記憶喪失でも人格は変わりません。人格は脳・行動・魂の個性がつくる
某ネット通販サイトで何気に購入した漫画のなかにこんな作品がありました。
『君が僕らを悪魔と呼んだ頃』
内容:
かつて、僕は悪魔だった。半年間の失踪を経て、記憶の全てを失ってしまった高校生、斎藤悠介。記憶喪失なりに平穏だった日常は、ある日、突然、破られた。次々に現れる過去を知る者、復讐者たち。覚えのない咎で断罪される瞬間、死肉に突きたてた刃の、幻を見た。━━さて。俺が殺したのは、どこの誰だ?
記憶喪失ものですね。
リアリティのなさと主人公のサイコパスぶりが気持ち悪くて耐えられず、私は一巻でギブアップ。
(酷評過ぎて申し訳ないと思ったので詳細レビューカット)
サイコパスだった人が記憶を失っただけで明るく健康的な人格にチェンジすることはありません。まして過去の自分の行いを知って反省することもあり得ません。
いくら漫画でも耐えられない破綻でした。
“文学的”とレビューしている人もいますが、文学だとすればなおさらこのような浅い人間観は許されないと思います。
記憶を失っただけで人は変わらない
別に漫画レビューを書きたくて記事を上げたわけではないのです。
この作品は多くの人の「記憶喪失」への誤解を描いた、典型的なものだと思ったので紹介しました。
今回この漫画を読んで気付いたのは、たいていの人が未だに
「人間は記憶を失えば人格チェンジできる」
と考えているということです。
そう言えば私も子供の頃はそう信じていましたっけ。
記憶を失ったら人格も変わるのだと想像して怖くなった覚えがあります。
逆に、失われていた記憶が蘇ったら人格チェンジしてスーパーな能力を持つ人間になれるかも、と夢想したことはありますね。
そういう設定のフィクションがけっこうあったからです。
有能なスパイだった人物が記憶を失って凡人として暮らしていたが、記憶を取り戻して大活躍するなどという設定は映画でもお馴染み。
現世で記憶喪失ではないが、前世の記憶を思い出して超人に変身する、という話もありましたね。(具体的な作品は思い出せませんが)
そのようなファンタジーは子供らしい変身願望を掻き立て、ワクワクさせてくれます。
しかし……、何度も書いてきた通り現実は違います。
記憶喪失の人でも、脳を損傷していない限りは人格が変わるなどということはありません。
何故なら脳の構造が変わらないからです。
たとえば冒頭で紹介した漫画のように、サイコパスだった人が記憶を失っただけで明るく善良な人格に変わるということは絶対あり得ないと言えます。
サイコパスは脳の一部(扁桃体)に先天的な異常があるか、著しく機能低下したときに現れる人格障碍。たとえ記憶を失ったとしてもそんな脳の構造は変わらないので、以前と全く同じように「残虐な行いを平気でする」「嘘をつく」「反省しない」という人格で生きることになるわけです。
確かに、後天的に身に付けた能力や態度は記憶で変化するでしょう。
仕事で培った知識を失えばその仕事ができなくなり、自信を失って暗くなっていく。逆に知識を取り戻せば復職し、自信を取り戻して明るくなる。このように状況によって一見人格が変化したかのように見える場合もあると思います。
でもそれは状況への反応。表面の変化に過ぎず、人格の根幹が変貌したわけではありません。
つまり現実では、
記憶が人間の人格を造っているわけではない
と言えることになります。
人格を造るのは行動
「記憶が人格を造るわけではない」という話をすると、極論として「では教育は完全に無意味なのか!」と考える人がいるのですがそうではありません。
行動が伴った“訓練”は現実に脳の構造を変え、人格も変化させます。
単なる知識としての記憶は人格に影響を与えないが、行動は人格に関与するということです。
この仕組みを悪用して「後天性サイコパス」を生む思想洗脳がありますね。
反対に、サイコパスを社会へ適応させるような行動療法も現実に行われています。
道徳の実践もサイコパスの芽をつみ、健常者の人格を高める基礎訓練でしょう。
では他者から受ける訓練によらず、無意識な状態で発揮される人格個性はどのように生まれるのでしょうか?
親の教育?
確かに親の育て方が人格へ与える影響はとても大きいと思います。しかし双子でも個性の違いが生まれるのですから、教育・環境だけが人格へ与える100%の要素であるとも考えにくい。
このような現実を観察していると、やはり「先天的な肉体の性質」「教育」以外の第三の要素が人格形成に大きな影響を与えているとしか思えません。
その“第三の要素”とは、(初訪問の人には少々飛躍していると思われるでしょうが)魂の個性です。
“魂は自分で肉体を選び、出生後も本来の個性に合わせてカスタマイズしていく”
と前に書いた通りの話。
【過去記事】 体は魂の性格でカスタマイズされる、という話
(もちろん生まれつき大きな脳の障碍がある場合は本来の個性を発揮していくことは困難と思いますが。その場合でも肉体を選んだのは魂自身です)
前世記憶を得ても人格が変わらなかった件
以上の話は私自身の体験から分かること。
私は「人格の同一性は、生きている間の記憶喪失だけではなく転生によって肉体を変えても保たれるのだ」と思い知った体験者です。
この話はちょうど最近私が書いていた記事にも関連します。
限定公開記事なので、関連するところだけ転載しますね。
昔から、何でもできる大活躍のフィクション(前世)が羨ましいと思ってきました。前世記憶を得てもスーパーな人間には変身できなかったという話。残念。
若い頃は「いつか記憶を全て思い出せばフィクションにも近付けるのでは!?」などと夢見ていましたが、よく考えれば現実がさほどでもないからあり得ない。当たり前。
無い袖は振れない、現実ではないフィクションは体現できない、のです。残念ながら。
皆さんガッカリされているでしょうが、一番ガッカリしているのは私自身です。笑
「フィクションはフィクション」と分かっていながらも、心のどこかに変身願望があってファンタジーを夢見ていた若い頃がお恥ずかしい。
まあ、失われている言語知識などを全て取り戻せばそれなりに一家言ある人間になれるのかもしれません。ただ、古代知識は現代で役に立たないと思いますね。
しかも根本的に、私の言うことは前世とあまり変わらないのではないでしょうか?
「欲ばかり貪るな」
「くだらない言説に惑わされず自分で考えろ」
「道義に沿った行いは最終勝利する」
等々。
私がここに書いているような正論・説教は前世の記録文にも散見され、“昨日書いたのか?”と自分で見紛う既視感に襲われ赤面します。
あと、最近振り返って我ながら凄い一致だなと思うのは、今ここで書いた私の小説『我傍に立つ』を読んで泣いてくださった方が多いことです。
本当に全く泣かせるつもりで書いた文ではないのに、大勢の方を泣かせてしまった結果が前世と一致したのは不思議でした。
このような裏付けがあるので、半分記憶喪失であっても今の私は昔の気持ちを代弁できると考えています。
軽めの現代文は、当時とはまた違った印象を与えるかもしれません。表面しか読まない人はそういう点を指摘するのでしょう。
しかし根本の考えはたぶん変わっていません。
スーパーなフィクション人物に変身できなかったのは残念ですが、自分の人格を失わずに済んで良かったなと思っています。