懐かしの「血天井」、怖いものではなく素晴らしい絆の証だった

昨夜テレビ番組で伏見城「血天井」が紹介されていた。
忘れもしない、私が修学旅行で見たあの「血天井」だ。
あの日から自分の運命が変わった。通常の意味を越えた懐かしさを抱く。

番組は宝泉院(大原三千院の参道奥にある寺院)だったのだろうか? 途中から見たので分からないのだけど、 同じ伏見城のものであることは確か。鳥居元忠氏の人生が紹介されていた。

番組を観ている時、メモのため上げたツイートを下に転載。↓
政治思想アカウントなので普段は反応がほとんどないのだが、今回めずらしく反応があって、少々リツイートや「いいね」などいただいた。感謝。

以下センシティブ?な画像があります。苦手な方は注意してください。
いや、高校の修学旅行でも連れて行かれるところだから普通の人は平気なのだろうけど(現にツイッターもセンシティブとは判断していない)。
これでショックを受けるのは私くらいか、笑。

懐かしの「血天井」放送している。
鳥居元忠は徳川家康の忠臣で、家康を天下人にした人だという。

高校の修学旅行、血天井へ行った夜に私は前世を体験したのだった…
ショック過ぎてあんなことになったのだと思っていたが、なるほど忠臣の権化。彼に導かれたのかもな…


2019年9月25日


続きの投稿。
「血天井」はずっと怖いものだと思っていた。
鳥居元忠さん、ごめんなさい。

家康のために死んだ彼が怨みなど抱いているはずがない。
「血天井」は怖いどころか素晴らしい絆の象徴だ。

2019年9月25日

今回ようやくきちんとあの「血天井」の由来を理解した。
あばれる君よ、ありがとう。

当時はショック過ぎてほとんどご住職の説明を聞いておらず、「千年前の血痕」と勘違いしていたくらい。(たぶん年号の「1600年」の「せん~」というところしか聞いていなかったのだろう)
後日少し調べたが、とり憑かれたら怖いと思っていて深入りせずにスルー。(コラ)
そもそも私は日本の戦国時代にあまり興味がないので無知。
そのため今日まであの血痕の主である鳥居元忠についてよく知らなかったのであった。
本当に申し訳ないことです……。


鳥居元忠とは


鳥居元忠って?
ここで番組の説明を参考に少し紹介しておく。

元忠は松平家の家臣・鳥居忠吉の三男。
徳川家康には幼い頃から家臣として仕えた。
1600年関ヶ原の戦いの前、上杉景勝の征伐のためと言って家康が出征する際に伏見城を預けられた。
伏見城は石田三成が挙兵すれば最前線となることが分かっていたが、元忠は家康のためになるべく多くの兵を出し、みずからは僅かな手勢で城を守り「捨て石」となることを家康に誓った。
三成が挙兵した際、4万の兵が迫った。元忠は僅か1800の兵で城に篭もり防衛。この時間稼ぎのおかげで家康は天下を取ることができた。
鳥居元忠はまさに家康を天下人へ押し上げた忠臣と言える。
家康は自刃して果てた元忠を「精忠」として称え、元忠と、彼と伴に戦った兵士たちの血で染まった畳を階上に置いて忍んだ。後に床板は宝泉院などの寺院天井へ掲げられた。

最後の箇所だけ参考のためウィキペディアより引用
その(元忠の)忠節は「三河武士の鑑」と称された。このときの伏見城の血染め畳は元忠の忠義を賞賛した家康が江戸城の伏見櫓の階上におき、登城した大名たちに元忠の精忠を偲ばせた。明治維新による江戸城明け渡しの後、その畳は明治新政府より壬生藩鳥居家に下げ渡され、壬生城内にあり元忠を祭神とする精忠神社の境内に「畳塚」を築いて埋納された。床板は「血天井」として京都市の養源院[15] をはじめ宝泉院、正伝寺、源光庵、瑞雲院、宇治市の興聖寺に今も伝えられている。
家康は忠実な部下の死を悲しみ、その功績もあって……


