「勉強で人格は磨けない」対「教養が人格を高める」 矛盾について再考
私の記事を読んでいると矛盾に感じる話が多いと思いますが、特にこれは多くの人が「矛盾じゃないか!」と怒る話ではないでしょうか。
1.先日の記事
『「教養と心の優しさは連動する」 インテリは全員が悪人なのかどうか』
2.少し前に書いた記事
『勉強が好きか、嫌いかで人間の価値は決まらない(勉強嫌いだった劉備について)』
何故ここまで正反対に見えることを言ってしまうのかというと、「1」は主に他人の表現を借りて同意しており、「2」は純粋に自分だけの言葉で表現しているから違って見えるのだと思います。
本当は同じことを言っているのですが、なかなか世間の皆様にはそう受け止めてもらえない。
世間で「知性」「知識」「学力」「学歴」は一緒くたに定義されているので表現が難しいのです。
私が思う「知性(教養)」には、学歴や知識は含まれません。
学歴が低かったり知識の少ない人のなかにも、本物の知性(教養)を持つと感じられる人がいます。それは「知能・心の高さ」という生来の基本スペックを読み取っているだけなのかもしれませんが。
劉備など優れた人格を持つ人こそ「本物の知性を持つ人」と私は思っています。
だから私にとって「知性と人格は連動する」という意見もまた、真実として受け止められるわけです。
反対の真実を言えば、知識をいくら積み重ねても人格が磨かれることは永久に無いということになります。
前記事でも書いた通り、知識がカルト思想を強化するためだけに使われる場合もあります。知識は使い方によっては狂気にもなり得るということです。
だから知識至上主義・学歴至上主義こそ最も危険だと言えます。
もちろん学業の衰退が人格の荒廃を招くことも現実にあります。
このことは隣のC国で実証されています。
近代C国では古代から続いてきた学問の全てを禁止したところ、人々はたちまち獣化して残虐な殺人集団となってしまいました。
(学問を禁じただけではなく、殺戮集団となるような教育も施されたからなのですが)
今あの国で残虐な指導者となって殺戮を指示している人たちも、若い頃に勉学をせず暴力に勤しんだ世代です。
国民全体も学業の衰退によって民度が落ち、マナーの悪さで世界中から非難を浴びています。
いっぽうで古代思想を学んだ一部世代の人格・マナーは向上しています。
もし彼等がK産主義をやめ、古代からの教養を蘇らせれば、ほんの数十年で獣の国から人間の国へと生まれ変わることができるでしょう。
この実証を見れば「学業は人格に関係ない」とも完全に言い切れません。
結局は学ぶことの中身によって人格への影響が決まるのではないかと思います。
そもそもが東洋と西洋の学業定義(学ぶことの中身)は異なります。
東洋では昔から「学業(学問)」と「道徳」は切り離すことができないものでした。
道徳を学ぶことこそが学業であったのです。
だから東洋的な知性・教養と、人格の高潔さは比例しているイメージになります。
しかし西洋では「善なるもの=道徳」はキリスト教会が担うものですから、学業とは切り離されています。
(神学を除く)
古代ギリシャではこれが切り離されることなく語られ学ばれていたわけですが、キリスト教支配が増すとともに神は人間から道徳を奪いました。そのようにして、学業からも次第に「善」「道徳」が切り離されていったと思われます。
一見すると人間の善悪について考える学問のように思える哲学においても、善悪を客観的に観察するのみ。「こうあるべき」という基準がないので、道徳観を身に着ける余地はありません。
むしろ学問に善悪を持ち込むことは禁忌とされているはず。
このことは純粋に思考したり知識を積み重ねるためには優れたやり方ですが、善悪というコンパスをないがしろにするために判断が歪み、知識を暴走させる人が多く出るのでしょう――殺戮を正義と主張するカルト思想が典型です。
現代で言うところの「学業」「教育」とはこの後者、キリスト教化された西洋学を指しています。
だから知識重視の現代学校教育をいくら頑張ったところで人格を磨くことは難しい、と述べるのが正しいと思います。
もし人格を磨くための教養を身に着けたいのだったら、東西の古代思想がお奨めです。
まだ神が道徳を奪わない時代、人間自身が本気で「善なるもの」を希求し続けた頃の。
ただし何度も言うようですが単なる「知識」には意味がありません。古代思想でも「知識」に留まるなら同じこと。
元も子もないことを言えば、根本の資質も必要です。
教養は本来の資質を磨き活かすために役立つのみ。
磨かれる原石が悪ければ、学びは知識に留まり教養として消化されることはないのかもしれない……。
(劉備のように、学業しなくても原石の輝きが凄まじい人もいる)
大事なことは学業で磨かれる可能性を初めから断つべきではない、ということです。
ほとんどの人の原石は磨けば輝くのだから挑むこと。
国家が学業の機会を奪って、代わりに獣の皮を着せることは最悪の犯罪と言えます。
例:
C国の子は幼い頃からこのような道義心を持っている(祖母をいじめる悪者に命懸けで立ち向かう道義心。祖母がルールを守っていないから警察が来たということはまだ彼には分からないだろう)。
だがこんな強い道義心を持つ人々にまで、かつてC国政府は獣化教育を施し獣の皮を着せた。
