湘南ドライブと、今世の思い出の話

 昨日は湘南ドライブ、と言っても仕事ですが。
134号を通ったときにちょうど夕方で、江ノ島が綺麗に見えたので撮影。

 湘南は、かつて神奈川民だった私の青春時代の思い出がたくさんある場所です。
(今は引っ越しをしたため少し足が遠のいています)

この間行った中華街もそうなんだけど、「関帝廟」ですら何ら他意はなく、単に若い頃の思い出の場所です。あ、だからと言って若い頃に中華な情報に触れていたというわけでは全くないのだけど。
※中華街へ通う神奈川の若者の頭に中華な知識はほとんど無いです。関帝廟も知りませんでした。友達も誰もあれを読めなかったし、そもそも話題に出たことは一度もない。申し訳ないが私もあの建物が何であるか考えたことすらなかった。

このブログでは前世云々という話がメインになってしまっていますが、私は今世もとても大事に思っています。
当たり前のことですが。

最近はもう人生の後半であるせいか、特に思い出の多い神奈川の景色が輝いて見えます。
平和な時代で、こんな美しい景色のなか、ごくごく平凡な一般人として穏やかに過ごすことができたこの人生に感謝しています。

 

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【質問】 現代で、前世記憶とどう付き合っていくべきか


 メールでいただいたご質問に返信したものですが、同じような体験をされた方のために筆者の回答を公にしておきます。

(前世記憶をお持ちの方より)
Q.現代を生きる上で、この記憶とどう付き合っていくのか?

A.日常を大切に。「前世の話」と現在現実は切り分けて、しっかり日々の仕事と向き合うことです。
「この記憶とどう付き合っていくのか」については私も暗中模索です。
そもそも私は、大人としてきちんと生きているかどうかも疑問なのですが。

「前世」で身に付けた技能を現実で活かすことは、今のところできていませんね……。
私の場合、前職が平和な時代では失業すべきものですから当然です。

小説として思い出を吐き出してしまった後は苦しみも薄れました。
その後はとにかく、日常を大切にするように心がけて生きてきました。
「前世の話」と現在現実は切り分けて、しっかり日々の仕事と向き合うこと。そう自分で決めています。
今の現実ほど大切なものはありませんから。
私は今でしか味わえないことを、しっかり味わっていこうと思っています。

内面的には、前世記憶のおかげで前向きに生きていくことができています。
あの特殊な体験で命も人生も救われたので、今は恩返しのつもりでネットに情報を流している感じでしょうか。

ずっと記録が残っていて…であることが嫌だったのですが。
最近は吹っ切れて、むしろキャラクターとして語られることを愉しんでいる部分もあります。
おそらく滅多にできない体験ですから、遊んでしまっていますね。笑
正直、前世キャラの扱いに腹を立てることもありますが、そんな時も素直に怒るようにしています。このこと(怒って意見を言うこと)もカルマの昇華につながる気がします。


マグロジュースさんについて、彼が「前世の記憶がある」と告白してくださったことには本当に感謝しました。
あの方のおかげで少し、前世の話題が認められつつありますね。
もちろん反発する人は激しく反発していて、悪口もすさまじいものがありますが。

ただ今回のことで、前世記憶を持つ人はけっこう大勢いて、皆さん言えなくて黙っているだけなのだと分かりました。
その人たちが勇気を持って語り出している今の状況を、心から嬉しくありがたいと思って眺めています。

今後、このような話が自然にできる世の中になればいいですね。

…さんも、無理することはありませんが、「前世記憶を持つ」という体験を前向きにとらえて愉しんでみてください。


以上、求められた回答になっているかどうか。

追加の話。

前世(古代)と現代とのギャップについては私もたまに混乱することがあります。
もちろん現代日本で生まれ育っていますから、文化について混乱することはありません。たとえばかつて古代人だったからといって「超アナログ」ということは全くないです。
オートロックも知っています。当たり前。笑
ゲームやスマホにはあまり馴染めませんが、これは単に好みではないため。
つまり現肉体が生まれ育った文化のなかで、好みの趣味を選んで生きている。この点では皆様と同じです。