泣かされる話。

彼が「忠臣の鑑」と呼ばれているという話を知って、ようやくあの時自分が「血天井」に触れたことも意味があったのだと理解した。

改めて自分の体験の全てに意味があったと知る。

あの時、元忠さんは歓迎してくださっていたのだろうか? 温かいお心を感じる。

それなのに無知な現代人の私は寺院に血天井があることで、「怨念の供養」とずっと誤解していた。
申し訳なく想う。
ツイートにも書いたが、彼に怨念などあろうはずもない。
敬愛する主君のために捧げる命は僅かも惜しいとは思わないものだ。
私には彼の気持ちがよく理解できる。


【初来訪の方へ】
このブログに筆者の「前世記憶」に関する記事は膨大にありますが、プロフィールを見ると分かりやすいかと思います。
特に→「経緯1.退行催眠で見た「前世イメージ」と、当初の考え」が端的に分かりやすい話です。これが修学旅行で「血天井」を見た夜に観た記憶。
(記憶の内容についてはごめんなさい、有料の本になっていますが、当ブログ記事を多めに読んでいただければだいたい分かるはず) 



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ドラゴンヘッド・テイルは性格ではないということ

 

 こちらは筆者の前世をサンプルとして、「ドラゴンヘッド/テイルは過去世の性格なのかどうか?」考察した記事です。

 ⇒前世(仮)、ドラゴンテイルへ歩いた見本人生



※一度公開しましたが、今回の記事整理にともない限定公開としました。前段の話はこちら

記事『前世(仮)、ドラゴンテイルへ歩いた見本人生』では、特に
「ここは全く当たっていませんね。やはりヘッドのサイン解釈を性格として読むには無理があるように思います。~全ての転生を通して、私は「直情的に生きる」ことが苦手」
というところがポイントです。
つまり、ドラゴンヘッドもテイルも性格ではないということです。

私が瞬間的に怒りを爆発させているように見えても、感情を直接爆発させているわけではありません。※
少し障碍なのかなとも思いますが、私は怒ろうと意識してから怒ります。

※泣く時はわずかの演技もありません。さすがに私も「泣くことは世間で恥ずかしいこと」と知っているので意識して泣いたことはない。怒って見せることには理由があっても、泣くことに何の意味があるのか?

ただし本当に心の底から怒ったときは表でも裏でも長期にわたる反撃が可能です。やろうと思えば。
何故なら瞬間的に怒りを爆発させることが無いし、相手に意識を向けて感情で粘着することも無いので淡々と続けられるのです。
また周りの目なども意識しないので何を言われても気にしません。
自分で言うのも何ですが、私のようなタイプは怒らせると一番たちが悪いのでは? 笑
(どうか悔い改めて欲しいですね、渡邉義浩と恥三には)

このような性格タイプは瞬間沸騰で忘れる牡羊座(前世ドラゴンヘッド)では有り得ないし、社会での評価を重視する山羊座(今世ドラゴンヘッド)でもありません。
ASC水瓶座のものでしか有り得ないでしょう。

ドラゴンヘッドは今までの人生を投影しているが、性格そのものではない。ましてテイルが性格であるはずがない。
また、ヘッドのほうこそ「今までの人生」を表し、テイルは「今後経験しなければならない人生」を表す。
――私の人生という現実サンプルで、これらのことがご納得いただけるのでは。

〔2024/7/21 改稿〕

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本に囲まれ、崩れた本で圧死したい(理想の老後と死に方)

 


〔以前「はてなブログ」で公開した記事、移動です〕

今週のお題「理想の老後」

険悪な話が続いて疲れたので【お題】へ乗ってみる。

 

私の「理想の老後」は――

本に囲まれて毎日ひたすら読書して過ごし、最期は崩れた本で圧死したい。

というもの。※

 

そうです、私は本好きの変態です。笑

書かなくてもご存知か。

(最近はあまりじっくり小説などを読む時間もないためレビューを書けていないが、くだらない社会関連の本なら読み散らかしています。レビューを書くほどの価値もない本です。それでも文字に触れられるなら幸せと思う)

 

※具体的なイメージ: 可能なら海に近い小山の家にて。

庭の緑が見える開放的な窓がある書斎、部屋の両側に造り付けた本棚にはぎっしり本が詰まっている。孤独な老人となった私はその書斎で毎日本を読んでいたが、あるとき地震が起きて本が崩れ、圧死する。