この子が将来、原石を輝かせるか獣に成長してしまうかはこれからのC国制度にかかっている。
1.先日の記事
『「教養と心の優しさは連動する」 インテリは全員が悪人なのかどうか』
2.少し前に書いた記事
『勉強が好きか、嫌いかで人間の価値は決まらない(勉強嫌いだった劉備について)』
何故ここまで正反対に見えることを言ってしまうのかというと、「1」は主に他人の表現を借りて同意しており、「2」は純粋に自分だけの言葉で表現しているから違って見えるのだと思います。
本当は同じことを言っているのですが、なかなか世間の皆様にはそう受け止めてもらえない。
世間で「知性」「知識」「学力」「学歴」は一緒くたに定義されているので表現が難しいのです。
私が思う「知性(教養)」には、学歴や知識は含まれません。
学歴が低かったり知識の少ない人のなかにも、本物の知性(教養)を持つと感じられる人がいます。それは「知能・心の高さ」という生来の基本スペックを読み取っているだけなのかもしれませんが。
劉備など優れた人格を持つ人こそ「本物の知性を持つ人」と私は思っています。
だから私にとって「知性と人格は連動する」という意見もまた、真実として受け止められるわけです。
学業で人格が磨かれる場合とは
反対の真実を言えば、知識をいくら積み重ねても人格が磨かれることは永久に無いということになります。
前記事でも書いた通り、知識がカルト思想を強化するためだけに使われる場合もあります。知識は使い方によっては狂気にもなり得るということです。
だから知識至上主義・学歴至上主義こそ最も危険だと言えます。
もちろん学業の衰退が人格の荒廃を招くことも現実にあります。
このことは隣のC国で実証されています。
近代C国では古代から続いてきた学問の全てを禁止したところ、人々はたちまち獣化して残虐な殺人集団となってしまいました。
(学問を禁じただけではなく、殺戮集団となるような教育も施されたからなのですが)
今あの国で残虐な指導者となって殺戮を指示している人たちも、若い頃に勉学をせず暴力に勤しんだ世代です。
国民全体も学業の衰退によって民度が落ち、マナーの悪さで世界中から非難を浴びています。
いっぽうで古代思想を学んだ一部世代の人格・マナーは向上しています。
もし彼等がK産主義をやめ、古代からの教養を蘇らせれば、ほんの数十年で獣の国から人間の国へと生まれ変わることができるでしょう。
この実証を見れば「学業は人格に関係ない」とも完全に言い切れません。
東洋と西洋の学業定義は異なる
結局は学ぶことの中身によって人格への影響が決まるのではないかと思います。
そもそもが東洋と西洋の学業定義(学ぶことの中身)は異なります。
東洋では昔から「学業(学問)」と「道徳」は切り離すことができないものでした。
道徳を学ぶことこそが学業であったのです。
だから東洋的な知性・教養と、人格の高潔さは比例しているイメージになります。
しかし西洋では「善なるもの=道徳」はキリスト教会が担うものですから、学業とは切り離されています。
(神学を除く)
古代ギリシャではこれが切り離されることなく語られ学ばれていたわけですが、キリスト教支配が増すとともに神は人間から道徳を奪いました。そのようにして、学業からも次第に「善」「道徳」が切り離されていったと思われます。
一見すると人間の善悪について考える学問のように思える哲学においても、善悪を客観的に観察するのみ。「こうあるべき」という基準がないので、道徳観を身に着ける余地はありません。
むしろ学問に善悪を持ち込むことは禁忌とされているはず。
このことは純粋に思考したり知識を積み重ねるためには優れたやり方ですが、善悪というコンパスをないがしろにするために判断が歪み、知識を暴走させる人が多く出るのでしょう――殺戮を正義と主張するカルト思想が典型です。
現代で言うところの「学業」「教育」とはこの後者、キリスト教化された西洋学を指しています。
だから知識重視の現代学校教育をいくら頑張ったところで人格を磨くことは難しい、と述べるのが正しいと思います。
学ぶべき教養は
もし人格を磨くための教養を身に着けたいのだったら、東西の古代思想がお奨めです。
まだ神が道徳を奪わない時代、人間自身が本気で「善なるもの」を希求し続けた頃の。
ただし何度も言うようですが単なる「知識」には意味がありません。古代思想でも「知識」に留まるなら同じこと。
元も子もないことを言えば、根本の資質も必要です。
教養は本来の資質を磨き活かすために役立つのみ。
磨かれる原石が悪ければ、学びは知識に留まり教養として消化されることはないのかもしれない……。
(劉備のように、学業しなくても原石の輝きが凄まじい人もいる)
大事なことは学業で磨かれる可能性を初めから断つべきではない、ということです。
ほとんどの人の原石は磨けば輝くのだから挑むこと。
国家が学業の機会を奪って、代わりに獣の皮を着せることは最悪の犯罪と言えます。
例:
C国の子は幼い頃からこのような道義心を持っている(祖母をいじめる悪者に命懸けで立ち向かう道義心。祖母がルールを守っていないから警察が来たということはまだ彼には分からないだろう)。
だがこんな強い道義心を持つ人々にまで、かつてC国政府は獣化教育を施し獣の皮を着せた。
この子が将来、原石を輝かせるか獣に成長してしまうかはこれからのC国制度にかかっている。