ただ精神的には確かに、「現代に馴染めない」感はあります。
多くの人が際限なく欲を求めているところ、金を持つことだけが正義とされているところ、「悪いことを悪い」と述べる論が傲慢だと言われ憎まれているところ等々です。
全体で言えば古代よりも人類が劣化していると感じます。
この人々と仲良くし、同じように欲を貪れと言われてもそれは無理です。
子供の頃は現代人と折り合いがつけられない自分にコンプレックスを抱いていましたが、今はこれでいいと開き直っています。

前世記憶を持つ自分も、現代人とのギャップを感じる自分も受け入れて。
かけがえのない今の日常を味わいつつ生きていきたいですね。


関連記事
死後を信じる人は「今」を大切にしない!? 否、それでも人生は一度きりである


 

 

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何故、前世記憶では肉体に関する習慣はカットされるのか

 ちょっと下品かもしれない話(生理現象に関する話)があるので、食事中に読まないようご注意ください。

ある前世記憶をお持ちな有名人のブログに、「前世のトイレはどんなだったか言ってみろよ、オラ! 記憶してないんだろ? だから前世なんてものは100%嘘ダー!」との幼稚なコメントが殺到していて失笑しました。

物質だけを信じる人たちはどうしていつも幼稚園児みたいな攻撃しかできないんだろうか? と不思議に思います。
(神秘に関することだけではなくて社会的な事件に関しても、自分が主張したい結論へ反論する相手に「デマデマ!」「バーカ!」「う〇こ」しか言えない唯物論者が多くて白けますね…。始めから否定する目的で相手を罵倒し、脅迫と実力行使の暴力で口封じしようとするだけ。目の前に置かれた材料のみで論理的な反論をする能力がないのは残念です)

でも考えてみれば本当に、前世記憶を持つ人の話には肉体習慣に関する記憶があまり無いのです。
私自身も肉体に関する記憶はほとんどありません。死んだときの死因などは覚えていますが。

この記事は、「なぜ肉体に関する記憶が持ち越されないのか?」と考えたときの呟きです。
“呟き”ということで常体で書いています。

肉体の記憶はカットされる


前々記事を読んでいて気付いた。
そう言えば、私も記憶にないのだが他の方々からも、肉体習慣に関わる前世記憶を聞いたことがない。
(「肉体習慣に関わる」だから日常的なことを指している。死の時の記憶は持つ人が多い)

私の場合は食べ物に関する記憶すらない。今もそうだが、全転生を通して、肉体にあまり関心がないタイプだったせいか。小説内に書いている食べ物の話は全てフィクション。

前々記事より再引用
コメント欄にやはり「当時のトイレはどうだったんだ? 答えられないなら嘘だ!」と言っている人がいるけど、幼稚園生みたいだね。(この人は生まれてから今までの記憶を一分一秒単位まで僅かも忘れることなく持っているのか? もし忘れていることがあるなら自分の全存在を否定されてもいいと宣言するわけか)
とても幼稚な発想なのだけど、確かに毎日の習慣を覚えていないのは不思議だなと思う。

他の人はどうなのか?
私はそんな幼稚なことに関心がないから、尋ねたことがなかった。笑
そんなことに関心を持つのは、5歳~6歳までの子供くらいだろう。
と言うことは、幼児のうちに亡くなった方はトイレなどの記憶を持つ可能性もあるなと思った。
あるいは、トイレで倒れてそのまま亡くなった方など、前世の重要な出来事に関わるなら記憶している可能性もある。

何故、肉体に関する習慣はカットされるのか


「何故、前世の肉体に関する習慣はカットされるのか?」
この疑問を体感したいなら、誰もが可能な現世記憶へのアクセスで、「数年前の自分は何をしていたっけ?」と思い出してみるといい
もちろん、当記事を読んだ直後はトイレのことを意識しているのでまた別な時に。

ごく自然に数年前の自分を思い出そうとした場合、その当時あった主な出来事だけ抜粋で思い浮かべていて、24時間の全てを1秒も欠けることなく再生するわけではないだろう。全て再生するなら同じ分だけ時間がかかってしまうし。
その抜粋された思い出の場面に、トイレの記憶はあるか?
当時トイレで倒れて救急搬送でもされていない限り、トイレの場面は意識にも上って来ないはず。