なんという幸福な老後、本望の最期。

 

この理想を抱くに至った経緯


幼い頃から本が好きだった。文字を目にしている時は何よりも幸せだった。

かと言って人目を気にせず思う存分に本を貪り読むことが可能、という状況にはなかったので、なおさら読書欲は根深くなった。

 

若気の至りで「死にたい」と思った時も、

「まだ読んでいない本がある……あと一日生きる時間を延ばそう」と考え踏みとどまった。おかげで気持ちの変化を体験し、生きながらえることができた。

 

今も

「何のために生きているんだ自分」

などと難しいことを考えそうになった際には、

「とにかくただ本を読む時間を稼ぐ。それだけのために一日でも多く生きよう」

と思うと悩みが消えて明日が来るのを歓迎できるようになる。

くだらない……と思われるかもしれないが、案外とくだらない欲求のほうが生存の力となる。

 

社会のため、国家のため生きねば!

などと大仰なことを考えている人は早く死にますよ。まじで。

 

何故なのかと言うと、たぶんシンプルでくだらない欲求のほうが肉体に近いからではないかと思う。

「社会のため、国家のため」云々は精神に属する話なのだろう。

 

地上の肉体へ魂を縛り付けるには、すなわち生存していくにはシンプルな欲求のほうが強い。

欲求とは、たとえば食欲でも構わない。

死ぬか生きるかギリギリのところで、「あれを食べるまで死ねるか!」と思うことが意外と生還の切り札となる。

 

私はあまり食欲や性欲などがないタイプで、最も肉体に近いシンプルな欲求というものが

「本を読みたい」

であるらしい。

 

もちろん、大好きな人の顔をいつまでも見ていたいとか、いつまでも手を握っていたいという感情も強くある。そのほうが地上にいる理由としては強い。

ただし好きな人が地上を去り、独りぼっちになったことを想定しての「老後」であれば、最も肉体に近い欲求として残るのは自分の場合

「本を読みたい」

になるだろう。

 

だから私は自分が独りぼっちになった老後をイメージするとき、ひたすら好きな本を読んでいるだけの日々を思い浮かべる。

 

“理想の老後”と言うよりは、それしか思い浮かばない老後の光景だ。

 

そしてそんな日々はいつまでもきりがなくなってしまいそうだから、最期は自分で読み漁った本に潰されて区切りをつけたい。

愛する本に潰されて死ぬなら本望だ。

 

後記


自分も電子書籍を読むようになっている昨今、もはや紙本に潰されるという「理想の老後」は夢物語なのかもしれないが。あくまでも理想。

 

それより最近は世界がキナ臭くなり、来年ものんびり読書が許されるか分からない状況となってきた。

読書ができる平和は有難い。

いつまでも、好きな本を読み散らかし自由に放言が吐けるような平和が続けば良いのにと願う。


【関連記事】自分に老後などあるのだろうか?

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鳥居の奥から、黒アゲハが飛来する神秘… とエンジェルナンバー444

 虫とスピリチュアルが苦手な方は、ごめんなさい。この記事を見ないよう避けてください。

ゾロ目ふたたび


ここのところ数字のゾロ目を見ることが増えた。

〔この記事だけ読んでいる方のために解説〕
こういったゾロ目の数字は「エンジェルナンバー」と呼ばれ、高次霊たちからのメッセージだとされる。
神秘分野ではメッセージ性のあるシンボルを「オラクル(神託)」と呼ぶ。エンジェルナンバーも神託の一種。私の経験上、オーディエンスたる高次霊たちは地上の言語を扱うことができないので数字や図形でメッセージを伝えようとしてくる。
ゾロ目などは神託の最たるもので、高次霊たちが使いやすく・地上人の目につきやすいため使われることが多いはず。
(オラクルかどうか判断の仕方: 車のナンバーはユーザーが意図的にゾロ目を申請していることが多いので除外したほうが良いと思う。ただしデジタル時計でゾロ目を見た直後、全く同じゾロ目の車ナンバーを見た時など重なった場合はオラクルとして受け取るべきだろう)

