師走の紅葉

 気付けば師走。
何故か私にとって畑違いの会計を任されているため、明日から決算で忙しくなります。

今日は休日を取り、某所へ紅葉を見に行きました。

「紅葉を見るためにちょうどいい日を狙って出かける」という行為は初めてかもしれない。
とても贅沢な休日でした。


 完璧な日本の景色です。きれいですね。


こんな景色を堪能できるのも平和あってこそ。有り難いです。



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風水に中毒し過ぎてはならない理由


 この記事には偏見があると感じられるかもしれません。分かりやすくするため、意図的に大げさに書いているところがあります。あくまでも悪徳占い師やセミナーに洗脳されているなど「行き過ぎた人」に限定した話であること先にお断りしておきます。

自己啓発本の価値観は、実は一つだけ


前々記事で書いた通り、私は自己啓発本が苦手です。
何故なら、何を読んでも価値観が一つだけだからです。

彼らの価値観で正義とは、成功することです。
成功とは、
「金持ちになること」
「有名になること」
「理想の職業で成功すること」
「理想の異性と結婚すること」……等々
です。
一見、バラエティに富んでいるように見えます。
彼らは言うでしょう、「我々の成功の中身はこんなに様々ですよ。人の夢は決してワンパターンではありません」と。
でもその夢とやらの全てが、
 勝ち組に入ること
という一言で済ますことができる、ということに彼らは気付いていないように思います。

彼らの「成功」という言葉を、もっと簡単に訳すなら「欲望の実現」です。
だとすれば素直に「酒池肉林の生活がしたい」と言うならまだ可愛げ?がありますが、「夢を叶えた暁には皆さんに還元したい」などと綺麗ごとを言うので胡散臭いなと思わずにいられません。

偏見でしょうか?
でも高額セミナーに通い詰めて「成功! 成功!」と拳をあげて叫んでいる人たちを眺めて、薄ら寒く感じるのは私だけではないはずです。

風水と自己啓発は似ている


似たような感覚を受けるのが、風水にはまり過ぎている人の話を聞く時です。
彼らはやはり、
「成功するために風水で開運せよ」
「ぱっとした人生を送っていない人(負け犬)は、風水をやってごらんなさい」
などと仰います。

確かに、適度な風水なら悪くないと私も思います。
ポジティブな精神を持つことは魂にも体にも健全なことだし、環境を整えて毎日を心地良く過ごすことはとても良いことです。

だけど、ガツガツとした欲望のまま、金儲けや有名になる人生を目指して風水中毒になるのは良くないことと思います。


本来「風水」というものは環境術でしょう。環境を整えてその人のポテンシャルを最大限に引き出すことを目的としている民間の知恵です。

だからまず大事なのは「ポテンシャル」です。
東洋の言葉で言えば、「器」です。
決して、そのポテンシャルのない人を大金持ちにしたり、有名にしたりするための魔法が風水なのではないはず。


占星術の目から見ると、出生時にその人のポテンシャル・器は決まっています。有名となり輝かしい人生を送る人もいれば、無名を選び穏やかな人生を送る人もいます。人生は十人十色、「何が幸せか」という価値基準も十人十色です。社会的成功だけが人生ではない、と考えるのが占星術。

こう言うと風水にはまる人々は
「星なんかに運命を決められてたまるか! 運命を唯々諾々と受け入れるのは絶対に間違っている! 私の人生は風水という魔法を使って自分の意志で変えていくのだ。神を殺してでも運命に抗ってやる!!」
とヒステリックな大反発をされます。
しかし、そうではないのです。
運勢は偶然の星回りが決めるのではない。
神様が決めるわけでもない。
全て自分が過去に為した結果としてのカルマによって決まります。宇宙法則に従ってほとんど自動的に決定されます。
ただし個人(魂)の意志が全く介入しないかと言うとそうでもなくて、個人の意志もそれなりに宇宙へ影響します。たとえば、「次の人生ではこれだけの負カルマを返済しよう」ということは生まれる前に自分で決定できる。
全ては自分で為したこと。そして全ては自分の意志で決めたこと。
これが、「ホロスコープは生まれる前に自分で立てた計画である」と言うことの真相です。

だから風水も、この「自分で立てた計画のポテンシャルを最大限に実行していこう」という観点で使われるならとても良いと言えます。
もし本来の運命を実行するために邪魔しているものがあるなら、それを取り除くために風水を使って環境を整えるのは素晴らしいことでしょう。

しかしもともとそのポテンシャルもないのに、風水などで極端に運命操作して「金持ちになりたい」とか「有名になりたい」という欲望を叶えたとします。
(決して不可能なことではないらしい)
しかし、それは将来の運命を前借りすることになる。
結果どうなるか?
現在返すべき負債としてのカルマを返済せず、将来の運命を前借りするので、たとえるなら借金が膨れ上がるように負のカルマが膨れ上がります。

いくつもカードを持ち闇金にまで手を出して、借金地獄に堕ちていく多重債務者を眺めて、
「どうして借金を返さずにまた借りるんだろう。バカだな~」
と思ったことがあるのでは。
風水や自己啓発に中毒し過ぎることは、闇金に手を出して多重債務者になるということに似ています。
ただし現世の借金のように自己破産での免責は決して許されません。さらに闇金のような裏ワザですから利子は莫大なものになります。

だから、風水などの運命操作系占いに中毒し過ぎるのはまずい、と私は思うわけです。


神様の言うなりになる必要はない


私が「ホロスコープの運命を受け入れたほうがいい」と言う時は、何かの宗教みたいに神様の言うなりになれと押し付けているのではありません。
ただ、
「あのさ。自分で立てた返済計画なんだからさ、ちゃんと真面目に返したほうが自分のためだよ? 今返さずに、いつ返すの? 借金も返さずにまた“派手な生活がしたい”なんて言って闇金にまで手を出すなんて、今後ますます自分を追い込むだけだよ」
という、友人なら誰でも言うごく当たり前のことを言っているだけです。


思うに、輪廻転生の概念がない(または薄い)人の一部は、「短期間で欲望を満たさなければならない」という強迫観念にとり憑かれています。
どうにか最短で欲望を満たさなければならないと焦るので、風水や自己啓発法等の“裏ワザ”でも使って、無理やり勝ち組になろうとする。人によっては詐欺などの犯罪もやる…。

今の人生は一度きり。それは真なり。そんなことは生きている間でも一緒です。今日という日は二度と来ない一度きりの日。今は二度と味わえない一度きりの瞬間。
だけど「今という瞬間は二度と来ない」からと言って、刹那の欲望を貪るだけでいいのですか?
やるべきことをやらずに、ただ金持ちになって他人を見下すのが幸せと言えるのでしょうか。

運命の法則、信じるか信じないかはあなた次第。だけど信じて損することは何もないと私は思います。

いいではないですか、自分で選んだ人生を精一杯に生き抜くだけで。※
どうして既に在る人生を受け入れずに、もっともっとと、貪る必要があるのでしょうか。
「成功」
「勝ち組」
「ぱっとした人生」
が口癖の人たちは貧乏人を見下すでしょう。
無為に生きている人たちを見下します。
それどころかいずれ邪魔者扱いするはずです。
彼らの理屈で言えば、「負け犬」は「社会のゴミ」なのではないでしょうか。

何を信じるのも自由ですが。
私は貧しい人や障害ある人を「負け犬」などと呼ぶような人間にだけにはなりたくない、と思っています。

※ホロスコープに社会的成功が計画されている人は大勢いますから、貧乏だけに甘んじろと言っているわけではありません。運命に向かう本能が正常に発動されていれば、生まれ持った計画へ着実に向かいます。その時、人は「ワクワク」するはずです。ただ妙なセミナーなどを受けて他人に極度に洗脳されてしまうと本能がストップし、目標を見失うでしょう。せっかく計画されていた遠大な夢を見失い、「金持ちになる」などという浅い夢しか実現できないのは怖いことです。

 

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最近見た虹と、「天意」の話

 


今月の大雨の最中、東京近郊だけ一瞬晴れたことがあった。
ちょうど仕事終わりの夕方で、西の雲間から光が差しており、「虹が出たらいいなあ」と思い空を見ながら家路についた。
東側の空が開けた場所に出た際、虹のたもと(下側の一部)だけ表れていることに気付いた。

「ああ、もっと全体に半円となった虹が見たい」
そう願って立ち止まり空を見上げていると、見る見る虹がはっきりとしてきて、目の前に架かる巨大な七色橋となった。

※アイキャッチはイメージ画像

この時の率直な感想。
「マジか」。笑

偶然なのかなと思い、虹が消えてきた頃に試しにもう一度願ってみた。
「もう一度、虹が見たい」
するとまた虹が濃くはっきりとなっていき、頭上で丸くつながった。
感動で全身鳥肌が立った。
……どうやらマジで神様に願いが通じているらしい……。


それからしばらく経ったある日。
相方が風邪をひいているのに外出したいと我がままを言うので、冗談で
「神様。このおバカさんが外出したいと我がままを言って聞きません。どうか雨を降らせてください」
と言ったら30分後に雨が降ってきた。
相方は「お前のせいで雨が降った!」と本気でご立腹だった。
(天気予報では翌日の夜から雨のはずだった。早まったのはお前のせいだ、と怒られた)
何か最近こんなふうに天が自分の願ったことを実現してくれることが多い気がする。
これは私が天気を念力で左右しているという勘違いの自慢話ではないので(笑)、念のため。
しかしこういう出来事で「天意」を感じなかったら、さすがにバカかもしれないと最近は思うになった。
あの虹事件や雨事件はたぶん、
「お前を見捨てていないよ。まだ見ているよ」
という高次霊からのメッセージなのではないかと受け取っておく。


以上、プライベート談でした。


先日のレスでも少し「天意」が話題となりました。
色々なことがごちゃ混ぜとなっており、「天意」が何であるのかよく分かっていない方が多いようです。
天気を動かすような「天意」とは、地上に近い位置にいる高次霊たちの仕業。
地上の我々はただ「神様」と呼んでいますが、神にも色々な段階があり、我々に影響を与えるのは地上を卒業した後の先輩たち「高次霊」です。「究極の神」の使い、西洋的に言えば「天使」ということになるでしょう。
彼ら高次霊たちは「天使」として表れる場合は善意の存在であり、その地に生きる人類にとって善いと思う側に味方します。
その際、
「君たちを応援しているよ」
という証拠に虹を見せることもありますし、逆にそちら側に有利であれば雨を降らせることもあります。(もちろん、風を吹かせることもあるでしょう)

人間感覚では、ただ見た目の晴れがましさから
「晴れていれば吉」
とだけ考えるのですが、高次霊たちはそこまで単純なメッセージばかり送るわけではありません。

人間が「天、神」と呼ぶところの高次霊たちは、人間の感覚に近いので、時に名映画監督のような演出・支援をほどこします。
究極の存在である真の意味の「神」はこのような人助けをしません。ごちゃ混ぜにしてはいけません。
そもそも究極の神が、人類の一民族の戦争など手助けするわけがないのです。
たとえばジャンヌ・ダルクのもとに表れた天使は、フランスに属する高次霊です。
他に昔から聖書で描かれた「神々」も同じく民族に属する高次霊と思われます。
より本当の「神」に近い存在は地上の善悪がなく、地上から見れば残酷で、悪魔(悪魔は存在しないが、人類にとって害ある行いをする者のこと)さえ召喚して地上をかき乱すことがあると思われます。
ただ言えることは、善良な高次霊たちはその時代・地域において最も正当と思われる集団に味方するということです。
決して人間の言う「正義」とイコールではないので注意してください。



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死後を信じる人は今を大切にしない!? 否、それでも人生は一度きりである

 



