が読書好きだったら試してみてはいかがでしょうか?

 ……と言っても無理はしないでください。
 相手に好かれようとして無闇に背伸びをし、読めない本を「読んだ」と嘘をついたり読書数を誇示したりするのは逆に大嫌いになられる可能性大。

 素直に正直に。
 影響されること自然に、本に興味を持つ姿が愛しい。

 それをきっかけとして心からの本好きになってくれたら幸せなのです。 

 

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【質問】子供の頃、勉強は出来ましたか?


 

今まで筆者に関して頂いたご質問のうち、多かったものです。

【質問】 子供の頃、勉強は出来ましたか?
 
または「出来たんでしょ?」という前提にて、
「勉強が出来るようになるにはどうしたらいいんですか?」
というご質問もよく頂きます。

【回答】 そこそこイエスです。
試験などで苦労した記憶はないように思います。

 
しかし、「そこそこ」程度ですのでご安心ください。笑
「お前なんかお前なんか!!」と競争心を向けたり憎んだり嫉妬しなくて大丈夫です。妬まれるほどの人間ではない。

自分の小説の登場人物ほどには出来ません。
まったく自分の小説の人物たちが羨ましいです。
ただし、小説の人物たちになりたい(戻りたい?)とは思いません

もう少し詳しい話。

〔目次〕
実は、勉強を放棄していました
勉強放棄した理由
回答追加。「どうすれば勉強が出来るようになりますか?」


実は、勉強を放棄していました

 
私の学生時代の成績は、特に勉強しない状態で中の上※といったところでした。
普通に努力していたら、たぶんメジャーな私立大には行けたのでしょう。

※詳細:初めて自分スゲーと思った話

ただ理系オンチですので、国立は苦労したかもしれません。
私立でも医学部を目指さなければならなかったら、かなり苦しんだでしょうね。

前前世(算術・幾何学を叩きこまれた)を考えれば“理系オンチ”も不思議な話ですが。幼い頃から読書好きで、作文などを褒められたので「自分は文系」と思い込んでいたふしはあります。数学も嫌いではないからやればできた、気がしないでもありません。

すべて「過去のIF」に過ぎないのは、実際、どこの大学も目指すことさえ叶わなかったからです。
家庭の事情――学校を目指すどころか飢餓で生存できるかどうかもギリギリの絶対的貧困だった――により、高校の学費すら自分で負担したので大学の学費まで借金するのは不可能でした。

 (余談が長過ぎたので略)

我が国の教育問題はさて置き、私の場合はまた少し事情が違いまして、自分自身で“勉強放棄”したせいでもあります。

もし自分の能力を活かすために努力を続けていたら、助けてくれる人がいたはず。

こちらが真相です。

そもそも自分に上の学校へ行こうとする強い意志がなかったことが悪かったのだと思います。

人は誰も生まれ持った能力があるけれども、自分でそれを活かすよう努力しなければ夢は叶いません。
自分自身で能力を棄てようとする子に差し伸べてくれる手があろうはずもない。
 
「求めよ、されば与えられん」
 
この言葉が真実であるのは、何よりまず先に本人の意志が必要だという点です。
依頼がなければ周りは動けない。助けようもないわけです。
願いさえすれば必ず全ての夢が叶うと言うのは嘘ですが、先に願わなければならないというのは真実でしょう。
これは当たり前のことのように思えて、本気で忘れがちです。忘れるから叶わない人も意外と多い。


勉強放棄した理由


では、何故に私が“勉強放棄”したのか。

この件については説明が難しいので小説に詳しく書いています。
実体験をもとにした小説: 『僕が見つけた前世』

あるいはこちらの記事にて。
『ギフテッドの苦悩が初めて光を浴びた。今の時代に生まれた君たちへ 』

補足。
たぶん私は過去において、天才でもないのに「天才扱い」され非常に苦しんだために、今世では“勉強放棄”および“成績コントロール(わざと誤りの答えを解答欄に書くなどして成績を下げる)”をして能力を隠し棄てようとしたのでしょう。
 
また、当時やっていた仕事が「作戦家」という喜ばしくない業務であったので、この業務能力は封印すべきという意識もはたらいたのだと思います。私なら性格上、確実に封印して失業を選択します。

さらに言えば、『永遠の雨~』の古い時代には理系博士であったはずなのに、何故現代では理系オンチなのかという問いも、その能力があっては危険だからという理由での「封印」でしょう。
これは数学が不得意なことの苦しい言い訳っぽいですが(笑)、まあ、あり得なくはない。

来世も同じ仕事に就きたい、同じ能力を活かしていきたいと願えるような良きことをやっていたのだとしたら、「封印」する必要もなく素直に能力を活かしていたはずです。

 
封印の必要がない能力を磨きたいと願ったから、今世では医者の家に生まれたのではないかとつい最近気付きました。
人の命を救うという、人として最もまっとうな仕事。
その仕事に憧れ、就きたいと過去の自分は思ってここに生まれた。

しかし気付いたところで時既に遅し、です。

人は愚かなもので、生きているうちにここに生まれた理由を思い出すことは出来ません。
私などはチャンスはたくさん与えられていたのに、それでも間に合いませんでした。
これでまた無念で生まれ変わったとしても、ピントはずれの衝動にかられて目標を見失ってしまうのでしょう。
愚か過ぎて笑ってしまいます。

まあこれも人生。
今は棄ててしまったものを数えずに、残された力で最大限に努力しようと考えています。


回答追加。「どうすれば勉強が出来るようになりますか?」


上のご質問と一緒にいただくことの多いご質問、回答追加しておきます。

Q.どうすれば勉強が出来るようになりますか?


A.努力あるのみです。

「天から与えられた才能」など一切ない、と私は断言出来ます。

それは全て過去世の自分自身の努力の積み重ねに過ぎません。
(このため、「どうせ前世の記憶をなくすのだから生まれ変わりに全く意味はない」ということもありません)

だから他人の才能を恨むな、妬むな。
妬みには何も意味もない。
自分がその道の努力を怠ったことに気付くべき
です。

何かを出来るようになりたければ、努力を続けることです。

たとえ死の一週間前でも、一時間前でさえ、努力をする意味はあります。

 

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