あれ以来、333などは毎日のように見る。
先日書いた999は自分としてはめずらしかったので思わず反応したが、ここ数日でも「444」というゾロ目を見た。
しかもこれがまたブログのアクセス数だったので地上のオーディエンス(文字通り観覧されている読者様)の力も反映されている気がして嬉しかった。



444のメッセージ


444の意味。
エンジェルナンバー444は「万事好調」というメッセージです。
エンジェルナンバー444を⾒たら、「万事好調!」という⾔葉をご⾃分に向けて繰り返 して下さい。
なぜなら、それは本当の事だからです!この⾔葉をあなたがマントラのように繰り返せ ば繰り返すほど、あなたの⼈⽣にそれが現れてきます。
目標に視線を定めて、前進し続けましょう。
あなたは正しい⼈⽣の道を歩んでいて、素晴らしい仕事をしています。
天使たちと⼤天使たちはいつもあなたの傍に居て助けと導きを与えてくれます。
あなたは彼らに助けを求めるだけでよいのです。
エンジェルナンバー444は⼈⽣、仕事そして聖なる目的において何も恐れることはない というメッセージなのです。
あなたがより⾼い意志、願望、目的に向かって前向きな⾏動をとる時、宇宙はあなたに とって良い⽅向に動いてくれ、あなたが確固たる基礎を築き、ご⾃⾝の道を進む⼿助け をしてくれます。
天使たちがあなたの周りでサポートしてくれ、これまであなたがしてきた努⼒を続ける ように励ましてくれているのです。
“The tide finally starts going in your direction.” 「物事の流れがついにあなたの進む⽅向へと向かい始めている」

https://www.numbervoice.jp/angel-number-444/より。(いつも一定のサイトから引用しているわけではないのは、検索で巡り合うことにも意味があると思っているから)

>あなたは正しい⼈⽣の道を歩んでいて、素晴らしい仕事をしています。

なんという力強い言葉だろう。
ちょうど時期的に「実名化」のことやツイッター開設に重なる。
地上の人には「実名化」を応援していただいたが、霊のオーディエンスたちはどう思っているだろうか? また反対されるのでは? と心配していたのでメッセージをくださったのだと思う。

(険悪で一般人からは引かれているツイッターなどにも霊から応援メッセージが来るということは、自分は全く正しい真実を暴いたのだということになる)


鳥居の奥から、黒アゲハが飛来する神秘的光景


こんなことを考えていた台風直前、仕事で立ち寄った先に「お奨めの絶景ポイント」があると聞いたので行ってみた。
具体的に地名を書くと外国人が殺到したりして迷惑がかかるから書かないが、閑散とした田舎町にある小山の上。
海と富士が観られる絶景らしい。あいにく台風前で湿気が多く、夕暮れ間近でもあったため煙っていたが。


この山を登る途中、見るからに古い神社があった。
木立の中に不意に現れる寂れた鳥居が神秘的で、思わず立ち止まり礼をしてから登った。
帰り道。
再びそこを通る際、何気に神社を覗き見て肌が粟立った。
鳥居の奥から、ゆっくりとこちらへ向かって飛来する大きくて黒いアゲハ蝶を見たために……。


写真について:「写真に撮ろう」という発想も浮かばず茫然と見てしまった。このため上イメージ画像はACより。

これも実際の現地の写真ではないが(ACより)、このような苔むした階段の奥から、鳥居をくぐって真っ直ぐ蝶が飛んできた。

夢を見ているのかと思った。
しかしそれは現実の蝶なのだった。
現実の蝶が、人間である私を恐れるどころか近付いて来て、ゆっくり目の前を飛んで去った。
まるで意志を持つ何者かが歓迎のために奥から出迎えてくれたかのような動きだった。

神秘過ぎて畏れを感じる光景に茫然とした。でも決して嫌なものは感じない。
図々しいが、本当に高次の存在が歓迎してくださっているのだと感じた。

後で調べたところ、神社で見る黒アゲハ蝶はやはり神社に棲む高次の者たちの「歓迎の意図」を表すのだそう。
吉兆、成功の意味でもあるとか。
今の自分が何について「成功」するのかは分からないが、ともかく間違った道を歩んではいないらしい。