本の紹介。『死後を生きる』


松村潔『死後を生きる』(『エーテル』の前著)を読み始めました。

この本は、死に恐怖を感じているという知人のために書かれたそうです。

冒頭は松村氏らしい優しさと誠実さに溢れる文で、素晴らしい。
特に、「死後がないと思う人は絶望に支配されている?」・「自殺する人は死後の世界がないと思っている?」という項目で書かれた次の文章には、私も全く同感でした。
 わたしは、死後の世界があると思う場合と、死後の世界は存在しないと思う場合とでは、人生の過ごし方が、大きく違ってしまうと思っている。
 死後は存在しないと考えている人たちには強い否定性が潜んでいると感じることが多いのだ。常に何か暴力のようなものを隠し持っているようにも見える。…(略)…
 私がここで否定性に支配されているというのは、根底的なところで、人間は死んだら何も残らないと考える人々のことである。
 どんなものも終わる、決して何ものも続かない。何をしても最終的には何も残らない。「こんにちの世界観は絶望の上に打ち建てられる」(バートランド・ラッセル)
 バートランド・ラッセルらしいが、死後の世界がないと思うことは、根本的に絶望に支配されることを意味する。最後はすべてを失う。子孫に託すといっても、子孫は自分ではない。ある時期が来ると、どんなに努力して手に入れたものも失われる。そうした考えに至ると、何事にもじっくり本気で取り組む気にはなれないのではないか。
 たとえば、会社をやめてしまうと、会社にいる間に関わっていたプロジェクトがどうなろうとどうでもよくなる。…(略)…
 だが、もしわたしたちの生命がなんらかの形で死後も継続し、何ら変わることがなく、自殺することで帳消しになるものなど何もないとしたら、どうだろうか。  

以上、
『死後を生きる』松村潔著(アールズ出版)より引用



※この本はヘミシンクという商品を推奨しているため注意を要します。冷静な判断が可能な成人の方だけ読むことをお薦めします。

自殺する人は死後の世界がないと思っている


以下は昔書いたことの繰り返しになりますが。

「自殺する人は死後の世界がないと思っている」
という話は、現実に松村氏の仰る通りです。
何故なら私は16歳~17歳の頃、自殺ばかり考える日々を送っていたからです。その当時の私は死後の世界や、魂の輪廻転生など一切信じていませんでした

死後を信じない人が暴力を隠し持っているという松村氏の主張も、おそらく事実です。犯罪者たちは17歳当時の私と同じように「死ねば無」と考えて刹那的になり、欲望に打ち勝てず犯罪に及ぶのだろうと推測されます。
もちろん死後を信じない全ての人が犯罪をするわけではありません。犯罪したいという欲望を持ち+死後は無だと考え+神も存在しないと考える人が「どうせ死んだら消えるだけだから欲のまま生きねば損」という屁理屈で実行するという意味です。

また、心理学者や脳科学者たちの調査によれば、幽霊や生まれ変わりなど魂の存在を信じない人ほど「精神病になる確率が高い」そうです。
それだけ唯物主義は人間に絶望を与え、精神的な耐性を奪うということです。



前世も今世も、昨日も今日も同じ。二度と戻れないから大切


私へよく寄せられる批判・説教に、
「あなたは人生が何度もあると思ってるのよね? ってことは、今の人生なんて大切だと思っていないんだわ。いつでも人生棄てられると思ってるんでしょ!?」
「吉野さん、永遠なんてないんですよ! 人生は一度きり! 目を覚まして今の人生を大切にしなさい!」
というものがあります。
(何故か妙な宗教にはまっている女性からの批判が多かったので、女性言葉で再現しています)

でも上の批判は完全に誤解で、逆です。
私は今の人生をとてもとても大切に思っています。
きっと上の批判をしてきた人たちの誰よりも、遥かに今を大切に生きています。

そもそも私が自殺を思いとどまったのは、前世記憶を思い出したからでした。
その時の感情について、詳しくは痛い私小説『僕が見つけた前世』に書いているのですが、自分の現在の苦しみの原因が過去生にあったことを知り「生きていていいんだ」と悟ったのが第一の理由。

次に理性では、
「自殺しても状況は変わらない。いや、自殺したら今よりもっと酷い苦しみを背負うことになる」
という恐怖の未来を考えました。
非常に利己的ではあるけれども、「死後は無ではない」「自殺しても苦しみは消えない」という恐怖があると、自殺を思いとどまるしかないのです。
「全部チャラにしたい、無に溶けて終わらせたい」
というのが自殺志願者のたった一つの願いです。そんな人にとって、
「終わらないんだ。消えないんだ。もっと酷いことになって今が繰り返されるんだ」
という想像は最大級の恐怖なのです。

次に私が悟ったのは
今の人生は、一度しかないんだ
ということでした。
ある前世について
「あの頃に帰りたい。あの人に会いたい」
どれほど強く、強く願ったとしても、過去の人生には戻ることは出来ません。

誰でも過去の想いにかられた時はそうなると思いますが……会いたくて、帰りたくてのたうち回るほど苦しいのです。
私は前世で親しかった人々を想って泣きました、さんざん泣きました。帰ることが出来ない現実に苦しみました。
しかし過去は過去でしかなく、建物や人も今は全て幻となって消え去ってしまっています。これが厳しく残酷な現実なのです。

また、たとえ魂が個性を保ったまま生まれ変わるのだとしても、完全に同じ人生は二度とありません。
前世の友人に再会しても、魂レベルでは再会した喜びに浸っているのですが、二度と同じ状況では会えない。
つまり同じ人生は、――いや今世でも同じ日・同じ時は二度と訪れない。
今この一瞬を生きられるのは、今の自分だけ。
そんな当たり前の事実を激しい痛みを伴って思い知らされました。

(時間は永遠に存在し、過去も未来も同じく存在します。しかし時間軸を移動する我々の魂は、今この瞬間にしか存在することが出来ないのです)

そのため逆説的に思われるでしょうが、私は今この瞬間・今この人生がどれほど大切か、ということを思い知ることになりました。



今を大切に思っていない人ほど、死後世界を否定する


もし死後世界を信じる人に対して
「あなたは今の人生を大切にしていないでしょ!」
などと言う人がいるとしたら、その人はおそらく今日の一日を大切に思っていない人です。
昨日と同じように見える今日について、その人自身が「どうでもいい取るに足らない一日。くだらないから棄てていい」と考えている証拠なのです。

その人たちは、貧乏だったり平凡だったりする人生を
「ぱっとしない人生」
などと言ってけなすでしょう。
中国系の風水などをやる人や、ビジネスセミナーを主催する人によくいるタイプですが、「成功、成功、成功」とばかり繰り返す。
価値基準が貧し過ぎるからです。有名になったり金持ちにならなければ成功ではないし、無意味な人生と思う。そんな「ぱっとしない」人生は棄ててしまっていいとさえ言う。
しかしどんなに貧乏でも退屈に思える人生でも、かけがえのない人生です。
無名だからこそ味わえる穏やかな人生もあります。苦悩も病すらも大切な経験です。それを目標として選んで生まれて来る人生もあります。

大切ではない人生、大切ではない日など一日たりともないし、大切ではない時間も一瞬たりともありません。

そんなことすら知らずに生きている人は、死後について「在る無し」を論じたり宗教を騙ったりする資格は全くないと思います。


前世は決して、
「甘いファンタジー」ではないし「痛い妄想」などではありません。
どんな人にとっても必ず厳しい現実です。

まず「過去に戻れない」というこの明白な現実を突きつけられるだけでも辛い。
そのうえ、失敗したり殺されたり殺したりのネガティブな経験ばかり思い出すことになります。
(前世記憶は失敗した過去のトラウマがなければ思い出さないからです)

「貴族だった頃のアタシを思い出した~い♪」などと言って前世療法カウンセラーの元へ通い続ける夢見がちな人たちの願いなど、本物の前世記憶は徹底的に踏みにじることでしょう。

甘い妄想など今すぐ捨てるべきです。
全ては「因果応報」です。
貴族様のお花畑に遊ぶのが前世ではなく、お婆さんが夜中に語った恐怖の物語こそが真実です。


いつだか江原啓之氏がやっていた番組を見ていた小学生が、
「今の人生が嫌だから来世で頑張りたい。来世で会おう、バイバイ」
と書き遺し自殺したことがありました。
これは輪廻転生という「悪い思想」が招いた惨事だと偏った報道が行われました。

でも、もし輪廻転生を信じる人の全てが「来世があるから自殺しちゃえ♪」などと思うとしたら、昔の日本人は全員自殺していることになります。

昔の日本人はほぼ全員が輪廻転生を信じていたでしょう。
しかしそれと同時に、幼い頃から因果応報の思想を叩き込まれていました。
自殺したら来世ではもっと苦しむ、悪いことをしたら来世で同じ目に遭う。
輪廻転生思想を子供に話す際はまず先にその恐怖から教えたわけです。
日本に唯物思想が入り込み、輪廻転生思想の根幹(因果応報)が途絶えたからこその惨事だったと思います。

「来世があるから、今の人生を大切にしなくていいんだ」
などと大人が考えれば、子供は「来世があるから今の人生はリセットしていい」と思ってしまいます。
輪廻転生思想を全否定し、あるいは甘い夢として考え、「因果応報」を教えない文化こそ最も危険です。

 

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蝶は高次霊が操る「使い」という話

 


お約束していた蝶の話です。

大群の蝶に迎えられた体験


それは、ある古い神社へ行った時です。
その神社には裏手に御祓いしなければ入ることの出来ない神聖な場所があるのですが、私は家族とともに初めてそこへ足を踏み入れました。

一歩入った時から周りに蝶が飛び始め、「妙に蝶が多い場所だなあ」と感じたのです。
奥へ入るにつれて、さらに蝶の数が増していきました。
黄系のアゲハ蝶から、白や黄の小さな蝶、青や黒の巨大な蝶まで……都会暮らしの私が見たこともないような貴重な蝶がどこからともなく湧いて出て来て、私たちの周りをついて来ました。少々、怖気づくほどの大群の蝶たちでした。

いつもの通り現実主義の私は、
「さすがに神聖な場所として自然が守られているだけあるなぁ。もしかしたら自然保護のために、この神社の方針として蝶を放って飼っているのかもしれないな」
などと考えていました。

季節は夏の盛り。ちょうど八月でした。
この時期になると蝶が成虫となり湧いてくるのだと思いました。
当然、同じ季節に行けばまた蝶たちと会えるはずです。この場所で生息している種であるはずなのだから。

それで先月、私は蝶を見るために再びその神社へ行ったのです。
ところが、あいにく急に雨が降り出しました。
青い蝶が一匹だけ飛んでいるのを見ましたが、他の蝶たちの姿はありませんでした。

雨だから蝶も飛べないのだろう、仕方ないな……。
そう考え諦めて、茶屋に入って雨宿りすることにしました。

他に客はなく、茶屋の店員さんが暇そうにしていたので私は尋ねました。
「ここには蝶がたくさん棲んでいますよね。この時期の名物なんでしょう? 今日は雨だから蝶が見られなくて残念ですが、今月はたくさん飛んでいたんですか」

ところが店員さんはポカンと口を開けて、
「蝶……ですか? はあ……? そうですね、たまに見かけることもありますけど、そんなにたくさんではありませんよ。どうしてですか」
と曖昧なお返事。

その瞬間初めて、薄々感じていたことが確信に変わりました。
あの大群の蝶たちは毎年ここで飛んでいるわけではない。
私たちが初めて訪れたことを歓迎するために、わざわざ出現してくれたのだ……と。

実は伊勢神宮へ初めて行った時も、蝶ではないが同様に歓迎してくださる意思を示されたことがあり、
「日本の神社には本当に神様(高次霊)がいるんだ」
と知って驚いたものです。
その時と同じ感覚でした。

おこがましいと思って、あの蝶たちは何も神秘とは関係がない「ただの虫だ」と思おうとしたのですが、やはりという想いで鳥肌が立ちました。

蝶は高次霊の使い?