これと完全に同じこと。
つまり単純に、人生というストーリーの流れにおいて重要ではない場面は、記憶として抜粋されない。

しかも前世記憶はこちらから自由にアクセスできない。
つまり、「思い出したい」と思ったときにすぐ記憶のクラウドへ行って記憶ファイルを引き出して来られない。
生きている間なら身近な脳という携帯の記憶媒体にストックされているので、「数年前に通っていたトイレ」というキーワードで引き出して来られるのだけど。

クラウドにアクセスできるのは限られた回数のみ。
上限は決まっていないはずだが、たぶん、指導霊か何かの許可が必要で滅多に許されない。
私の場合は他の人より遥かに前世記憶が多いほう。クラウドへアクセスする許可が出された回数も多いほうだろう。
それでも自分から記憶を取りに行くことができないので、「トイレについて思い出したい」などというくだらないリクエストでアクセス許可は降りないのではないかな。

もし自由自在にクラウドへアクセスできるなら、私はトイレなどよりもっと遥かに思い出したい記憶がある。当たり前だが。
親しかった人たちとの思い出をもっとたくさんダウンロードしたい。
でも、そんなことが可能だったら、私は永久に思い出の中に閉じ籠もって出て来られなくなってしまう。
それはそれで精神的に辛い。
(過去に関わるとおぼしきコンテンツが頻繁に襲って来る今の状況ですらかなり辛いのに)

何度も書くが、前世記憶への自由なアクセスが許されていないのはそれなりの理由があるのだと思う。


続きの話。>>何故、前世記憶では肉体に関する習慣はカットされるのか 2/魂と肉体の記憶は別?


参考
【質問】前世に関して、どのくらい記憶があるのか?

 

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手相と脳の比較。結局、手相で見るべきは主に「しわの数」?

 前記事で手相のことに少し触れたので、せっかくだからもう少し手相について雑談してみる。

ネットを眺めたら、ユングとアインシュタインの手相を並べた画像も見つかった。
http://tukasagumi.exblog.jp/22763811/より引用。

 左側がユング、右側がアインシュタイン。
(アインシュタインの手相はこれだと見づらいかもしれないのでアインシュタイン・手相で検索してみてください)

面白い、やはり似ているね。
何が似ているのかと言うと、第一に「しわの多さ」とその形状か。細かい「しわ」が多いのが特徴。横線も多い。
これは日本など東洋の手相術では障害線と呼ばれ、「神経症」とか「悪いことが連続して起こる災難の相」などと、悪いことばかり言われて脅される最凶手相。
しかし現実に眺めていると、この手相はただ単に頭を使う人に多いだけのような気がする。

以前何かのテレビ番組で見たのだが、難関校の受験予備校に通う子供たちの手相はこのような細かい「障害線」が多かった。
あの全員が神経症を患っていたり、全く同じ性格タイプだとはとても思えない。彼らには単に、幼い頃から頭を使っているというだけの共通項しかない。

もしかしたらこの細かい「しわ」は、単純に、神経細胞(ニューロン)の発達を示すものなのではないかな?
「手の平のしわの数は、脳のしわの数」と言う人もいるけど、脳のしわと知能はあまり関係ないらしい。なので、「ニューロンの発達の度合い」と推測してみる。

有難いのは、アインシュタインが死後に自分の脳を解剖のため提供していたということ。
アインシュタインの脳を解剖したところ、脳を常に酷使した結果、ニューロンを発達させた痕跡があったという。
その解剖結果と上の手相を比較すれば、脳神経の発達程度と手の平のしわの数は何らか関連性があるという推測が成り立つ。

※2021/1追記

「ニューロンを発達させた痕跡があった」とは誤情報で、実際アインシュタインの脳でニューロンは他の人々と変わりなく、唯一の違いは「グリア細胞の多さ」だと分かったそうです。このため当記事での「ニューロン」を「グリア細胞」と言い換えれば正しくなるのかもしれません。参照『天才アインシュタインの「脳」の秘密がわかった!』
 