【関連記事】
以前に大量の蝶に歓迎された話。→蝶は高次霊が操る「使い」という話
そう言えばこの時も大きな黒アゲハが中心だった(他に黄色や青)。こういう体験をするのは古い神社のみ。

これら、同時期に重なったオラクルで安心した。
自分の肉体にとっては危険の多い道ではあるが、このまま進んで良さそうだ。
ようやくこの人生で真っ直ぐ一本の道が見えた気がする。


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波乱万丈な生き方を望むかどうか。人それぞれの人生計画

 


メールのやり取りにて、公の役に立ちそうだと思ったお話があったので恐縮ながら引用して回答させていただきます。
(いつもながら引用してすみません)

波乱万丈を望むか否か


いただいたメールより引用。
>波乱万丈を望む人から見れば、

………そんな人いますか?笑
絶対いないですって。笑

意外なお言葉でした。
私は多くの人が変化のない退屈な日常よりも、「波乱万丈な人生」を望むものだと思っていたので。

多くの人が望む「波乱万丈」とはもちろん、ポジティブな意味です。
山あり谷ありの大冒険を経た後に成功し、晩年に「振り返ってみれば自分の人生は波乱万丈だった」と笑顔で思い返すような人生のことです。
たいていの人は、「波乱万丈」をこういった意味に捉えているのではないでしょうか。

山も谷もない、波風の立たない凪のような退屈な人生を望む人のほうこそ少ないはずです。
「安定した人生」をカッコ悪いと思う人は多いし、おとぎ話の「めでたし・めでたし。王子様とお姫様は末永く幸せに暮らしましたとさ」という結末をおぞましくダサいと考える人は多いのです。
それは何も知らない若者が冒険を望んでいるだけかもしれませんが。

大人として現実を考えれば、ネガティブな意味での「波乱万丈」は誰も望まないでしょう。
大病を患ったり、事故や戦乱に巻き込まれるなどの大変化が人生に起きることを望む人はいません。
「どんな苦労も受けて立つ」
と意気込んでいた人も、目の前に変化が迫ったとき、痛みや混乱を感じることが嫌なので
「安定した人生・ソフトランディング」
を強く望んでしまうのが人の性(さが)というものです。

ただし実は「何も知らない若者が冒険を望む心」こそ、意外と大きな視点からは真実と言えます。

「達観」が不快を与えるとき


本当の真実を言えば、魂は大病を患ったり犯罪被害者になることすら人生計画として立てて生まれて来る場合があります。
大病や事件事故との遭遇さえも魂にとっては、自分磨きの心躍るチャレンジです。

でもこんなことを地上で現に生きている人間に言えば反感を買うことは必至。
何故なら、地上で生きている人間は生まれる前に自分で立てた人生計画を完全に忘れているからです。(計画を忘れた状態でチャレンジしなければ意味がない)
このため地上で生きている人間はいつも
「神は何故、私めにこのような試練を与えたもうたのだ!」
と天を仰いで恨み節を言うことになります。
神様(高次霊)はさぞ言い返したいことでしょう、
「それはお前自身が選んだ人生計画だ」
と。

このような視点は俗に「達観」と呼ばれ、地上の現実とは次元が異なります。
たいていの人はこんな発想すら持ちませんし、理解している人でもいざ苦しみに直面したときは嘆くものです。
誰だって痛いものは痛い。
私自身、痛みは苦手なので大病を患えば泣き叫ぶと思う。

達観してどのような拷問にも涼しい顔をしているのはお釈迦さんなど、悟りを得たマスターだけですかね。

現に苦労をしている人にこのような話をすれば不快を与えるはず。
信じてもらえないだけではなく無責任な詭弁にしか思えないため、「馬鹿にしているのか」と怒られてしまうと思います。
(他人の苦しみに付け込んで宗教団体へ勧誘することは最もやってはならないことです。それはまた種類の違う犯罪)

だから結局、このようなスピリチュアル的・仏教的お説教は現世の苦しみの前では無力なのかなという気もします。

ただし日ごろから
「全ては自分自身で選んだ人生計画なのだ」
という考えを心の片隅に置いて、どんな苦労も少し引きの目(俯瞰)で眺める癖がついていれば、変化を嘆くばかりではなくポジティブに捉えることができるかもしれません。