その時から
「もしかしたら蝶は高次霊の使いなのか?(高次霊が操りやすい虫なのか)」
と漠然と考えていたのですが、再び確信を強めたのが先日の「白い羽」+「アゲハ蝶」の出現。
驚くよりも「ああ、やっぱり」と納得した次第です。

知識として「蝶は高次霊の使い」であるという話を裏付けてくれたのは、結局ネット検索でしたが。笑
ありがたきネット。
スピリチュアルな裏付け知識まで教えてくれる。


ところで高次霊が蝶をメッセージとして使うことがあるのは、きっと蝶という虫が霊的に扱いやすいのと、人が恐れることがないから選ばれるのではないでしょうか?
(追記しておくと、西洋人は蝶を吉兆とは見ないので西洋人に対しては蝶で表すことはないかもしれない。蝶を先祖霊と考え吉兆と見るのは日本人など東洋人。その土地、時代に合ったイメージシンボルが使われます)

おそらく蜘蛛やムカデ、ゴキブリなど人間が「害」と思っている虫は恐怖を与えるだけだから使わないのだろうな。
また、メッセージを送る相手の人間にもよりますね、きっと。
極端な虫嫌いの人は、あれだけ大群の蝶に囲まれたら「キャー!」と叫んで逃げ出しているかもしれない(笑)。私はかろうじて蝶が大丈夫だったから良かったです。

おそらく本人が好ましく思っている虫や動物を使うのでしょうね。

猫好きな人は猫が、犬好きな人は犬がメッセージを運んでくれるかもしれません。


※こう考えていたのですが、世界共通のメタファーとなっているものであれば、本人が抱いているイメージとは関係なくメッセージが来ることはあるようです。
 参考 ☆烏の羽のスピリチュアルメッセージ(2018/6/5)

引用 蝶の種類とメッセージの種類


「蝶は高次霊の使い」という話について。
これは上記の経験から、直観でそう思っていただけに過ぎないのですが、ネットを探してみたらこのような話はよくあるそうです。

特にアゲハ蝶は、やはり高次霊からのメッセージらしい。
〔蝶々〕
モンシロチョウや白い小さな蝶は、親戚や友人からのメッセージ。

頑張って!そばにいるよ。良いことがあるよ。ちゃんと、あなたを見守ってるよ。
という良い虫の知らせ。

白い蝶からのメッセージ。
それはあなたがとても感謝されている、愛されているということ。

アゲハ蝶は高次元からの守護霊様、守護神様、
ご先祖様、氏神様からの一番良いメッセージが具現化したのもの。

もしアゲハ蝶が自分の周りを飛んでるとしたら、高次元の方からあなたに

「近く良い知らせが届くよ。」
「あなたに良いご褒美が待っているよ。」
「あなたを悪いものから、いつも守っているからね。」

といった、とても有難いメッセージだとか。
http://kyoumosiawasearigatou.ti-da.net/e7010861.html より引用
(上ブログ記事もどこかからの引用らしいので、再引用)
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占星術で自分の死期(弱い季節)を知る

 


 今年も早いもので、8月に入りました。

8月は私にとって特別な月です。
毎年、また今年もこの月が来たな……と少し憂鬱になります。

もちろん自分の誕生月だから意識しているのですが。
子供の頃はただ楽しみだっただけの誕生月の訪れが、
「また一つ無駄に年を取るのか」
と憂鬱に思うようになったのは自分でも意外ですね。
それだけ自分も年を取ったということで、こんな年齢まで生きて来られただけでも感謝したいです。


しかし私がこの時期に憂鬱になるのは、実は「年を取るから」だけではなかったと近年気付きました。

まずこの月に入ると怒涛のごとく放送される、戦争特集番組。戦争ドラマ、戦争映画。
不可抗力で戦争の映像に触れてしまうことが憂鬱の原因ではあります。

さらに、……それだけではなく、自分自身の死をも連想してしまうのだと思います。

8月は私の誕生月であると同時に、前世で死の原因を作った月だからです。
ただし命を失ったのは8月ではなくて9月後半の秋口のはずですが。
※注 こう言うのは、他人の記録を見て妄想しているわけではなく、私自身の記憶によります。私の記憶は、あらゆる文献やフィクション=他人の世界と完全に切り離されています)

真夏に生まれた私は子供の頃からよく、
「夏に強くて夏バテなんてしないでしょ?」
などと言われるのですが、そうでもありません。
先日も軽い熱中症で頭痛が止まりませんでした。
水分補給などに気を付けているのですが、どうも夏には弱いようで、いつも秋口になると体力を消耗しています。
それで、
「夏生まれの人ほど意外と夏に弱いんだね」
と周りの人たちに笑われ、そうなのかなと漠然と信じてきました。
他の夏生まれの人もそうなんだろうと思ったり。

でも占星術的によく考えてみれば、そうではないということになります。

自分の出生ホロスコープを見ると、「死の領域」である第8ハウスは乙女座後半~天秤座に当たります。
この第8ハウス上を太陽が通過するのは、毎年9月半ば~10月ということになります。
つまり一年に一回、私の場合は9月半ば~10月に体調の危機を迎えることになるわけです。

「夏生まれの人ほど夏に弱い」
と言うのは誤りだったことになります。
同じ月日生まれでも出生時間が違えば、危機となる季節は全く異なる。
代わりに他の季節生まれであっても、私と同じ8室に乙女座~天秤座の来る方は秋口に弱い、ということになるでしょうか。

なおこれは「死期」というほどには強い意味を持たず、毎年その季節に体調を崩しやすいだろうという予測になります。

皆様も同様に、第8ハウスに来る星座の月は体調を崩しやすいと言えるでしょう。
怯える必要など全くないのですが、体調管理にはお気を付けください。

【占星術知識ある人へ、補足】

他人の死の時期を占うのは公序良俗に反するため、占い師の方は依頼されても断らなければなりません。
(ケースによっては法律に引っ掛かる場合がありますのでご注意を)
ただもし「体調管理を重視すべき時」ということで大まかな占断を出すなら、冥王星に着目すると答えが出やすいと思います。

この公転周期の遅い冥王星が出生太陽のサインに入る年があり、なおかつその年のトランジット太陽が第8ハウスに入る季節は充分に気を付けなければならないでしょう。⇒完全例としてのホロスコープ『古代人で冥王星クリーンヒット→死、の事例 』
ただそれはあくまでも病気など、
「非常に体調を崩しやすい時」
と考えるのが正しいです。

寿命という意味で言えば、やはり人の寿命に最も近い天王星が、ネイタルの天王星に合となる時なのではないでしょうか。当たり前な考え方ですがね。

他にも、天王星×火星などの「不慮の事故」、トランジット冥王星または土星のネイタル8ハウス上通過の「不運」等、人の死期は一概に言えません。

私は特別な天命を持つ人でない限り、人の死期は定まっていないものと考えています。
ホロスコープに表れる死期はあくまでも「可能性」で、気を付けるべき時としか言えません。
通常は定められた運命などないので、避けられる死期もあるはずです。

 

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土星が表す晩年


 

占い好きの皆様には大変長らくお待たせしました。
占い館更新しております。
西洋占星術初級講座6 土星で読む晩年と障害

これを書いていて気付きましたが、孔明の出生時刻は推測通りでほぼ正解ですね。
第6ハウス土星の解釈――これは私個人の考えではなくてオーソドックスなテキストを参考にしたものですが――がぴたりと符号します。


第6ハウス土星:
仕事は地味ながら責任ある職務に就きます。重役にも抜擢されやすいでしょう。しかし厳格過ぎて職場での不和を招きやすく、部下の裏切りに遭いやすくなります。 困難アスペクトがある場合は健康面に不安があります。

 

ご存知の通り、史実として大々正解です。
孔明がこれを読んだら傷口に大量の塩を塗りこまれる感覚になるだろうと思います。
(「だろう」と言うか……)
恐ろしや占星術。
当時は知られておらず何ら影響力のなかったはずの古代東洋人の人生まで正確に当ててくるところが、恐ろしい。

※ちなみに孔明の出生時刻は土星など詳細を見ての判断ではなく、木星カルミネート(合)=大出世と六芒星の特殊アスペクトを根拠としたものです。なお孔明の土星/獅子座11度「宵の芝パーティ(セレブリティたちの気楽な集い)」は、晩年を生きなかったため実現していないものと思われますがどうでしょう? 人物イメージとして気楽なセレブリティの印象はありますでしょうか? 私にはよく分かりません。

 
また私は現在、第5ハウスに土星があるのですがこれも非常に当たっています。 

 

第5ハウス土星:
幼い頃から遊びが苦手で、消極的な人格となります。恋愛でも奥手。困難アスペクトがあると子供に不幸が起きやすくなります。 安易アスペクトがあれば慎重さや真面目さが目上に買われて成功するでしょう。

はい、まさに地味で奥手で、非常に消極的な人間でございます。苦笑
ジョークを解するのは苦手ですし、幼い頃から遊ぶことより勉強のほうが好きだったな。
今もゲームはやらず特に浮かれた趣味もなく、「リア充」の真逆の人間です。
恋愛は受け身のため、おかげさまで婚期は早くなったけどね。
慎重さを認められ、てはいるのかもしれない。でも非常に地味な感じで高収入にはつながらず(これは第2ハウスに惑星がないためでもある)。


これだけ見ていても分かる通り、西洋占星術は恐ろしく当たります。
現実の事象から出生日時を推測できるほどにです。

最近のプロの占星術師たちは、
「当たる・当たらないに一喜一憂するな。当たる・当たらないなんて関係ない」
などと言うのが口癖ですが、それは太陽星座で性格を見る占いが当たらないとのクレームに対する言い訳かもしれません。

私は思うのです。
当たらない占いや心理分析には何の意味もない。と。

やはり占いでも心理分析でも、その人の状況を正確に言葉で説明出来なければ、今を生きる助けにはなりません。
(医療で喩えれば、「正確な診断」があってこそ初めて治す手がかりが得られるということです)

だからこそ経験や思考を駆使して、教室の講師に植え付けられた思い込みさえ排除し、「当たる」という手法を自ら選択していく必要があるのだと思います。

私もまだまだ正確に当てるまで能力が及びませんが、いつか辿り着けるようにせめて誠実に学んでいきたいものです。
そのためには何のしがらみにも囚われない自由が必要です。
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『テューレリー庭園』戦略力、企画力…。IC(天底)とは何か

 占星術サイトから来られている方向けの話。
そろそろ初級講座を更新せねばと思いまして考えをまとめているのですが、意外と難関なのがIC(天底)の解釈です。
もちろん、テキスト通りに書けば簡単なのですよ。
「先祖・家系・家庭を表す」
「あなたのルーツ」
「あなたが最も心安らぐもの」
等々。
プロもこのまま解説していますね。

でも実際に解読していくと決してそうとは言い切れない結果が出て来る。

たとえば私のICは双子座2度(数え3度)。
『テューレリー庭園』。
比較的に最近手に入れた直居版のサビアン解釈を読んで、一般的なICの説明について考え直すことになりました。

…よい意味では戦略戦術に適性を持ち、卓越した先見性のある企画力となる。
一般的にいえば、頭の良い人だ。だが、エゴの思考は絶えず二元の光と影を持つので、打算、陰謀という側面も出てこよう。

『定本サビアン占星学』P68
追記。
すたくろさん解釈:
目指す方向性
・シンメトリー効果を活用していくこと。
・部屋をシンメトリーにしたり、また、自分をシンメトリーな状態に近づけていくこと。
・右脳と左脳の連動を生かして想像力と具体化する力を発揮すること。
・機能美や様式美、作法などを追求していくこと。
・論理的に物事を考えてシンプルな答えを導き出すこと。
・スケジュールを合理的に組み立てて無駄のない時間を過ごすこと。
・シンプル+豪華さの演出で人々に安心感を与えれるような場を作る、またそんな人になること。
・組み立てる思考力を発揮して目標達成のための美しい戦略を立てること。
・知性を発揮して自分を表現していくこと。
・安心感を手に入れるために自然界に手を加えていくこと。

この度数の人の特徴
・企画、戦略、策略などに優れている。
・スマートで賢い人。
・知的でお洒落な人。
・ソリッドな考え方の持ち主。

頭痛がしてきた。
また、「戦略戦術」ですか。しつこいな。

ほぼMCの『チェス』と同じような内容であり、これを自分の「心休まる場」などと言われても抵抗を覚えてしまいます。
むしろ心が騒ぐと言うか、こんな指摘をされたら落ち着きを失ってしまうね。
自分はそんな人間じゃない! と叫びたくなる。

ホロスコープは「生まれる前に自分で立てた人生計画書」であることは確かなのだけど、ホロスコープ自体は高次霊など他者の手で書かれ、本人は受け入れてサインする程度かもしれない。(起案は相手方の契約書みたいなもの。もちろんサインすることに関して自由意思あり)
最近、そんなふうに思いつつあります。

思えば私が中学時代に自分のサビアンの解釈に出会っていたら、
「全く当たっていない」
と笑って放り出していた可能性が高いです。
ゲームにすら興味がなく、戦略戦術など自分には関わりがないと思っていたし、そんな能力など僅かもないと思っていました。(いや今でも、そんな能力はないと思っていますが)
前世記憶の体験を経て初めてこの解釈が理由あるものなのだなと分かります。

だから自分のホロスコープが全く当たっていないと感じている若い人も、いずれ人生の秘密が明らかとなるにつれてホロスコープは正しかったと知ることになるのではないかな。
もう一件、せっかくなので先日触れたヘッセのホロスコープも見てみると、この方のICはさらに分かりやすい。

http://esotericastrologer.org/?articles=herman-hesse

牡羊座19度(数え20度)『冬に鳥に餌をやる若い少女』
強靭な精神で地道な行為を続ける人。孤立するが、恐れない。弱者への慈悲を持つ。

まさに一般読者が彼に対して抱いている人物像ですね。
なんと言うのか、やはりICも本人にとっての「心安らぐルーツ」なのではなくて、公のイメージの補完という気がするな。
あるいは押し込めておきたい自己イメージ。無視したいレッテル。
押し込めているつもりなのだが周囲には伝わっている、とか?