ユングも同じく非常に知性的な人だったから、やはり手の平の細かいしわが多いが、彼の手相で特徴的なのは感情線と知能線をつなぐ線が多いこと。
いわゆる、「神秘十字」の持ち主でもある。
「神秘十字」は霊感を示す手相であり、霊界と現世を行き来したユングの生き方にも合っているが、これを脳の対応だと考えればインスピレーションが知性へ影響しやすい脳だったと推測される。
つまりイメージに対応する脳領域と、合理的思考に対応する脳領域に太いパイプ(情報の通り道)がありそう。
このため「直観思考」が可能で、独自の発想により新分野を打ち立てることができたのだろう。

それから。
両者に共通しているのは知能線(手の平中央を横切る線)が長いことだね。一般の手相では、知能線の長さ=知能の高さではない、とされるが、アインシュタインらを見ているとやはり「考える時間が長い」ことが知能線の長さに関係している気がする。
またこれが真っ直ぐではなく、斜め下に垂れていて先端が分岐している。
一般に、斜め下に垂れている手相は「文系で、文才あり」と言われるが、アインシュタインを見れば明らかにその占断は外れ。
(アインシュタインは誰が見ても理系。言葉を扱うのがとても苦手だった)
ただ、「芸術的感性に優れる」と見るなら、当たっていないこともない。
アインシュタインの脳を解剖したところ、脳内でイメージを映像化する領域が非常に発達していたらしい。この脳領域を文学や美術などの芸術分野で活かす人も多いし、アインシュタインのように科学に活かす人もいるわけだ。

もう一点。
両者の共通項として、生命線が二本あるように見える。
(知能線が二本、なのかもしれない。いずれにしろ、主要な線が通常より多い)
これも他人より脳を酷使していたことの証だと考えられる。

まとめ。
ユングもアインシュタインも、
 ・細かい線が多い
 ・主要線が深くて分岐も多い
 ・主要線が平均より多い(生命線二本、など)

という共通項が見られる。
それはやはりどうやら、脳細胞の発達具合と関連性がありそうだ。
今のところはまだ具体的にどの脳領域がどの線に関連している、とは言えないが。

――実を言うと私はあまり東洋の手相占いが好きではなくて、あれやこれやの俗っぽい占断もあまり当たらないと感じている。
でも脳細胞と手のしわとの関連性として語られるなら、手相は俄然、面白くなる。

そして、こうして脳との関連性を見た時に結論として言えるのは
「手相で見るべきは主に、しわの数」
ということ。
線の形など細部を分析するのも必要だとは思うが、まずは全体を俯瞰で眺め特徴をつかむのが大事。
複雑さを避けるために「細かいしわが多いのは凶」、などと安易に断じてはならないのでは?と思う。
(これはたぶん占星術と同じ。アスペクトが多いというだけで「凶」と断じるのはおかしいだろう)


個人的な話。


何故このように熱く語っているかというと、お察しの通り筆者も手の平に「細かいしわ」が多い手相なので。
手相占いをやってもらうと、占い師たちは判を押したように
「細かいしわが多いから、あなたは必ず病気になって不幸になります。お祓いしなさい」
と脅迫しか口にしないから腹が立つ。
「ワンパターンのマニュアルに書かれたことしか言えないなら、金を返せ」と言いたくなる。言わないけど。笑

彼らが未だに「しわ=凶」と信じているのかというとそうではなくて、何かお守りグッズを買わせるのが目的なのだよね。
私は友人と観光に行ったときなど、遊びでしか見てもらったことがないのでそんな占断を信じるわけがないが、本気にする人がいたらどうするのだろうと思う。まったく悪徳が多いな。


ちなみに筆者の手相について、前記事で「アインシュタインの手相と似たところがあって驚いた」と勢いで書いてしまったけど、完全に同じというわけではありませんので「図々しい」と怒らないでください。
具体的に筆者の手相を書いておくと、

〔アインシュタインの手相と似ているところ〕
・細かいしわが多い
・感情線の深さ、形状が似ている
・生命線(知能線?)が二本以上ある
・知能線の長さは小指の辺りまで、下垂して分岐している(左手)

〔違うところ〕
・ふくらみが足りない
・指は細い
・生命線の起点は知能線を突き抜けている
・神秘十字多め(細かいもの)