いざ苦労に直面したときに情報を求めると宗教団体から勧誘を受け入信してしまうかもしれないので、普段から習慣的に教養を積むことをおススメします。

【参考書籍としておススメなもの】
・シルバーバーチの霊訓(私は全編読んでいませんが冒頭のほう、とても高度な思想と思います)
・古典的な仏教の教え(現代の宗教団体のテキストは絶対ダメ。避けてください)
・古典的な中国の道徳(老子などがおススメ。これも宗教団体のテキストは避けてください)
マイケルニュートン『人生はなんのためにあるのか』(特におススメです。とても具体的で分かりやすい)

もちろん、当ブログでは今後も自身の体験から分かった話を書いていきます。
このテーマに近いタグ:運命


安定を望むタイプと、波乱万丈を望むタイプ


最後に、人それぞれに望む人生が違うのは何故か? という話を書いてみます。

そもそも輪廻転生は地上で経験を積むためにあります。
(「地上」とは地球だけとは限りません。ただ一瞬で魂の次元が変わることはありませんので、何度も同じ惑星で経験を積むことになりますが)

魂は前回までの人生で得られなかった経験を新たな人生で積もうとするため、前回と同じ場所・同じ状況に生まれることはほぼありません。(前回自殺していない限り)
必ず前回と違った状況を経験させられることになります。

たとえば、長いこと安定した人生を送ってきた者は波乱万丈に。
長いこと波乱万丈を経験してきた者は安定した人生に。

戦争の時代ばかり生きた者は、どこかで平和な時代を生きる。
平和な時代を謳歌し続けた者は、どこかで争いの人生を経験させられる。

無名で過ごした人は有名に。有名で過ごした人は無名に。等々……。

必ずしもこのように極端な「反転人生」を送るわけではありませんが、変化が大き過ぎる場合はその落差についていけず、
「どうしてこんな人生になったんだ」
「思っていた人生と違った」
という感覚を持つことがあります。

たとえば私は前世で有名になるつもりはありませんでした。だから思いもよらない結果になった、という感覚を抱いていました。
逆に今世の若い頃は、「波乱万丈な人生になるはずだ」という感覚を持って覚悟をしていました。結果、笑ってしまうほど平穏無事な人生となりましたが……。
今世の始めはまだ前世の感覚を引きずっていたのだと思います。あの壮絶な竜巻の感覚がすぐに抜けるはずがありませんよね。
もし私がこのような自分の事情を理解していなければ、今世「こんな退屈な人生を送るはずじゃなかった」と言って神様を怨んでいたかもしれません。
これぞ少し極端な反転の例ですが、多かれ少なかれ皆さん変化があり、ついていけない場合はあると思います。

今、安定した人生を望んでいるのに波乱万丈となってしまい不本意な感覚を抱く人がいるなら、きっとこれまで長いこと安定した人生を送って来られたのだと思います。
この人生でようやく活動的に生きる運命で生まれて来られたのです。
波乱万丈を経験するための恵みの人生です。とてもそう思えないでしょうが、真実です。

ただし無理をしてキャパシティオーバーの苦労を背負うつもりはありませんよ。
専門家に助けてもらって苦しみを緩和するのも人生経験です。

また現世のトラブルは必ず現世的な方策で対処しなければなりません。
様々な方策をとり、現世的な対応をすることもまた経験を積むプログラムに組み込まれているはずです。
「人事を尽くして天命をまつ」です。
人事(人が行う現世的対処)で努力をしないで運命に流されるだけでは成長できないのです。

あの世の道理を学べば動じない心が養われますが、達観し過ぎで何もせずに流されるだけの運命論者も間違っています。
波乱万丈の人生こそ挑戦するために与えられた計画なので、自ら行動していく必要があります。

 

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【占星術で見る善悪】悪事をする者は未熟とは限らない。ゼロ地点と双極の話

 