ICの一般解釈を考え直すべきかもしれない。

 

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自殺者の運命は、計画されていない


 前記事で鏡リュウジ氏の推進する「心理占星学」について少しケチをつけてしまったみたいなのでフォローしておくと、『占いはなぜ当たるのですか』という本は私の心に長く残る名著です。

理由は、鏡氏が「自殺者の運命だけはホロスコープで読むことは出来ない」と述べていること。
この断言を読んだ当時は本当に衝撃を受け、以降上の本は私のバイブルとなりました。

――“自殺者の運命だけはホロスコープに刻まれていない”
これは正確には鏡氏の個人としての断言ではなく海外の研究データです。
統計を取った結果であるということがまた衝撃でした。

つまり、自殺だけは人間の運命として予定されていないということになります。

事件・事故・病気、あらゆる苦悩の可能性(あくまで可能性)はホロスコープに表れる。
しかしそこから逃げる自殺という可能性だけは不思議と一切表れない。

何故か。
それは人の魂が、苦悩を受けることすら予め自分自身で計画して生まれてきているから、だろうと私は思います。
人はこの地上で苦しみを受けて、それを自らの魂を磨く研磨剤とすることを選択する。

しかし現実には生きていることが嫌になり自殺する人がいます。
(私も何度かその選択を選びかけたことがあります)
この事実は、人間が生まれて以降に「計画変更」する選択の自由が完全に与えられていることの証明になると思います。

やはり、人に「神から与えられた運命」などないのですよ。
全ては自分自身で選択可能なんです。

ただし生まれる前に自ら予定していた運命(カリキュラム)を変更することは自分の望むところではないはずなので、よほどの意志力がなければ変えられませんがね。また、地上レベルの浅知恵で変更したところで、大きな視点から見れば必ず不都合は生じますが。

まして、全てを放り出して自殺することは最も自分としては本意ではないことなのだろうと思います。

「罪」などというものは魂にないので、自殺したからと言って罰してくれる神様などいません。
しかしその行為が自分にとってマイナスのことであるとは言えます。
もう一度苦しいカリキュラムを繰り返すだけであるし、もしかしたらさらなる負債を負ってもっと苦しくなるかもしれない。
自分自身が後で辛くなるだけだから、やめておいたほうがいいのではないでしょうか。

スピリチュアル的な経験を経た私が断言しますが、占いは決して運命(神)VS自分自身の二元論で引き裂かれる矛盾したツールではありません。

予定は未定、神イコール自分なのです。

全ては自己責任の世界。

これほど冷徹で数学的な原理はないと思います。
この原理を「神」と呼ぶのだとしたら、人は数学的システムを畏れるべきです。
私はただただこの冷徹なシステムを畏れ(畏怖)ながら過ごしています。


※「魂は孤独」と書いていた箇所、誤解する人が多そうだと考えてカットしました。ここで書いた孤独とは、“魂は自分の運命を自分で決断して責任を負わなければならない”という意味。温かく見守ってアドバイスをくれる先輩方、一緒に生きる仲間たちはたくさんいますので「独りぼっちで寂しい」という孤立状態とは違います。絆を忘れたり否定したりすると下の孤独感に陥ります。
【関連記事】人は地上でバラバラ? 勘違いの個人主義=孤独感が全体主義を招く 

 

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ユング心理学と占星術融合への疑問

 占い館でいずれ書こうと思っていますが、とりあえず備忘録で考えをメモしておきます。

鏡リュウジ著『占いはなぜ当たるのですか』を読み返していると、いつか歩みかけた懐かしい道を思い出します。
秋山さと子の『ユング心理学』を手に取ったのは高校一年の時だったか。
外向・内向、思考・感情・感覚・直観の分類は目からウロコで、衝撃を覚えたものです。
以来、ユング系の解説書や夢分析の本を読み漁りました。

そもそも、それらの本を読み漁るきっかけとなったのは16歳時に見たあの「狼の夢」を分析するためでした。
そしてお決まりの「シャドウ」だの「老賢人」だのアーキタイプに分類し、苦心しつつ夢解読を自分なりにまとめたりしましたっけ。
・オオカミ=シャドウ
・最後に表れる鳥=老賢人
等々。

しかし私が心理学にはまらなかったのは、それらの夢分析が完全なる間違いであったと後で知ったからです。
「シャドウ」だの「賢人」だのに苦しみつつ当てはめたシンボルは、全て前世の記憶の断片に過ぎず、何ら現在の精神状態も未来予測も示していなかったと判明したのです。

具体的に言うと、記憶が動物キャラにすり替わっただけなのでした。

・小動物=庶民
・オオカミ=権力者
・肉を食べる=庶民から搾取すること、独裁者になること
・肉が食べられない=搾取出来ない
・キツネ=最後に戦った敵将
・キツネの言葉=敵将が死後に言った言葉
・最後に表れる鳥=生前の主人


ついでに言えば、何故「オオカミ」というキャラが選ばれたのかと言うと、これは前々世のギリシャにて学んだ「独裁者(僭主)は狼である」という記憶が残っていたからでしょう。
つまり動物キャラへの変換の過程すら、記憶の断片に過ぎなかったわけです。

ユング心理学の信奉者の方には申し訳ないのですが、やはり夢は集合無意識からのメッセージであることは滅多になく、ほとんどの場合このように退屈な記憶の断片の組み合わせに過ぎないのではないでしょうか。
現実で思い当たらない記憶が含まれる場合、ぞれは前世の記憶だからかもしれません。
 

私はこの経験を経て心理学的な夢分析に疑いを持ちました。
完全に疑ったわけではないが、「全ての夢をアーキタイプで分析するのは間違い」と思いました。
それで、占星術に関しても【心理占星学】というジャンルには踏み込めなかった次第。

その後、出会ったのが松村潔の『夢分析』という本でした。
これが松村潔との著書の最初の出会いだったのですが、彼はその本の中で
「夢に淫するな」
と書いていました。
つまり、
「あまり夢のイメージを深読みし過ぎて誇大に解釈し、こだわってはならない。冷静に、現実の日常に添った解釈をしなければならない」
という意味です。
事実として神秘的な夢が記憶の断片でしかなかったという経験を経て、心理学一辺倒の夢分析に疑問を持っていた私は「これだ」と思いました。
基本的には松村氏も夢のイメージを集合無意識的に解釈していたと思いますが、彼の凄いところは、彼自身がオカルティストであり神秘や占いを「事実」と捉えることが可能だったことでしょう。

神秘は「事実」とするなら一気にその後光を失い、地上の現実と同じく広がりのないイメージとなってしまいます。
地上の人たちから見れば前世・来世も「あり得ないこと」ではありますが、いったんそれを事実と受け入れたなら、一段階上の狭い現実に過ぎないのです。

固定された現実にはもはや広がりなく、退屈です。
その退屈を避けるため、心理学好きな人たちはイメージを広げよう広げようとするのでしょうか?
もしかしたらユング自身もそうだったかもしれません。
(ユングの場合は自分自身にも霊感があり、死後の世界もたびたび行き来していたようですが、宗教的な背景や反オカルティズムに遠慮して「科学」の心理学領域から出ることが出来なかったのかもしれない)
 
でも実際、鑑定をしていると思うんですよね。
「占星術は拡大解釈ではなく、広いイメージの中から一つだけ解釈を選び取ることだ」
と。素人のくせに生意気ですが。
つまり占星術は、氾濫するイメージの濁流の中から、その人だけの現実的な解釈を選ばなければならない。そうでなければ鑑定にならないし、実生活に何ら役立たない。

むしろ拡大より縮小です。
そのほうが遥かに難しい。

 
【心理占星学】のファンは激しく反論するでしょうが、やはり占星術は技術であって、事実・現実としての神秘を写し取った写真を「正しく」読みとることに意味があると思います。

私に対して
「土星から苦手な分野は何であるのか分析してください!」
などと土星=シャドウとする技法をしつこく言ってくるお客様がいたのですが、私は土星をシャドウとは思っていないので受け入れることは出来ませんでした。
(その技法を行っている先生のところへ行ってください、と丁重にお断りしました)

無論【心理占星学】が全て間違っていると言うわけではないです。
参考にして取り入れるべきところは取り入れたいと思います。
しかし何にしても、他人が唱えた説を無考えに鵜呑みにし、誰にでも強要することだけはやめたいものですね。

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ユング心理学と占星術融合への疑問


 占い館でいずれ書こうと思っていますが、とりあえず備忘録で考えをメモしておきます。

鏡リュウジ著『占いはなぜ当たるのですか』を読み返していると、いつか歩みかけた懐かしい道を思い出します。
秋山さと子の『ユング心理学』を手に取ったのは高校一年の時だったか。
外向・内向、思考・感情・感覚・直観の分類は目からウロコで、衝撃を覚えたものです。
以来、ユング系の解説書や夢分析の本を読み漁りました。

そもそも、それらの本を読み漁るきっかけとなったのは16歳時に見たあの「狼の夢」を分析するためでした。
そしてお決まりの「シャドウ」だの「老賢人」だのアーキタイプに分類し、苦心しつつ夢解読を自分なりにまとめたりしましたっけ。
・オオカミ=シャドウ
・最後に表れる鳥=老賢人
等々。

しかし私が心理学にはまらなかったのは、それらの夢分析が完全なる間違いであったと後で知ったからです。
「シャドウ」だの「賢人」だのに苦しみつつ当てはめたシンボルは、全て前世の記憶の断片に過ぎず、何ら現在の精神状態も未来予測も示していなかったと判明したのです。

具体的に言うと、記憶が動物キャラにすり替わっただけなのでした。

・小動物=庶民
・オオカミ=権力者
・肉を食べる=庶民から搾取すること、独裁者になること
・肉が食べられない=搾取出来ない
・キツネ=最後に戦った敵将
・キツネの言葉=敵将が死後に言った言葉
・最後に表れる鳥=生前の主人


ついでに言えば、何故「オオカミ」というキャラが選ばれたのかと言うと、これは前々世のギリシャにて学んだ「独裁者(僭主)は狼である」という記憶が残っていたからでしょう。
つまり動物キャラへの変換の過程すら、記憶の断片に過ぎなかったわけです。

ユング心理学の信奉者の方には申し訳ないのですが、やはり夢は集合無意識からのメッセージであることは滅多になく、ほとんどの場合このように退屈な記憶の断片の組み合わせに過ぎないのではないでしょうか。
現実で思い当たらない記憶が含まれる場合、ぞれは前世の記憶だからかもしれません。
 

私はこの経験を経て心理学的な夢分析に疑いを持ちました。
完全に疑ったわけではないが、「全ての夢をアーキタイプで分析するのは間違い」と思いました。
それで、占星術に関しても【心理占星学】というジャンルには踏み込めなかった次第。

その後、出会ったのが松村潔の『夢分析』という本でした。
これが松村潔との著書の最初の出会いだったのですが、彼はその本の中で
「夢に淫するな」
と書いていました。
つまり、
「あまり夢のイメージを深読みし過ぎて誇大に解釈し、こだわってはならない。冷静に、現実の日常に添った解釈をしなければならない」
という意味です。
事実として神秘的な夢が記憶の断片でしかなかったという経験を経て、心理学一辺倒の夢分析に疑問を持っていた私は「これだ」と思いました。
基本的には松村氏も夢のイメージを集合無意識的に解釈していたと思いますが、彼の凄いところは、彼自身がオカルティストであり神秘や占いを「事実」と捉えることが可能だったことでしょう。

