死後を信じる人は今を大切にしない!? 否、それでも人生は一度きりである
本の紹介。『死後を生きる』
松村潔『死後を生きる』(『エーテル』の前著)を読み始めました。
この本は、死に恐怖を感じているという知人のために書かれたそうです。
冒頭は松村氏らしい優しさと誠実さに溢れる文で、素晴らしい。
特に、「死後がないと思う人は絶望に支配されている?」・「自殺する人は死後の世界がないと思っている?」という項目で書かれた次の文章には、私も全く同感でした。
わたしは、死後の世界があると思う場合と、死後の世界は存在しないと思う場合とでは、人生の過ごし方が、大きく違ってしまうと思っている。
死後は存在しないと考えている人たちには強い否定性が潜んでいると感じることが多いのだ。常に何か暴力のようなものを隠し持っているようにも見える。…(略)…
私がここで否定性に支配されているというのは、根底的なところで、人間は死んだら何も残らないと考える人々のことである。
どんなものも終わる、決して何ものも続かない。何をしても最終的には何も残らない。「こんにちの世界観は絶望の上に打ち建てられる」(バートランド・ラッセル)
バートランド・ラッセルらしいが、死後の世界がないと思うことは、根本的に絶望に支配されることを意味する。最後はすべてを失う。子孫に託すといっても、子孫は自分ではない。ある時期が来ると、どんなに努力して手に入れたものも失われる。そうした考えに至ると、何事にもじっくり本気で取り組む気にはなれないのではないか。
たとえば、会社をやめてしまうと、会社にいる間に関わっていたプロジェクトがどうなろうとどうでもよくなる。…(略)…
だが、もしわたしたちの生命がなんらかの形で死後も継続し、何ら変わることがなく、自殺することで帳消しになるものなど何もないとしたら、どうだろうか。
以上、
『死後を生きる』松村潔著(アールズ出版)より引用
※この本はヘミシンクという商品を推奨しているため注意を要します。冷静な判断が可能な成人の方だけ読むことをお薦めします。
自殺する人は死後の世界がないと思っている
以下は昔書いたことの繰り返しになりますが。
「自殺する人は死後の世界がないと思っている」
という話は、現実に松村氏の仰る通りです。
何故なら私は16歳~17歳の頃、自殺ばかり考える日々を送っていたからです。その当時の私は死後の世界や、魂の輪廻転生など一切信じていませんでした。
死後を信じない人が暴力を隠し持っているという松村氏の主張も、おそらく事実です。犯罪者たちは17歳当時の私と同じように「死ねば無」と考えて刹那的になり、欲望に打ち勝てず犯罪に及ぶのだろうと推測されます。
もちろん死後を信じない全ての人が犯罪をするわけではありません。犯罪したいという欲望を持ち+死後は無だと考え+神も存在しないと考える人が「どうせ死んだら消えるだけだから欲のまま生きねば損」という屁理屈で実行するという意味です。
また、心理学者や脳科学者たちの調査によれば、幽霊や生まれ変わりなど魂の存在を信じない人ほど「精神病になる確率が高い」そうです。
それだけ唯物主義は人間に絶望を与え、精神的な耐性を奪うということです。
前世も今世も、昨日も今日も同じ。二度と戻れないから大切
私へよく寄せられる批判・説教に、
「あなたは人生が何度もあると思ってるのよね? ってことは、今の人生なんて大切だと思っていないんだわ。いつでも人生棄てられると思ってるんでしょ!?」
「吉野さん、永遠なんてないんですよ! 人生は一度きり! 目を覚まして今の人生を大切にしなさい!」
というものがあります。
(何故か妙な宗教にはまっている女性からの批判が多かったので、女性言葉で再現しています)
でも上の批判は完全に誤解で、逆です。
私は今の人生をとてもとても大切に思っています。
きっと上の批判をしてきた人たちの誰よりも、遥かに今を大切に生きています。
そもそも私が自殺を思いとどまったのは、前世記憶を思い出したからでした。
その時の感情について、詳しくは痛い私小説『僕が見つけた前世』に書いているのですが、自分の現在の苦しみの原因が過去生にあったことを知り「生きていていいんだ」と悟ったのが第一の理由。
次に理性では、
「自殺しても状況は変わらない。いや、自殺したら今よりもっと酷い苦しみを背負うことになる」
という恐怖の未来を考えました。
非常に利己的ではあるけれども、「死後は無ではない」「自殺しても苦しみは消えない」という恐怖があると、自殺を思いとどまるしかないのです。
「全部チャラにしたい、無に溶けて終わらせたい」
というのが自殺志願者のたった一つの願いです。そんな人にとって、
「終わらないんだ。消えないんだ。もっと酷いことになって今が繰り返されるんだ」