占星術に関する回答です。
少し前にメールでいただいたテーマですが、ダークな話なので躊躇して書くのが遅くなりました。すみません。

ある殺人犯のネイタルホロスコープ


テーマ引用。青地箇所は筆者による加筆。ちなみに「先生」は筆者のことで、一般的な敬称としての「さん」の意味:
不意にネットで見てしまったそちらのニュースのせいで、先週久しぶりに精神的にズドーーンと落ちました。
あまり詳しくは書きたくありませんが、北九州連続殺人についてです。昔の事件なので知らなかったんですね。
…(略)…
先生がブログでヒトラー独裁者たちに書いている内容を思い出しました。でも私は先生のように俯瞰できず、何故同じ人なのにこのような酷なことができるのかと理解出来ず、同一視することで余計に苦しくなりました。

幼い魂ゆえの過ちなのかと犯人のネイタルを調べたらむしろ逆で、経験値を積んだホロスコープです。
経験値を重ねているのに、狡猾さや残忍性ばかりに磨きがかかっているようにしか思えません。もはや人間ではない存在、悪鬼のようです。
魂は、世界は、少しずつ良くなっていっていると信じていますし、それについて疑う余地はありません。
例外であるのも承知ですが、悪に傾けばとことんそちらに向かう有様を間接的に知りゾッといたしました。

北九州連続殺人事件。存じております。
あれは酷い事件でした、ニュースで耳にしても気持ちが落ち込む耐え難い話です。
よく言われる「トラウマ級の事件」と言えます。
(読者の皆さんへ。精神に悪影響を及ぼすショッキングな事件なので検索の際はご注意ください)

>幼い魂ゆえの過ちなのかと犯人のネイタルを調べたらむしろ逆で、経験値を積んだホロスコープです。

ホロスコープを見たところ確かに経験値の高い魂と思われます。

ただし数多くの転生で蛮行を重ねてきた者なのでしょう。
経験値が高いのは、蛮行に関してのみ。
「いかにして逮捕されず殺されもせずに蛮行を愉しむか」という一点だけで訓練してきた者と言えます。

……と、述べるのはホロスコープだけ純粋に見た占断ではありません。
あくまでも結果としての殺人事件を見て、ネイタルホロスコープと照らし合わせての推測です。

まあアスペクトにはある程度、蛮行をしがちな人の傾向というものが表れていますがね。
差別に繋がってしまうので具体的に細かくは書きません。
少しだけ所感を述べると、メジャーな複合アスペクトで「人格が歪みがち」「不吉」とされるあの最大マレフィックが多重である(オーブ広めの場合)ことは警戒して良い象意と思います。
そもそも全体にハードアスペクト、特に90度があまりにも多く、緩和するイージーが少ないことも蛮行へ傾きがちな性向を表していると言えるでしょうか。
そのうえに地のサインが圧倒で強いということは、地上に関する知性や他者をコントロールすることに長けるわけです。
宿曜は亢宿。亢宿とは本来、優れた改革リーダーとなり得る力を持つ宿なのですがその才能が完全に悪いほうで使われてしまいましたね…。
トータルで蛮行するために生まれてきたような人です。
この人が幼い頃に私が鑑定する機会があれば、親御さんへ「きちんと教育してください。甘やかしては駄目」と注意をうながすことでしょう。教育など無理かもしれませんが。

ただ、最大マレフィックをネイタルに持つからと言って全ての人が蛮行をするとは限らない。
むしろ人生の障害を乗り越えて偉人へ成長することもありますので、このようなネイタルを持つというだけで悪に仕分けすることはできません。
よって、ネイタルによる差別などというものは不可能なのです。

以前も書いた通り、残念ながらネイタルのホロスコープからその者の本性が善であるのか悪であるのか(蛮行をするか否か)を判断するのは不可能です。
不可能でなければならないのだと思います。
もしネイタルから善悪を判断できたら
「誕生時に殺処分」
という方策が採られかねず、それもまた一種のディストピア(恐怖社会)の実現となります。

かつてヒトラーのネイタルホロスコープに相当する年月日に、ある占星術師が
「この日に生まれた子供を警戒すべきだ! この日生まれた子供が世界を恐怖へ陥れる」
と叫んだという伝説があります。
(正確な引用ではありません、ニュアンスです)
その伝説も事実だったのかどうか定かではありません。