神秘は「事実」とするなら一気にその後光を失い、地上の現実と同じく広がりのないイメージとなってしまいます。
地上の人たちから見れば前世・来世も「あり得ないこと」ではありますが、いったんそれを事実と受け入れたなら、一段階上の狭い現実に過ぎないのです。

固定された現実にはもはや広がりなく、退屈です。
その退屈を避けるため、心理学好きな人たちはイメージを広げよう広げようとするのでしょうか?
もしかしたらユング自身もそうだったかもしれません。
(ユングの場合は自分自身にも霊感があり、死後の世界もたびたび行き来していたようですが、宗教的な背景や反オカルティズムに遠慮して「科学」の心理学領域から出ることが出来なかったのかもしれない)
 
でも実際、鑑定をしていると思うんですよね。
「占星術は拡大解釈ではなく、広いイメージの中から一つだけ解釈を選び取ることだ」
と。素人のくせに生意気ですが。
つまり占星術は、氾濫するイメージの濁流の中から、その人だけの現実的な解釈を選ばなければならない。そうでなければ鑑定にならないし、実生活に何ら役立たない。

むしろ拡大より縮小です。
そのほうが遥かに難しい。

 
【心理占星学】のファンは激しく反論するでしょうが、やはり占星術は技術であって、事実・現実としての神秘を写し取った写真を「正しく」読みとることに意味があると思います。

私に対して
「土星から苦手な分野は何であるのか分析してください!」
などと土星=シャドウとする技法をしつこく言ってくるお客様がいたのですが、私は土星をシャドウとは思っていないので受け入れることは出来ませんでした。
(その技法を行っている先生のところへ行ってください、と丁重にお断りしました)

無論【心理占星学】が全て間違っていると言うわけではないです。
参考にして取り入れるべきところは取り入れたいと思います。
しかし何にしても、他人が唱えた説を無考えに鵜呑みにし、誰にでも強要することだけはやめたいものですね。

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『シークレット』のシークレット。人生の創造とは何か

 


 『シークレット』などの引き寄せ法則、成功哲学書について思うことを書いてみます。

モラトリアルから卒業し、「分をわきまえる」ことがクリエイト

友人がメールで引用した文書にインスピレーションを受けました。
以下、引用の引用。
You are not discovering yourself, but creating yourself anew. Seek,therefore, not to find out Who You Are, seek to determine Who You Want to Be.

人生とは自分自身を発見することではなく、創造することであり、自分が何者なのかを見つけようとするのではなく、自分自身がどうなりたいのか決めること。

『Conversations with God』

この引用箇所、私も全く同様に思います。
私の輪廻転生の記憶から言えば、自分が何者になるかは自分で決めることが出来るようです。
全ての未来は完全に自分自身で選び取っていくものです。

ただ上の文書はあまりにも神々の世界の言葉に近すぎて、地上では誤解されるでしょう。

上の文書は、「自分」という個性が全く無いのだとは言っていないし、過去も全く存在しないのだとも言っていない。したがって「自分が何者なのか考えることは意味のないこと」とは、少なくともこの地上においては言い切ることは出来ないはずです。

何故なら地上生活では時間が確かにあり、過去は存在するからです。
大きな宇宙の真理から見れば「時間は幻想」が真実だとしても、地上生活において「時間は幻想」だと主張する人は生きていけません。
もし一秒前のことも記憶できない人がいたらそれは障がいとなります。
時計を放棄し、自分勝手な行動をしていたらとても通常の社会生活は送れなくなる。

この地上の時間軸で人生を生きる限りにおいては、立ち位置が必要なのです。
立ち位置とは個性や役割のことです。

「立ち位置」を探すためには、直近の過去の経験は確かに役立つこともあるでしょう。
人によっては過去生の経験が邪魔して先へ進めなくなってしまう場合があります。
このような人の場合は、過去生を探ることが重要な意味を持つはずです。

しかし「自分探し」のためだけに過去生を探っても、玉ねぎを剥いていくようなもので永久に核心には辿り着けないでしょう。
数万年や数十万年の長い期間にわたって培った個性であっても、それは魂の故郷の性質と経験が混ざり合ったものに過ぎず、「真性」とまでは言えないからです。
辿り着くとしたら、全ての魂が一つであるという核心です。
個性は無なのだ、という真実です。

結局、ゼロの地点に放り出されてしまうだけです。

自分探しのモラトリアム(猶予期間)を与えられた若者たちは、無理にでも自分自身で立ち位置を選ばないと大人にはなれません
いつかは自ら選択しなければ先に進めないのだと思います。
これが「クリエイト」、人生を創造することだと言えます。


ところで、地上において我々が混乱してしまうのは、この「選択」がいつ行われたかの自覚がないことです。
生きているうちに行動を選択し人生を変えていくことも可能ですが、ほとんどの場合、大枠の計画は生まれる前に決まっています。
この大枠の計画は誰が決めるのか?
これも自分自身です。
神様などいません。 人間の運命を定めて押し付ける神様、都合良く地上の願望を満たしてくれる「一般イメージの神様」などいないという意味です

だから不幸なことが起きて神様を怨んでも無駄。
全ては自分で決めたのです。この人生でそれを経験するために。
経験して行動して、その行動により未来を「クリエイト」するために。

生まれる前の自分は完全に公平で、不幸も幸福も地上感覚では分けていませんから、いざ地上に降りて来て「無理」と思うようなことでも平気で選択してしまうのです。
とは言え、それは必要な経験だし、必ず現時点の自分で乗り越えられるようなものを選んでいるはずです。

現実化する思考が生まれるタイミング

この生まれる前の人生設計こそが唯一、「現実化する思考」と言えます。

ですから残念ですが、いくら現世で思考してみたところで、地上感覚におけるエゴや欲が叶うことは滅多にありません。
生まれる前の自分はそのような地上感覚でエゴを満喫することを願っていなかったからです。

もし「思考が現実化した」と主張する有名人がいたとすれば、その人は生まれる前に立てた計画を明確にイメージ出来たというだけのことです。
(大富豪にこの人種が多いように感じられるのは、成功哲学書がインタビューしているのが大富豪だけだからです。彼らはたまたま、今世では大富豪になる計画で生まれてきただけのことです)
生まれる前の計画は、生きている間にイメージしようがしまいが叶います。

それで私は、
「『ナポレオン・ヒル』や『ザ・シークレット』は間違っていないが、不十分」
と言っています。

あのような本が必ずヒットしてベストセラーになるのは、いかに人間の欲が深いかということを表していますね。
地上に降りてくると人間たちは金や名誉ばかり欲しがるように変わってしまう。

誰もが願うだけで大富豪になり有名人となれる。
そんな浅ましい願いを叶える魔法の杖が存在するわけないでしょう?

思い出すべきです。
我々が生まれる前に欲したのは、金や名誉ではなかった ことを。

どのような不幸な人生であっても、自ら選択して求めた宝であることを。

本来はポジティブな人生も、ネガティブな人生も存在しないのです。どちらの人生も同じです。

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経緯1.退行催眠で見た「前世イメージ」と、当初の考え

 


『我傍に立つ』は、催眠中に見たイメージがベースになっております。  
以下はイメージを見た日から現実の記録を調査するまでの約6年間の覚え書きです。

当時のメモなど資料は捨ててしまったので記憶に頼って書いています。
このため細部の間違いはあると思いますが、一切の嘘(フィクション)はありません。

※ここに書いた経緯は小説『僕が見つけた前世』で、より詳しく分かりやすく書いています。 前世記憶を思い出した時や記録を見つけた時の状況・気持ちについても詳しく書いていますので、小説のほうで追体験されることをお奨めします。ただ小説内の年齢設定はフィクションとして若干、変えております。


17歳 11月/修学旅行にて。“前世を見る実験”中、謎の映像を見る


修学旅行の夜。占いマニアの友人に誘われて、嫌々ながら「前世を見る実験」というものに付き合った。
(当時の私は“前世”等に興味はなかったが断りきれず付き合った)  
友人が雑誌で見たという“実験”方法は以下のようなもの。

こちらの記事参照(筆者著、当ブログ内です) ⇒前世を思い出す方法~完全無料、自己退行催眠のやり方

形だけ付き合うつもりだったが、黙って目を閉じていると暇だったので思い出を遡っていた。
3歳か2歳で記憶が止まり、それ以上は何も思い出せなくなった。
だがその先にもまだ何かあると気付いてしまった時、恐怖に襲われた。
「嫌だ。それ以上は見たくない。こんなことはもうやめよう」
と思って目を開けようとした瞬間、頭の中で映像が切り替わった。
以降は映像の自動再生となる。
つまり意識せずに映像が目の前で展開されていく感覚。
意識がある時に思い出す記憶よりもはっきりとしていて、まるでその場で見ているような現実感があった。
(睡眠中に見る夢とは明らかに違う。睡眠中に見る夢をテレビのドラマにたとえるとしたら、この映像はドラマ中に飛び込んでくるニュース映像のような感じ)
※現実感があったのはこの瞬間のみ。この時の記憶を後で思い出すと、『前世に関して、どのくらい記憶があるのか? 』で書いた通り幼少期の思い出に似てぼんやりした感じになる

映像の内容:

 荒地のような(草の少ない土の広場の)景色が見える。
 激しい砂埃が舞い上がり、その中で多くの馬と馬がぶつかりあっている。
 ちらちらと光が見えた。武器が光っているのだと分かった。
 小さな人影が、ばらばら馬から落ちていく光景が見えた。――あれは戦争だ、と悟る。
 〔略。下記小説参照〕
 男の顔を見ようとした瞬間、それが“過去”の自分の姿だとはっきり分かった。
 自分の顔は直視することが出来ない。だが、完全に自分だと感覚で分かる。

 “過去の私”は、死んでいた。
 死んだ後に生きている時と同じ服を着てそこに立っていたのだった。
 ……そう悟った瞬間、一気に“過去の人生”を思い出す。

★「記憶」の具体的な内容はこちらの小説をお読みください。『我傍に立つ』は小説であるためフィクションを含みますが、巻末にフィクションと実際見たイメージを分ける解説を掲載しています。
 

★または、こちらnoteで一ページにまとめています。(このページは見たままの表現です)
 

 回想が終わると映像は切り替わり、空の景色。
 どこまでも青く澄み渡った空、天と地の狭間に居る。
 とても安らかな気持ち。
 辛い人生だったが、今は苦痛はない。罪もない。
 〔略〕
 あの人とは確かに、魂の伴侶だったと悟った。
 今、どこかで生まれ変わっているかもしれないが、あの人ならきっと良い人生を送っているだろうと思う。……
友人が部屋の蛍光灯をつけたので唐突に映像が途切れた。
長い人生を見たような気がしたが、たぶんほんの数秒の出来事。
「何か見えた?」
と友人に聞かれても面白おかしく話す気になれず黙っていた。
映像はあまりにもリアル過ぎ、しかも自分の深い秘密に関わっているという気がしたため。
映像の中の男は、確かに自分自身だという強い感覚があった。
他人に話すことは自分の素顔をさらすことだ、と感じていた。


17歳~23歳/イメージを見た直後から、記録と向き合うまで


この映像を見た直後、自分の小さい頃からの謎が解消された気持ちになった。
それは映像の人生に今の自分の悩みの決定的な原因を見つけることが出来たので。

具体的には:
現在(小学校~高校時)、平均より上程度には勉強が出来るのだが、そのことを周囲に知られるのが非常に怖かった。テストの答えをわざと間違えるなどして成績をコントロールし、“勉強が出来ない振り=平均的な成績の生徒”を装っている。「仮面を被り嘘の自分で生きている」という罪悪感とストレスを常に感じている。

悩みの理由:
“過去の自分”は国中の人々から「知能が優れている人」と呼ばれ、現実とのギャップに非常に苦しんだ。このため、現世では無意識に 「アタマがいい」と呼ばれることが怖くて仕方がなかったのではないか? (恐怖のあまり過剰に評価を下げようとしてしまった。本当の自分を周囲に知られてはならないという恐れもストレスだった)


以上のことから、映像は自己救済のために見たものだと考えられた。


この時点での私の考え ……
「精神的危機にあった現実の自分を救うため、脳が教訓としてこの夢を見せたのではないか = “ほんとうの自分らしく生きて良い”という潜在意識からのメッセージ」
(※脳には、精神的危機を救うための物語を作る機能がある。例、睡眠時の夢)

ところがまもなく似たような人生の記録(十行程度の紹介文)を発見して、このイメージは自分の脳が作った “オリジナル” ではなかったと思った。後でそうではないと知るのだが。

※この時、私は歴史小説に全く興味のない高校生だった(当時はまだゲームも未発売で世間であまり知られていなかった)。私は有名な創作のタイトルだけは知っていたが内容は知らなかった。当然、この時点ではその人物の名前を聞いたこともなかった。だが潜在記憶は本人が意識出来ないことでも記憶 している場合があるという。このため、潜在記憶だろうと考えた。

    ↓

「イメージは潜在記憶だった。つまり他人の人生。自分とは何の関係もない」
と思い、どうでも良くなる。
のち、放置。忘却。


現実調査

2年後また思い出してから忘れられなくなる。

以来何年経っても忘れられないので、これはやはり自分にとって重要なイメージだと考えるようになった。
23歳の時、現実の記録と向き合うことを決意。


以下は23歳時、初めて記録と向き合った時の覚え書き。 
この調査は次の通りの疑問点の解決を目的としたもの。

1. 自分が見たイメージは実在した情報か?
2. 実在するとすれば、誰の情報なのか? (複数の人物の情報が混在している可能性はないか)
3. 情報を潜在的に記憶した可能性はないか?