※その他追記 神秘十字、両手ともはっきりしたものが一つ。他に細かい神秘十字多し。太陽線は両手ともにはっきり。運命線はいまいちかな。霊界の支援と人気はあるが運がついてきていない… と読めば当たっていなくもない。(2019/5/26)

という感じ。

生命線の起点が知能線と付いていて、なおかつ突き抜けているのは一般に「過剰に空気読み過ぎ線」らしい。気を遣い過ぎるタイプ。
細かい「しわ」の多さに関しては、アインシュタインのように良い方向へ昇華できていないが、始終考え事をしているのは確か。

知能線下垂の件では一般の手相占いのほうに合っている。
私はアインシュタインと違って明らかに文系で、文章は幼い頃から得意だった。
ただ考えながら話すので、実生活では会話が苦手で言葉が止まってしまう――というところは彼と似ているだろうか。彼のように障碍の烙印を押されるレベルではないとは思うが。

いっぽう、右手を見ると知能線は真っ直ぐ横に、小指の下辺りまで伸びている。
これは完全合理主義を示し、一般には「理系」とされる手相。
案外、理系も行けたのかな?
冗談です。今さら。

あるテレビ番組で実験したところ、手相占い師たちは学生たちの通う学部さえ言い当てることができなかったとか。
一般の手相で言う、「文系」「理系」の相も当てにならない。


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【質問】幼い頃、どんな子供でしたか?


 これは『どうやって占いを戦争で使ったんですか? 』に次いで多いご質問でした。
昔書いた記事をUPしていたつもりでしたが行方不明。改めて書き直してみます。内容的に重複があったらすみません。
(今さらこんな内容を書くのも正直、恥ずかしい。ただ、今なら大人目線で、他人の家の子供のように眺めることができるかなと思う)

Q.幼い頃、どんな子供でしたか?

A.本ばかり読んでいる大人しい子供でした。

「椅子取りゲーム」などの競争が大の苦手で、いつも他人に譲ってばかりいたのを覚えています。
大人びた態度をし、大人のような言葉遣いをするのでよく笑われましたが、学校の先生たちからは特別扱いを受けました。先生たちが他の子は「ちゃん」付けで呼ぶのに、私だけ「さん」付けで呼ぶことが嫌でたまりませんでした。

あまり書きたくないのですが「特別に賢い子」扱いでした。(そしてそのことに恐怖を覚えたのは、小説等々に書いた通り)
振り返ってみれば、現代日本であの特別扱いは少々異常だったなと思い出します。何をしても誰からも褒められた。いったい何だったのだろう?

『永遠』シリーズ最終話『雲間の光』(または『我傍』実名版冒頭)で描いた幼少期は、実は今世幼少期の投影。大人たちに「子供らしくない子。気持ち悪い」と思われていることに気付いていたので、嫌われないよう必死で子供らしく見える演技をしていました。大人目線で見ると可哀想な子だったなと思います。

その他。子供の頃、通知表(成績表)に毎回書かれた先生の言葉、

「控えめ過ぎます」
「もっと積極的になりましょう」
「もっと自己主張しましょう」

悲しいかなこの性格は今でも変わりませんが、ブログがあるため少しは自己主張できるようになっているでしょうか。

今となってはもう、幼い頃はまるで前世の記憶のようです。文字通りに。
子供時代「末は博士か大臣か」という言葉をさんざん浴びましたが、「末ではなくて過去だったな」と密かに突っ込んでみたり。

先日、雑誌でアインシュタインの手相を見かけ、自分と似たところがあったので驚きました。意外と大人たちの評価は正しく、可能性があったのかもしれない。
子供時代から遠く離れた今だからこそ思います、少々もったいなかったなと。
恐怖で固まって動けなくなっていたので仕方ないのですが、もう少し健全な自惚れを持つ子供であったなら、貧困なども押しのけて行けるところまで行けたのではないか。
などと、気付いても後の祭り。
運命の導くところは違っていたようです。

これはこれでおそらく望んだ人生。
最後まで堪能したいと思います。


補足の話
>>私のアイデンティティは皆さん曰く「前世という妄想」で創られたのではなく、今ここの確固たる現実でできている

 

 

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