悪事をする者が全て「未熟な魂」とは限らない


>何故同じ人なのにこのような酷なことができるのかと理解出来ず、同一視することで余計に苦しくなりました。

いや、私も同じで苦しいですよ。
こういう「純粋に蛮行を好む者・本心から蛮行が正義だと思っている者」が同じ人間のなかに存在することが苦しく、恐怖でもあります。

他にも。
幼児に壮絶な拷問を与えて死に至らしめる親たち、それらの行為をニュースで耳にするたび心理的ダメージを受けています。
隣の大陸政府が行っている蛮行を聞くと、もっともっと苦しくなります。

人が人に暴力をふるう。
幼き子や無力な民をとことんまで拷問し、悲鳴を上げ苦しみのたうち回る様子を眺めて快楽を得ている者たちが存在する。
こんな行いが地上で起きていることが許せない。
「俯瞰」などで納得することはできません、納得してはいけないことだと思います。
(だから私も今、戦っているのです)

しかし原理は分かる気がします。
どうしてこのような者たちが地上に存在するのか。

蛮行を好む者も我々と同じ魂であり、決して「未熟だから」「低次元だから」というだけではありません。
未熟な者が欲望をコントロールできず犯罪に走ってしまう、という傾向は確かにあります。でもそれだけではない。
ニュートン氏の被験者たちは「全ての魂が善である。蛮行する者は肉体コントロールができない未熟な者だけ」と言っていますが、そうではないと私は感じるのです。

たいていのサイコパスは知能が低いことが分かっています。脳の障碍ですから当然です。
しかし稀に知能が高いサイコパスもいます。
上の殺人犯の経歴を調べたところ、幼い頃から学校の成績は良く「オール5(全科目最優等)」だったとか。
ショッキングな話ですね。知能が高い者のなかには善良な人も、悪い人もいるという。
このことからも、
「知能が高ければ人格も高潔で善良」
とは言えないし逆に
「知能が高い者は全て悪人の犯罪者」
とも言えないということが分かります。

〔参考〕サイコパス診断、筆者結果

経験値でも同じことです。
「経験値が高ければ全て善良」
「経験値が低ければ犯罪者になる」
と決めつけることは不可能です。


0から双極へ分かれる世界。この世はハブ空港


私が思うに、死後を含む全宇宙・全世界には0(ゼロ)という地点があって、それがこの地上に相当します。
(地上とは地球のことだけではありません。他の星を含む)

昔から言っているのですが「地上は善と悪とが交差するハブ空港」。
このゼロ地点を介し、魂はプラス(陽)かマイナス(陰)へ分かれて行くことになると思われます。
ゼロ地点からどれだけ離れたかによって、低次・高次が決まります。
つまり、善良なる天使に相当する「高次霊」もいれば、禍々しく強力な悪魔と呼ばれる「高次霊」もいるわけです。
悪魔のほうをあまり「高次霊」とは呼ばないので、「究極なる低次霊」と呼ぶべきなのかもしれませんが。

力としては陰陽、互角です。

だからこそやっかいで、地上の戦闘はやまないし悪事もなくならないのです。
特にこの地球のように波動の重いゼロ地点においては、常に悪の勢力と善の勢力が拮抗して戦い合っていると言われています。
「悪い魂など存在しない」
と高をくくって安心しているのは甘いと言えます。悪い者は相当に罪が深く危険なのです。
私が繰り返し
「性善説にも性悪説にも偏ってはいけない」
と述べているのはこの理由からです。

ただし善悪が拮抗するのもゼロ地点に近いレベルだけ。
いずれ地球の波動が上がれば、双極の対立が減り穏やかな人々がこの星で暮らすようになるのでしょう。

その時、悪事を重ねてきた「究極なる低次霊」の者たちはどうなるのかと言うと、地球よりもっと重く低い場所へ追いやられるかもしれません。
あるいは、「魂の処刑」に等しい解体を受けるのかもしれません。
実際のところは私にも感覚としてつかめず不明ですが、蛮行を重ねないほうがいい、ということだけは確かに言えます。

悔い改めるなら今のうち。
今このハブ空港で生きている間だけです。
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