なお次ページの表では煩雑になるため詳細な人物名・用語を省いている。
※ここから小説読者様のみ限定公開です  >>続き 『経緯2.記録と向き合う。「現実調査」の過程』
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【質問】何がきっかけで読書好きになったのですか?


 【質問】
何がきっかけで読書好きになったのですか? 読書好きとなったきっかけの本を教えてください! 私も本好きになりたいから、その本を読んでみたいです! ※

【回答】
記憶にございません。笑
物心ついた時にはすでに読書好きでした。


※同じような質問は過去に何件もいただきました。ここでは皆様のご質問をまとめて表現しています。 以下は雑談。

〔目次〕
そう言えば、「読書好きになったきっかけの本」が思い出せない
物心ついた時からの「読書好き」は不思議ですか?
もし、読書好きになった原因が過去世にあるのだとすれば
まとめ。読書好きになるきっかけなんて、何でもいいんです


そう言えば、「読書好きになったきっかけの本」が思い出せない


最近、『戦う書店ガール』というドラマを家族が観ています。本のタイトルが耳に入って来ると私もつい釣られて画面を見てしまいます。

このドラマの中で主人公が「最も好きだ」と言っていたのが、ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』。
私も子供の頃にとても好きだった本なので嬉しく思います。あの赤い布張りの装丁、児童書のわりにずしっと手に重かった分厚さが懐かしいですね。

しかし、ドラマの主人公が
「『はてしない物語』で人生が変わった。何度も読み返している」
と言っていて、自分はそれほどではなかったなと思いました。
また読んでみたいなと思う本ではありますが、傍に置いて何度も読み返すということもなかったのです。

“一番好きな本は何ですか”
“人生を変えた本は何ですか”
と聞かれると私は答えに詰まります。
たぶん、あまりにたくさんの本を読んで様々なことを感じてきたせいで、「これ」という一冊を答えるのが難しいのだと思います。
もちろん凄いと思った本を挙げることはできます。最高度に衝撃を受けたのはヘッセ『デミアン』、共感したのはスティーブンキング『スタンド・バイ・ミー』等。
それら読書体験を述べることは可能ながら、その本が「人生を変えた」かどうかと聞かれると難しい。
まして、
「本好きになったきっかけ」
としての本などありません。
何故なら、何かの本と出会ったことをきっかけとして読書好きとなったわけではないからです。

読書好きで有名なタレントの又吉なども、太宰治の『人間失格』と出会ったことをきっかけとして読書好きになった、と公言していますね。
もしかしたら、読書好きの皆さんにそのような本があるのでしょうか。
本を好きになるきっかけとしての本を持たない私は、やはりおかしいのでしょうか?


物心ついた時からの「読書好き」は不思議ですか?


私は物心ついた頃からどういう理由か分からず、読書が好きでした。
「本が好き」と言うよりは、「読書が好き」なのです。本を読むという行為そのものが。

目で文字を追うという行為が好きなのであって、その内容はだいたい何でも良い。もちろん良質な物語を読むことができたなら幸福ですが、退屈な内容であっても文章であれば延々と目で追うことができます。その行為が心地良いのです。

このような感覚は、同じ本好きな人たちに語ってもなかなか理解してもらえないので孤独感があります。
読書家と自称している人たちのなかには、「他人よりも難しそうな本を読んで自己アピールしたい」「他人に勝ちたい。勝ったような気に浸りたい」というだけで無理をして本を読んでいる人も存在します。こういう方々にはまず絶対に理解されません。
ミステリ好きなど、あるジャンルのファンの方々にも理解されないことが多いです。一つのジャンルの本にこだわり、他ジャンルは一切受け付けないと言う読書家はわりと多いように思います。たとえばミステリ好きには純文学など退屈(に見えるらしい)本は敵視され、害悪であるかのように憎まれています。ジャンルにこだわっているということはつまり、内容重視ということでしょう。

私はジャンルにこだわらず読みます。文字であれば本当に何でも良いです。(ある種の女性作家の小説など、生理的に受け付けないものはたまにある)
同じような嗜好の人はどこかにいるでしょうか。
辞書や六法全書でも延々と眺めている人がいたら、少しは孤独が癒されるのですが。
 

もし、読書好きになった原因が過去世にあるのだとすれば


ところで自分のこの趣味はいったい何が原因で身に付いたのか。
親の教育? 確かに親の教育は重要のようです。親から「読み聞かせ」をしてもらった子は読書好きになると言われているらしい。
ただ私は幼い頃、親などから「読み聞かせ」をしてもらった記憶は一切ありません。家庭が悲惨な状態だったので、大人たちの誰も子供に「読み聞かせ」をする余裕などなかったというのが現実。

だから思い当たるのは、やはり過去生しかなくなってしまうのです。

しかし一つ前の過去生でも「読書好きになったきっかけ」は思い出せません。良い家柄なので書物の教育は一通り受けたでしょうが、読書を推奨されたり押し付けられた記憶などないのです。
前世でも物心ついた時から読書という行為が好きだったように思います。

思い当たる記憶があるのは、そのさらに前です。
虐待を受け孤独だった頃、書庫へ逃げ込み延々と書物の文字を見つめて過ごしていた……。あの時がきっかけなのではないかと考えています。

つまり私は辛い人生を耐え抜くため書物へ逃げ込んだ。
だから文字を見つめていられるなら何でも良く、文字を目で追うだけで心が落ち着くようになったのでしょう。

そんなわけで、私が読書好きになった本当の「きっかけ」は少々悲惨で哀しいものです。
 

まとめ。読書好きになるきっかけなんて、何でもいいんです


この話で何を伝えたいかと言うと、読書好きになる「きっかけ」なんて何でも良いのだ、ということです。
「面白い本と出会ったから」
でも良いし、
「好きな人が読書を薦めてくれたから」
でも良いと思います。
私のように哀しいきっかけは経験してもらいたくありませんが。

そして誰もが幾つになっても、子供の頃に勉強が嫌いであっても本好きになる可能性はあります。なにしろ私が読書好きとなったギリシャ時代では始め文盲で、先生に文字を教わり初めて読めるようになったのですから。

それとこれが一番大事。
子供を本好きにしたかったら、本を読むことを強制しないでください。

私が強く思うのは、読書は趣味であるべきだということです。
いったい、いつから読書は「良いこと」になり、大人が子供に強制するものになったのでしょうか?

今、ほとんど本を読む人がいなくなってしまった時代にこんなことを言うと出版業界から怒られそうですが、読書は好きな人が行うべき行為。
趣味は「他人に勝ちたいから」とか「頭が良さそうに見られたいから」という目的で行うものではありません。

これからの読書はマニアックな趣味となり、心底から読書に耽溺する同類が増えることを期待します。 

 

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【質問】どうやって占いを戦争で使ったんですか?

 


「占いは好きですか?」
「どうやって占いを戦争で使ったんですか?」
などというご質問メールを多くいただきますので、回答しておきます。
ご質問前に再読お願い致します。



戦略家だった頃の記憶で語れば


私は一つ前の前世にて、東洋の戦略家であったことを明かしています。
※いつの時代に何という名で生きていたかという話は別として、ともかく自分の記憶上、「戦争作戦を考えていた」職業の人間であったことは確かです(出生ホロスコープで裏付け可能)。

世間一般のイメージでは、古代東洋の戦略家はおおむね占いを戦略に用いたと思われているはずです。
それは明代の戦略家・劉基という人物が戦略家である前にまずプロの占い師として名を馳せていたために、「戦略家=占い師」のイメージが定着したからだと思います。

しかしかつての私の場合あくまでも専業の戦略家であったので、仕事として占いを戦略に用いた記憶はないというのが正直なところです。
(プライベートでは決して占いは嫌いではなかったが仕事では使わなかった。陣形で用いたとしてもあくまでも「形」であり、内容的に占いなのではない)

『孫子兵法』※にも「占いを戦争に持ち込むな」とありますように、専業の戦略家が占いを使うのは禁忌であるというのが第一の理由。
それともう一つ、私はプロとして臆病であったが故に占いを使うことが出来なかったのです。

※『孫子兵法』: 東洋で最も有名な兵法(軍事)テキスト。古典ながら未だに役立つ。近年、アメリカ軍が『孫子』を持ち出したことで分かる通り世界的に有名。

日露戦争時代の戦略家、秋山真之は神仏祈願に傾倒していったといいますが彼はよほど豪胆だったのだろうと思います。
私のような小心者は曖昧な神の力より現実の人間の力のほうを頼りにしてしまいますから、とても神仏に祈っている余裕までなかったわけです。

実際「兵站・前準備」という事務的かつ全体運営的な作業にこそ神経をはらわなければならず、戦闘前はその作業が膨大なため神に祈っている時間的余裕すらありません。
「人事を尽くして天命をまつ」
ことが可能となるのはようやく戦闘当日となってから。
計画がうまくいくように、祈るのは現場の将軍(軍隊指揮者)に対してです。
後ろに控える事務方にとって「神」とはほとんど現場の人々を指します。

……であるので、実はプロの戦略家が占いまで考慮して計画を立てるのは物理的に不可能だ(その時間的余裕もスキルも無し)、というのが残念な現実です。

だからもし占いというものを戦争で役立てるとしたら、別に専業の占い師を置いて戦略家はその意見を仰ぐというのが妥当でしょう。

戦略家と占術家を兼業で出来るとは私には思えませんし、またそれが可能なほどの戦闘状況だとしたらたいした戦闘ではないと思います。

〔追記〕 ただし私自身は、他の過去世で占星術を学んだ経歴があるようです。その素地が今に活かされているのかもしれません。

戦争で占いは使えるのか

さて、もっと根源的な問いとして「戦争で占いは本当に役立つのか?」という点を考えてみましょう。

これはおそらく孫子は否定するでしょうし、私も専業の戦略家だった頃は否定していたと思います。

私は今世の始めでも、占いは嫌いではないが「たかが占い」とちょっと鼻で笑っていたところはありました。
しかし中学時代に西洋占星術というものに出会い、少々考えが変わりました。
(と言うのは自分の魂の歴史として西洋に生きた時間が長く、前々世でもギリシャに生きたため、西洋占星術とは相性が良かったというだけかもしれませんが)

西洋占星術には第二次大戦においてドイツ軍・イギリス軍・ソ連軍が占星術バトルを繰り広げたという歴史的事実があるくらい、実効力があることを感じさせます。

最終的にイギリス軍に軍配が上がったのはやはり専業であった占星術師が強かったということになるでしょうか。
このことを見ても占術家は兼業であってはならず、戦略家は現実計画と兵站手配に徹し、占術家は星読みに徹するなど、専業同士で作業を分担しなければならないことが分かります。

