「分をわきまえる」という言葉の本当の意味。自分さえ見失った現代人の不幸

 


 こんな記事が目に留まり、深く共鳴した。

 ⇒幸せのカギは「できること」と「できないこと」を分けること

「身の程を知れ! 分をわきまえろ!」と、若い頃、言われたことがある。「お前が本来できることと、できないことを考えろ」というわけだ。当時は「分をわきまえろ」と言われても、「夢は大きくもて。可能性は無限だ」と言う大人もいたので、私は「分をわきまえる」という言葉に納得できなかった。
運命論者 VS 自由意思論者 の戦いのような話。

そう、かつて『成功哲学』などが流行った時代には、あちこちでこの議論が繰り広げられていたなと思い出す。
「フリーダム!」と叫び際限のない夢を追うことが正義だとされた時代だったので、「分をわきまえろ」と言う大人たちが悪魔のごとく憎まれ、「可能性は無限大」との言葉を若者たちは信奉したのだった。

そのような時代の中から、「モラトリアム」が生まれた。
「自分らしさの檻のなかに閉じ込められる」ことを恐れた若者たちは「自分探しの旅」に出て、いつまでもいつまでも「モラトリアム(猶予期間)」に閉じ籠もり続けた。
結果、どうなったか?
就職もせずフリーターをしながら旅を続けた若者たちは何者にもならず、生活保護と社会不安が増えた。
なかには海外を彷徨ってカメラマンになるなど奇跡的に道を見出した者もいたが。それはほんの一部。

「フリーダム!」と叫んだかつての若者たちよりも下の世代(我々とその下世代)はさらに悲惨だった。何故このような空虚な社会に放り込まれたかの理由さえも分からず、先が見通せない社会で漠然とした不安を抱え鬱々と生きることになった。

上の記事を書いた桜井竜生氏は現在、漢方医となって多くの人の脈を診ているのだそうだが、
漢方医は脈を診ることで、他人の心の状態がわかるのだが、最近、海外のロイヤルファミリーを診察する機会があった。脈を診ると、普通の人よりイライラがなく、落ち着いた脈をしている。通常、お金や権力をもつ人の方がストレスは多い。社長や先生と呼ばれる人ほどストレスを感じている割合が多いのは、過去の診察からもわかっていた。

ロイヤルファミリーの心の平安が意外だったので、私は尋ねてみた。「何か精神安定のためにしていることはありますか?」と。すると、「何もしていないが、私たちにはできることとできないことがはっきりしている」と、おっしゃる。そういう状態が精神の安定に影響しているというのだ。
とのこと。

そして次のような結論を見出す。
できることとできないことを分けられる人の脈は落ち着いている。「医易同源」という言葉を思い出す。医の古典『易経』にある言葉で、「世の中には変わらないものがある」ことを示している。例えば、太陽の動き、潮の満ち引き、四季の移ろい、自分の性別、年齢、親、兄弟などだ。一方、変化するものとして、心のもちようや意思がある。易経では、変えられない「不易」と変えられる部分を分けて整理すると、幸せな生き方ができると説く。

「諦」という漢字は「あきらめ」という意味のほかに、「悟る」という意味がある。自分があと何年くらい働けるかを冷静に予測するだけでも、ある程度のことは諦めて捨てられるはずだ。今の自分にできることを常に意識している人こそ、幸せを感じられるのかもしれない。


全く同感だ。

今の社会不安は人々が
「自分らしさの檻」
を棄て去り、「フリーダム!」の叫びのもとに自分を見失ったから生まれたもの。

戦争中、若くして死んだ兵士たちは不幸だと我々は思っているが、実は目標を見失い彷徨っている我々のほうが遥かに不幸なのかもしれない。

自由のなかった昔の人々のほうが何故か我々よりも幸せに見えるのは、良い意味で「分をわきまえて」おり、「諦観」を持っていたからだろう。


再び
「運命論 VS 自由意思論」
を蒸し返すわけではないけど、人にはある程度、自分の運命というものがあり今世に持ち越した個性・才能がある。
それは全て、過去世で積み重ねた経験のこと。
言わば、魂が持てる唯一の財産と言える。
(私のように、人を傷付ける悪い癖もあるけどね。そのような癖も含めて全てが過去の積み重ね)

「分をわきまえろ」
とは一見、夢を断ち切る絶望的な言葉のように思えるが真意はそうではなく、「自分が持つ財産を確認しろ」ということ。
つまり数万年、人によっては数十万年に及ぶ魂の経験を大事にしろということだ。

――嘘だと思うなら、「自分」という言葉を見つめてみるべき。
「分」という言葉が入っているだろう?

「自分らしさの檻に閉じ込められたくない」
などと卑小なことを言って、本来の意味の「分」をかなぐり棄てるということは、その数十万年に及ぶ膨大な経験を棄ててしまうという意味になる。
そして本来持っていた人生計画も棄ててしまうわけだから、空虚となり彷徨って当然。
そこには絶望しかない。
社会不安は避けられないことだっただろう。


私が自分を標本とした占星術や心理テストなどを紹介していると、
「あなたはいつまでも自分探しをしているのですか? 大人げない」
と言われることが多いのだけど、それは完全に誤解。
実はモラトリアムと真逆で、他人に「自分らしさの檻」を再び与えて人生地図を取り戻させようとしている。

※検索でご来訪の方へ:占星術の話題は唐突な飛躍に思われるでしょうが、このブログは占星術サイトからリンクされ、占星術の話題も多く書いている場所です。ブログ主は、何も占星術だけが「自分らしさ」を知る手段だと考えている者ではありません。「自分らしさ」探求のヒントの一つにはなりうる、とは思っています。

ドイツの文豪ヘルマン・ヘッセは
「自分自身へ生まれ変われ!」
と叫んで世界中の自殺しかけた若者を救った。
おこがましいが、私もヘッセを遠い目標としている。

詩ではなく占星術という分かりやすい手段を選んでいるのは、ヘッセの時代と違い、今の人は明確な「自分」が何であるかさえ見失っているから。
(ヘッセの時代の若者は「自分」に迷うことはなかった。誰もが明確に自分自身を知っていた。その「自分」を、親などの権力が抑えて歪めようとしていただけなので、抵抗する言葉さえ与えれば前へ進むことができた)
そのため「自分自身へ生まれ変われ!」と言ったところで、今の人たちは「自分が何なのか分からない」とさらに迷うのみ。
十代の頃の私がそうだったように。

まずは、自分が何であるのか思い出させるところから始めなければならないのだ。
それだけ今の時代は「フリーダム」「モラトリアム」に侵され、重病にかかっているということだ。

自分自身さえ見失う。
これほどの不幸はない。

現代は人類がこれまで一度も経験したことがないほど、不幸で難儀な時代だと思う。

 

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