という想像は最大級の恐怖なのです。
次に私が悟ったのは
「今の人生は、一度しかないんだ」
ということでした。
ある前世について
「あの頃に帰りたい。あの人に会いたい」
どれほど強く、強く願ったとしても、過去の人生には戻ることは出来ません。
誰でも過去の想いにかられた時はそうなると思いますが……会いたくて、帰りたくてのたうち回るほど苦しいのです。
私は前世で親しかった人々を想って泣きました、さんざん泣きました。帰ることが出来ない現実に苦しみました。
しかし過去は過去でしかなく、建物や人も今は全て幻となって消え去ってしまっています。これが厳しく残酷な現実なのです。
また、たとえ魂が個性を保ったまま生まれ変わるのだとしても、完全に同じ人生は二度とありません。
前世の友人に再会しても、魂レベルでは再会した喜びに浸っているのですが、二度と同じ状況では会えない。
つまり同じ人生は、――いや今世でも同じ日・同じ時は二度と訪れない。
今この一瞬を生きられるのは、今の自分だけ。
そんな当たり前の事実を激しい痛みを伴って思い知らされました。
(時間は永遠に存在し、過去も未来も同じく存在します。しかし時間軸を移動する我々の魂は、今この瞬間にしか存在することが出来ないのです)
そのため逆説的に思われるでしょうが、私は今この瞬間・今この人生がどれほど大切か、ということを思い知ることになりました。
今を大切に思っていない人ほど、死後世界を否定する
もし死後世界を信じる人に対して
「あなたは今の人生を大切にしていないでしょ!」
などと言う人がいるとしたら、その人はおそらく今日の一日を大切に思っていない人です。
昨日と同じように見える今日について、その人自身が「どうでもいい取るに足らない一日。くだらないから棄てていい」と考えている証拠なのです。
その人たちは、貧乏だったり平凡だったりする人生を
「ぱっとしない人生」
などと言ってけなすでしょう。
中国系の風水などをやる人や、ビジネスセミナーを主催する人によくいるタイプですが、「成功、成功、成功」とばかり繰り返す。
価値基準が貧し過ぎるからです。有名になったり金持ちにならなければ成功ではないし、無意味な人生と思う。そんな「ぱっとしない」人生は棄ててしまっていいとさえ言う。
しかしどんなに貧乏でも退屈に思える人生でも、かけがえのない人生です。
無名だからこそ味わえる穏やかな人生もあります。苦悩も病すらも大切な経験です。それを目標として選んで生まれて来る人生もあります。
大切ではない人生、大切ではない日など一日たりともないし、大切ではない時間も一瞬たりともありません。
そんなことすら知らずに生きている人は、死後について「在る無し」を論じたり宗教を騙ったりする資格は全くないと思います。
前世は決して、
「甘いファンタジー」ではないし「痛い妄想」などではありません。
どんな人にとっても必ず厳しい現実です。
まず「過去に戻れない」というこの明白な現実を突きつけられるだけでも辛い。
そのうえ、失敗したり殺されたり殺したりのネガティブな経験ばかり思い出すことになります。
(前世記憶は失敗した過去のトラウマがなければ思い出さないからです)
「貴族だった頃のアタシを思い出した~い♪」などと言って前世療法カウンセラーの元へ通い続ける夢見がちな人たちの願いなど、本物の前世記憶は徹底的に踏みにじることでしょう。
甘い妄想など今すぐ捨てるべきです。
全ては「因果応報」です。
貴族様のお花畑に遊ぶのが前世ではなく、お婆さんが夜中に語った恐怖の物語こそが真実です。
いつだか江原啓之氏がやっていた番組を見ていた小学生が、
「今の人生が嫌だから来世で頑張りたい。来世で会おう、バイバイ」
と書き遺し自殺したことがありました。
これは輪廻転生という「悪い思想」が招いた惨事だと偏った報道が行われました。
でも、もし輪廻転生を信じる人の全てが「来世があるから自殺しちゃえ♪」などと思うとしたら、昔の日本人は全員自殺していることになります。
昔の日本人はほぼ全員が輪廻転生を信じていたでしょう。
しかしそれと同時に、幼い頃から因果応報の思想を叩き込まれていました。
自殺したら来世ではもっと苦しむ、悪いことをしたら来世で同じ目に遭う。
輪廻転生思想を子供に話す際はまず先にその恐怖から教えたわけです。
日本に唯物思想が入り込み、輪廻転生思想の根幹(因果応報)が途絶えたからこその惨事だったと思います。
「来世があるから、今の人生を大切にしなくていいんだ」
などと大人が考えれば、子供は「来世があるから今の人生はリセットしていい」と思ってしまいます。
輪廻転生思想を全否定し、あるいは甘い夢として考え、「因果応報」を教えない文化こそ最も危険です。