いずれにしろこの歴史的事実から、プロの占星術師がいればそれなりに戦争でも役に立つということは言えるでしょう。

傍論。【戦争に占いを用いて良いか】

私が思うに占星術には運命を変える力はありません。
しかし運命を先読みすれば、訪れる危難を先延ばしにする手段が取れます。
それを実行したのが第二次大戦の交戦国でしょう。

――ただこれは結局は借金の返済を先延ばしにするだけなので、あまりお薦めの方法ではありません。
運命を変更すれば個人と国家に返済を先延ばしさせることになります。

そのことを考えてもやはり、人は与えられた「人事」の中で最善を尽くすのが正しい運命の使い方であり、戦略における常道と思います。

勝利する戦闘というのは、最善を尽くしさえすれば最初から運命で約束されているものです。
これはネイタル(出生)で全ての未来は計画されていることに等しい。ネイタルに描かれた計画を実現するもしないも本人次第だが、背けば負担を負う。
だから人として最善を尽くすのが最もスムーズにいくわけです。

☆2014/11/15の記事。(15/10/23加筆 17/12/24リライト、目次設置)
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「カルト宗教にはまる人ってさ、宗教を知らないよね」 教養がないとマインドコントロールされやすい

本日のテレ東・特番が素晴らしかった。
事件を知らない若者たちが次々と餌食になっているので、こういう番組を定期的に流すべきと思います。
 

なおこの番組はカルト宗教に騙された人々の実録ですが、対極のように言われ、「悪しき宗教と戦う正義の思想」と言って宗教弾圧している経済思想こそ人類史上最凶のカルトであること付け加えておきます。騙されて洗脳されていく構造は同じ。と言うよりも現代における洗脳プログラムの源は全てそのカルト思想がモデルとなっています。

【別館参照】洗脳とは何か? 価値観を破壊する洗脳から身を守る方法


テレビ東京の特番について

特番とは:

 報道スクーププロジェクト ~総力追跡!地下鉄サリン20年~

この番組を観ていた相方がぼそっと一言。
「カルト宗教にはまる人ってさ、宗教を知らないよね。宗教に慣れていない。きっと、ああいう本を読むのが初めてなんじゃない?」
なるほど。その通りだと思いました。

例のカルト宗教の幹部だった女性信者は、かつて宗教を毛嫌いしていたそうです。
ところがあるとき興味本位で新興宗教の本を手に取る。
本を読んだ彼女は衝撃的な感動を受け、一気にはまっていく。
そしてすぐにその宗教団体へ駆けこみ、全財産を差し出して「出家」し幹部にまで上り詰めていく……。

思うに、そういった新興宗教の本は色々な過去の宗教本からコピペしているのでしょう。
だから
「素晴らしい(ふう)のこと」が書かれていて当然だし、
「衝撃的な感動」が得られて当然なのです。

コピペであることは幼い頃から古今東西の宗教古典や、哲学本、思想本を読んでいれば自然と気付くはずなんですね。

考えてみれば例のカルト宗教にはまった人たちは、理系の方々が多かった。
理系でなくても進学競争に追われ、学校教育オンリーで脳を満たし大学まで上がった人が多いのではなかったか。
おそらく、幼い頃から趣味として思想本などに触れる機会はなかった人たちだったのではないかと思います。

現代はもっと酷くて、幼い頃から知識も教養もほとんどないままテレビ番組やアニメやゲームで脳を満たし、親に言われるがままぼんやりと大学まで行き、自分の行く道も分からずふらふらと「居場所」を求めている。
そんな時、「居場所」を与えてくれる宗教があったら即座に飛びついてしまいますよね。

だから世間一般に、スピリチュアルや精神世界に興味を持たせること自体が悪いのだと思われているが実は逆です。
知識がなく、教養が貧困だからこそ何かの拍子に偽物に触れたとき騙されてはまってしまうのです。

もっと幼い頃から古今東西の思想に触れさせ、教養レベルを上げて、精神世界を豊かにすべきではないでしょうか。

※用語について:この記事での「教養」とは単なる知識のことではなく、読書や人生体験で身に付けた「自分で思考する力」のことです 参考記事 教養とは何か


【追記】経済カルト思想に洗脳されたのは数字オンチたち

ちなみに“共産主義(マルクス主義)”というカルト経済思想にはまったのは数字に弱く経済オンチの文系学生がほとんどでした。

自分が苦手なジャンルで難解な話を語られると、その非合理さに気付かず「崇高なもの」と勘違いしてしまう習性が人間にはあるようです。

「理解できない」と告白するのも恥ずかしいため、自分自身を騙すため思考停止してカルト思想へ洗脳されていきます。そうなると虐殺などの不都合な現実が起きても向き合おうとせず、明らかな誤りにも向き合わなくなる。自分たちの罪を他集団へなすりつけ、場合によっては「被害者が悪いのだ」と加害・被害を反転させるなど、狂った他責の極み(独善)に到達します。

このようにそもそも教養のない人がカルトに釣られるのですが、無知と向き合えない自己防衛本能によって強固に洗脳され続け、やがては平気で嘘をつき人を殺すようになります。



欲のわりには甘い人々

それとあともう一つ思ったのは、カルトにはまる人たちは「他人を出し抜きたい」という欲を持つわりには 独立心が弱くて甘い ですね。
甘いから自分の目標を達成するため他人を頼ろうとし、マニュアルを求めて集団の言うなりになる。
人生目標を達成するマニュアルが、何かのグループに入りさえすればとても簡単に手に入ると思っているらしい。

ある男性などはヨガに興味を持って優れた人になりたかったから、「とりあえず」その宗教団体に入ったらしい。
そこでどうして団体に入ってしまうのか、私には分かりません。
ヨガに興味を持つなら、どうして自分で学習してその道を究めようと思わないのだろう?
自分で本を読み、インドに行って本場の知識を吸収し、教室を開けばひとかどの者になれただろうに。

いったい何故、安易に集団を頼るのか?
自分一人で考えて行動できないのか?
自分で汗水たらして努力して道を求めようとは思わないのか?
(他人より褒められたいと思うなら、他人が歩いたことのない道を歩かなければならない。それなのにやっていることは逆)


危険なのは宗教だけとは限らない

ここで私は「宗教」と言っているが、宗教を軽蔑している人もワークグループやサロン、反原発やボランティア団体(左翼政治系)など、何かの集団に頼ろうと思っているならそれは同じことです。

「自分は宗教なんかに入らないから大丈夫」
ではなくて、何かの集団から安易なマニュアルを得ようと思っているなら既にそれがカルトに付け入れられる要素なのです。

“政治ワークグループ”
“スピリチュアル勉強会”

なんでも良いのですが、宗教を匂わせない耳当たりの良い看板を掲げて悪徳詐欺商法を行っている団体はごまんとあります。

もちろん、零細に営業している真っ当なところもなきにしもあらずです。
そういうところまで巻き込んで非難するつもりはありません。

ただ私はそういうところを利用しようと思っている側の人に、「安易になるな」「甘い考えを持つな」と言いたいのです。
安易になれば必ず騙されます。餌食にされます。
現在は騙されていない人も、それはたまたま運が良くて事故に遭っていないだけのことで、もう既に鴨がネギを背負って歩いているようなものだからいつか騙されます。

こういった悪徳カルトを防ぐため法律は今のところ追いついていないので、
利用する側が見極める目を持つことが必要です。

そのためにも、知識と教養が必要なのだ ということを繰り返し申し上げておきます。

それと努力をうとんじ(嫌がり)、安易となってはいけないことも知ってください。

【関連記事】
 洗脳されるかもしれないアナタへ


付録

こうは言っても見極めをつけるのは難しい、という方のために。
本来なら、そのような方はスピリチュアル・ヨガ教室等々に一切近付かないことが望ましいのですが、いくらそう言っても聞く耳を持っていただけないでしょう。
では、下記のリストに少しでも思い当たるところがあれば避けてください。

こんな団体には近付いてはいけない

・一般の資格学校に比べて同等、あるいは高額な講習料を取る
・料金の内訳が不明瞭(交通費や宿泊料を含むのか含まないのか)
・セミナーや講習に階級(ランク)がある
・一つの講習が終わっても次のランクがあり、次々と新たな料金を取られる
・団体の構成員にもランクがある。ランクによって団体からの待遇が違う

料金がどれだけ高価なら不当なのかという判断は難しいですが、1回につき数万円単位の料金を取る団体はそれだけで近付いてはならないと思います。

ちなみに私自身は、ただ「団体」というだけで一切近付きません。
自分には「団体」のマニュアルなど必要ないと思っているからです。
自分には守護霊・高次霊のアドバイスだけで十分。この世では、自分の足で歩いていくつもりでいます。

あなたも不安なら、こう思ってください。
大丈夫。あなたを応援している霊たちが、背後にいて見守っています。道に迷ったら答えを求めてください。必ず導いてもらえます。

妙な団体に入って能力開発などする必要なんて全くないんですよ。
既に応援して支えてくれている膨大な数の霊が存在します。
あなたの人生には既に何でも揃っているし、あなたは全てを知っているのです。

なんて、シルバー・バーチと、私の高次霊の受け売りですがね。笑

私がこのブログやサイトで批判なしに推薦している、たとえば『シルバー・バーチ』やブライアン・L・ワイスの『前世療法』などは妙な団体に誘っているわけでもない点、安全です。(※バーチを騙る団体には近付かないでください。ワイス博士のセミナーは危険ではないと思いますが、高額なのでお奨めしません。いずれも本を読むに留めてください)
むしろ知識と教養を高めて自己防衛力を高めるために良いと思います。

これらの安全な本を読んでちょっと不満を覚えて、「スピリチュアルに興味を持ったから道を究めたい」などと言って団体にマニュアルを求めようとするのは安易な行為だし、やってはいけないことです。

シルバー・バーチは何度も何度も、しつこく言っているでしょう。

魂の宝はそうやすやすと手に入るものではありません。

地上の人生はしょせん一つの長い闘いであり試練です。

悟りの道に近道はありません。代りの手段もありません。安易な道を見つけるための祈りも儀式も狭義も聖典もありません。いくら神聖視されているものであっても、そんな出来合いの手段では駄目なのです。師であろうと弟子であろうと新米であろうと、それも関係ありません。悟りは悪銭苦闘の中で得られるものです。それ以外に魂が目覚める手段はないのです。 

以上、『シルバー・バーチの霊訓(一)』潮文社より引用

上のバーチが言うことは真実です。
スピリチュアル好きの方々へ、他の都合の良いメッセージは受け取っておきながら、このような耳に痛いところだけ無視してはいけません。


魂の事業をなめないように。

ほんの数十年や数百年で魂の進化が果たせると思っている。
バーチたち、高次霊やそれに協力している霊たちが数百万年・数千万年・いやそれ以上(那由多)の長大な時間をかけてまだ果たせずにいるものを、たかが未熟な人間ごときの自分たちが先導して成し遂げられると思っているのか?


宗教に入ってマニュアル探ししている暇があるなら、人生に格闘してください。
本当にバーチの言う通り、「それ以外」に魂の目的を達成する方法はありません。

安易な団体に入るのは薬物に身を委ねるのと同じ。
思考停止させて脳を萎縮させ、魂の生きるべき機会を失い、人生の目的を歪め見失わせ、人生計画を放棄させてしまいます。

せっかく自分で計画したホロスコープの目的を達成するためには、目の前の人生を必死に生きるしかないのです。

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【質問】前世に関して、どのくらい記憶があるのか?

 最近『我傍に立つ』をお読みいただいた方からのご質問です。

Q.(過去生の記憶は)どのくらいあるのでしょうか?
『我傍』や最新本に書かれたことが記憶の全てでしょうか?
それ以外の瑣末な話があれば、是非お聞きしたいです。


長年サイト運営しているので気付きませんでした。

よく考えれば皆様、上の方のような疑問を抱かれていたかもしれません。
この点クリアにするため公開でお答えしていきます。

〔目次〕
基本的なこと
このご質問へのお答え

2017/12/30 改稿(基本を追加)

基本的なこと

 
では回答していきます。

一つ前の前世に関しては、今の人生の幼い頃と同じような感覚で思い出されます。

皆様もご自分の幼い頃を思い出す時はそうだと思いますが、思い出は遠くぼんやりしていて時系列もたまに間違っています。全てを覚えているわけではなく重要な場面だけ記憶しています。場面は覚えているけど、現実に何があったのか、細かいことまでは分からない記憶もあります。
追記 また、建物の形状やファッションその他物質的なことは現代のイメージが混ざり、現代風にアレンジされていた記憶もあります。

あなたは自分の幼い頃に関して、その当時を知る大人から実際の出来事を聞いて曖昧な記憶が裏付けられ、「そうだったのか!」と驚くことがありませんか。私が前世の記録(仮)を読むときはそれと全く同じ感覚です。

【2022年追記】前世と今世の幼い頃の記憶はほぼ同じ、と述べたのは間違っていませんでしたが私の記憶は少々特殊だったらしい。説明が必要かもしれません。こちらで詳しく書いています:昔の記憶が「第三者視点」であることに気付いた(現世も前世も)

会話は言語が蘇るのではなく、「何を言われたか」という内容だけで覚えています。あなたも自分の三歳くらいの時のことを思い出してみてください。音声が再生されるわけではなく、内容を思い出すだけであるはず。前世記憶もそれと同じです。
つまり前世記憶は今の人生の思い出と、質的には全く変わりません。ただ時間が遠ければ距離を感じる(曖昧にぼけていく)だけのこと。

私の場合、一つ前の人生の記憶は近い感覚で感情も蘇りますが、それより前の人生は遡るにつれ曖昧になっていきます。痛みなどの感覚や感情もあまり思い出せません。
時間は距離に似ているのだなあ(遠ざかるほどぼんやり見える)、と思います。

※ただし、今世で初めて前世記憶を思い出す時(クラウドにバックアップしていた記憶ファイルをダウンロードする感じ)は、当時の人格と完全同調しますのでリアリティのある記憶として受け取ります。私は言語記憶や数字記憶を受け取らなかったのですが、感情だけは当時のまま強烈に思い出しました。人によっては死ぬ時の痛みも思い出すことがあるそうです。ただもちろん記憶情報として受け取るだけなので、肉体が本当に痛むわけではありません。

★このほか、一度だけVRのように見た記憶のこと:リアリティある前世記憶、過去の身体の中から見た体験

上のご質問へのお答え


>『我傍』や最新本に書かれたことが全てでしょうか?

はい、そうです。
と言うよりも、私の記憶だけでは穴だらけで小説としては不完全になってしまうため、『我傍』では記録をもとに(つまり、モデルとした歴史事実をもとに)ストーリーを肉付けしています。
ただしなるべく私オリジナルの物語として描きたかったので、出来る限り記録は参考にせず、自分のイメージ優先で書きました。結果として、順番を間違えて状況も間違っていたことが後で判明した記憶もあります。

実際に私が見たイメージは、『僕が見つけた前世』で1ページに書いてあるものが「全て」(概要)です。

これをもう少し具体的に細かく書いたのが、こちらの『我傍』「あとがき」にあります記憶表です。

★小説を購入したくない方向け、noteで前世記憶だけ抜粋しました:
【note】自分の前世記憶をざっと1ページにまとめてみた


一般に「前世の記憶」であれば、これはかなり詳しいほうだと思います。
ブライアン・L・ワイスの『前世療法』や他の前世体験の本を読んでも、重要で断片的な記憶のみがフラッシュバックする人のほうが多く、人生全体をストーリーとして思い出せる事例は少ないらしいです。
 
嫌味を言いたがりな人が、
「お前、前世の記憶があるんだって? じゃあどんなトイレに行っていたか言ってみろよ! ○年○月○日に食べたもの言えよ! 言えないってことはその記憶が嘘ってことじゃん、バ~カ」
などという幼稚な言いがかりをつけてくることがあるのですが、通常の人間は自分にとって重要なシーンだけ記憶しているものです。参考:何故、前世記憶では肉体に関する習慣はカットされるのか

記憶に欠けているところがあり、覚えていない瑣末なことがあるからといって、その全記憶が否定されるものではありません。
これは現世の記憶でも全く同じことが言えます
(あなたは現世で、「○年○月○日に食べたもの」を記憶していないからといって、自分の記憶の全てが嘘だと思えますか? 幼稚園時代の三軒隣に住んでいた人の名をフルネームで言えないからといって、自分の全存在を否定できますか? )

記憶に欠けがあるのは現世でも全く同じ。
まして、前世の記憶ということはいったん記憶喪失になっています。 
記憶を証明してくれる家族もいません。

当たり前ですが現世の健常な状態の記憶よりも劣ること、ご理解いただきたいです。


……ただし。
私は記憶していない事柄について、「自分ならこうする」というお話は出来ます。
それは半記憶喪失の人が自分の写真を見ながら記憶を辿って話すことに近い作業です。
その程度の話でも良ければ、私なりの推察を残しておきたいと思います。

信じるか信じないかは、あなた次第。 
私は押し付けませんので、受け取りたいものだけご自由にどうぞ。
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集団から求められる生き方(アンチバーテクス)と、それに対する自己の反応(バーテクス)

 


 西洋占星術であまり取り上げられない感受点、「バーテクス」「アンチバーテクス」について筆者ネイタルを例に解説です。

2021/4/10文章推敲

〔目次〕
「バーテクス」「アンチバーテクス」とは何か
両バーテクスで、他者から押し付けられる宿命を読む
事例(筆者)


「バーテクス」「アンチバーテクス」とは何か


当サイトの鑑定では料金の都合もあり、ホロスコープの流れ・全体の方向性を見ることを重視しています。
このため、ASC・月・太陽・MCのシンボルに絞って解読することとしています。

※現在、鑑定は行っておりません

今後もしこれに足すとしたら、晩年を表す土星が最重要になると思います。

土星についてはまた後で書くとして。
もう一点、「自分の人生の使命を知りたい」と思っている方が解読すると面白いだろうと思われるのが、バーテクス・アンチバーテクスという惑星です。

「バーテクス」および「アンチバーテクス」とは、正確には星ではなくてASCやMC等と同じように計算上のポイントです。

天球の南北を通る子午線と、直角に交わる東西の線を卯酉線(ぼうゆうせん)と呼びます。
※卯酉線は、占星術テキストでは「PrimeVertical」、略してPVと書かれていることが多い

この卯酉線と、太陽が通過する軌道である黄道が交わるポイントが、「バーテクス(西側)」・「アンチバーテクス(東側)」です。

計算はコンピュータで出してください。
Vtと表示されるのがバーテクスです。
バーテクス一点のみ出すソフトが多いのですが、当然ながらアンチは正対象の東側ですので、180度のポイントがアンチバーテクスになります。


両バーテクスで、他者から押し付けられる宿命を読む


さてこのバーテクスとアンチバーテクス、何が面白いのかと言いますといわゆる
「宿命」
を表すらしいからです。

(これは宿曜占星術とは関係ない、一般的な日本語としての「宿命」です。逃れられない運命という意味)

“宿命”と言いますが、私が思うにホロスコープに表れる象意はそのどれもが本人には宿命と感じられるはずです。
どうしてか。
それはホロスコープが出生前に自分自身で立てた計画書で、地上で生きている間はその計画を忘れているからです。

つまり「宿命」と言うよりも、どちらかと言うと自分自身が「動かしたくない」「動かすべきではない」と無意識に思っているので実現しやすいというわけです。

たとえば私は鑑定でMCを「社会的役割」としてご説明していますが、MCとは「自分が成長した暁にはこのようなお役目を果たそう」と決めた最高度の目標になります。
MCを実現させて生きている方が多いのは、本人が立てた目標計画に沿ってそのように動いて、「自分はこれが出来ます」とアピールしていくため理屈として自然に実現しやすいからです。

占星術家の松村潔は、これを「名刺として出せる生き方」と表現しています。
なるほど自分で名刺に○○屋と書くのですから、当然ながらその仕事が舞い込みますよね。

本人は自分で立てた計画を忘れているので、MCもまるで社会から押し付けられた役割のように感じがちですが、実は自分発信だったということになります。

いっぽうこれと対極にあるのが、バーテクス・アンチバーテクスです。

東側のアンチバーテクスは、集団からの要求として文字通り「押し付けられる」生き方を表しています。
西側のバーテクスは、集団からの要求を受けた時の個人の反応です。

つまり、自分発信ではなく他者を主体として動く運命です。

松村氏は、
「その人が好むと好まざるとにかかわらず、避けられない形で出てくる人生の課題がAVとV」
と言っています。
また彼はきっぱり、「宿命」という表現も使っています。
自分ではなく他人から押し付けられる人生という意味で、「宿命」と呼んだのでしょうか。


事例(筆者)


どういう理屈でVtとAVtの解釈が、こうなるのか。
詳しい話はまた後述するとして、実際のデータに照らし合わせると、このポイントが意味するものが分かってくると思います。

また他人のホロスコープを公開するわけにいきませんので、筆者のものを例として使ってみます。

 ・バーテクス: 乙女座 数え10度
 ・アンチバーテクス: 魚座 数え10度

先に、「集団から求められる生き方」を表すアンチバーテクスから解読していきます。

魚座10度、サビアンシンボルでは
『雲の上の飛行家』。(訳文著作権者:松村潔)

松村版では、
「神秘のベールで自分を隠す。謎の多い人物。エリート的な振る舞いをするが、それは防衛本能から(要約)」
等となり、やや自分主体の解釈であるためアンチバーテクスを読む目的では少々分かりづらいです。

そこで直居版を見てみますと、
…大変能力的に恵まれた人で、…特に優れているのは思考力でいわゆる頭の良い人であろう。
…ただこの人にはひとつだけ致命的な欠点があり、気を付けないとそれによって立場が保てなくなることがある。その欠点とはすべてを鋭利な思考で片付けようとする余り、割り切って悪に走ったり、逆に裏切られたりすることである。…
<現実の傾向>優れた思考能力を生かすことによる活躍。…

(『定本サビアン占星学』魔女の家BOOKS P270-P271より引用。太字は筆者による。…も筆者による略記箇所)

となります。

私はこれを読んだ時、衝撃を抑えられなかったものです。
これはあくまでも集団から押し付けられる役割を意味しているので、事実として本人にこのような能力や役割があり、事実このような性格であるという話ではありません。
しかし、筆者について色々と情報を漁っている方はお気付きではないでしょうか。
このシンボルはまさに私の前世~今世に社会・周囲から押し付けられたイメージを表しているものであると。
特に
「思考で割り切って、どんな悪行でも成してしまえる」
というステレオタイプな知的犯罪者のイメージは、今も避けがたく自分に付きまとっている気がします。(今世、私の過去を知らない人たちからもそのようなイメージで非難されることがあります)

※追記 念のため書いておきますと、現実の私は「思考で割り切って悪行を成せる」人間ではありません。むしろ逆。
裏付け…になるかどうか分かりませんが、よく言われる「サイコパスでは?」との疑いへのお答えはこちら。
 →性格なサイコパス診断
悪に走りやすいと誤解される要因としては →スキゾイド傾向 のせいもあるかもしれないと分析しています。


この集団から押し付けられた役割、と言うよりも悪評的な「イメージ」を受けての私自身の反応は、バーテクスによく表されています。

乙女座10度、サビアンシンボルは
『影の向こうを覗く二つの頭』。(訳文著作権者:同上)

松村版も直居版も、似たように「恐怖」と書いています。
実力を越えて無理をした結果、自己が分裂したかのような恐怖を覚える、と。
松村版に至っては、「自身の存在が消去される根底的な畏れ」と強い言葉で書いています。

まさに私はアンチバーテクスに描かれた役割を社会から押し付けられた結果、バーテクスの通りの恐怖を味わったものです。
(嫌なのはこれが前世のホロスコープではなく、現世のホロスコープであるということですが)



いかがでしたでしょうか。

私の場合は前世の影響が強いために、やや前世寄りの解釈となっていますが、やはり皆様にとってもこのポイントは現実の評価として重要になるようです。

「自分の社会からの評価を予測したい」と考えている方には、バーテクス・アンチバーテクスを調べる意義は深いものと思われます。

よろしければ、ご自分のバーテクス・アンチバーテクスを調べてみてください。

 

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