タイムリープと輪廻転生の違いとは? 前世記憶を持つ人のアイデンティティ

 



こちら(要パス記事)で紹介した漫画『パリピ孔明』は、歴史人物が現代に“生まれ変わる”という設定になっているそうです。しかしファンタジーの種別として正確に言うなら、「タイムリープ」に該当するのではないかな?と思います。

“死後の移動だから転生”
と言われても……それは違うかな。
転生には新しい地で父や母がいて、兄弟や親族がいて、新たな名と居場所があります。

死んだときそのままの記憶・人格・名で、単に時間を移動しただけならタイムリープに当たるでしょうね。
定義にうるさくて申し訳ないですが。SFファンはたぶんもっと厳しいはず、笑。

【タイムリープ】
時間跳躍。SF用語で、肉体や人格そのまま過去から未来へ飛ぶこと。過去、未来に限定せず、アクシデントで時間移動する場合は「タイムスリップ」と呼ぶ。これらは和製英語だそうで、日本限定のSF用語です。

※2022年追記 実際アニメでこの作品を観て、この作品で言う「転生」定義は最近の「異世界転生」ジャンルにおける転生なのだと理解しました。普通はスライムになるなど姿かたちが変化するのですが、意識・記憶は完全に前のまま異世界へ移動するのがこのジャンルの特徴ですね。その場合、やはり本人から見た状況はタイムリープに近いと思います。

まあ、フィクション創作でのジャンル分けですからもちろん厳密ではなくても良いのですが、この「タイムリープ」と実際の「輪廻転生」を混同されてしまうと困るなと思います。

私もそうですが、現実に“前世記憶”を持つ人々が存在します。
その記憶が真正かどうかはともかく、前世記憶を持つ人々を「タイムリープしてきた昔の人」扱いされると話が噛み合いません。
(そもそも前世話を信じてそんな扱いする人いるのか!? と疑問に思われるでしょうが、ネットではけっこう遭遇します)

たとえば
「織田信長が現代に生まれ変わっていたら、オートロック教えたい!」
と言ってしまうような勘違いをされている人が多い。
現代に転生した信長さんなら、「君らと同じ時代に生まれ育ったのだからオートロックぐらい知ってるわ!!」と怒りますよ。

私だってこの通り現代でPCを使っていますし。サイトもブログも運営してきました。
スマホも使います。
もと古代人、というだけではなく昭和生まれなので(笑)スマホを使いこなせているかどうかは微妙ですが。

私は現代日本人です。
生まれた時から現代日本の文化に染まり、一般日本人の感覚で生きています。
観てきた映画やドラマ、アニメ、聴いていた音楽などもだいたい同世代の方と同じだと思います。

実を言えば、現代のギラギラした欲望の文化にはついて行けないと感じていたのは確か。
軽めの言葉遣いも苦手で、「真面目」「堅苦しい」とさんざん悪口を浴びたため修正してきました。
食べ物も素朴なものが好きでした。雑穀米や漬物が好きだったり。
おそらく、そのように無意識に関わるところは古代人の癖が抜けていないのだと思います。

この点が長期間を飛ばされた弊害でしょうね。
ブランクが長過ぎて地上情報のアップデートが難しい。
やはり100年内での短期間で転生してきた人のほうが、現代文化にすぐ馴染めて生き生きと暮らしているのでは。
たとえば現代でIT企業の社長などになって成功している人は、たぶん近代~現代を短期間で転生してきた人たちでしょう。

しかし私は現代にうまく溶け込めなくても、自分の「立ち位置」は今ここという認識があります。

このブログでも何度か書いてきた通り、私は自分が生まれた今の時代と文化が好きです。
特に子供の頃、ちょっと大人し過ぎるがごく普通(を装っていたとしても)の子として学校に通い、友達と楽しく遊んだ日々は貴重な体験でした。
平和のなかで生きられたことも良かった。
バブル期に過ごした子供時代は、振り返ってみれば楽しかったですよ。社会全体が明るくて。
私自身は一切バブリーなものに関わりない貧乏人でしたが(笑)、何の心配も要らない幸福な時代だったと懐かしく思い出します。

前世のアイデンティティとどう折り合いをつけるか


これも何度か繰り返し書いてきた気がします。でも、過去記事を読む人は少ないと思うので改めてお話ししておきます。

よく勘違いされるのですが、私の現在のアイデンティティは、他者曰く「前世という妄想w」で創作したものではありません

たとえば「お勉強ができる」「物静か」などの個性は、幼い頃に既にそうだったというだけ。
「末は博士か大臣か」は、実際に今の私が幼い頃にさんざん浴びた言葉です。
故に、現在の私のアイデンティティ(自己同一性)は、現在の人生で養われたものだと言えます。もちろん無意識には自覚できない前世の癖が影響していたでしょうが。

 参照→【質問】幼い頃、どんな子供でしたか?

私の場合、“前世記憶”は成長した後に思い出したもの。
そのときは既に高校生だったので、揺るぎない自我、個性が育った後です。

揺るぎない現世の自分と、前世記憶のなかの自分は、確かに同一で「続いている」自己という認識があります。

しかしそんな自己同一性を持つ前世記憶と、自分の脳から離れた場所にある現実の“記録”や他者評価は別物です。
長いことその現実記録と自分とを感覚で一致させることはできなかったため、他人として眺めることも可能です。
だからわりと客観的に、他者のように解説文を書くことができるわけです。
ふと状況を思い出すと物凄く恥ずかしいですが――どうせ他人が私の体験を信じることは永久にないでしょうし、一致した人物として見られることも決してありませんから関係ないと開き直っていますね。笑
「信じてもらえない」という状況を逆手にとって自由に語らせていただいています。

2018年頃から現実との人格一致(つまり、その記録文が確かに自分に対するものだという確信)を体験することが多くなりました。

先日も、「遠隔エゴサーチ」をやり過ぎて現世の幼い頃より前世が近くなってしまったと書きました。→前世のほうが、幼い頃より近くなる

こういう弊害がありますから、前世記憶をお持ちの方は今の私の真似をしないでいただきたいです。

今、私が遠隔エゴサしているのは逼迫する現代の事情あってのこと。
現代の危機がなければこのようなことはしていません。
私が大切なのはあくまでも今ここ・現代。今と未来の人々のためだけに過去を使いたいと考えています。


過去に乗っ取られたくないという願い


前世記憶を得てから長いこと現実に向き合わなかったのは、怖かったのと、
「前世に現世を乗っ取られたくない」
と思ったからでもありました。

結果として今現在を考えると、もしかしたら「前世に現世を乗っ取られている」状況と言えるのかもしれません。
前世記憶に心を揺らし、遠隔エゴサで痛みや怒りを覚える毎日ですから。

何より前世について考える時間の多さと、ブログ(別館)記事を書くことに費やす時間、この一切報いのない労働に我ながら人生損をしているなと感じます。

何らか使命があると思うのでこの苦役を続けているのですが、いよいよ今の人生が終わりに近付いたら全て放り出し、自己の日常だけを楽しむでしょう。

結局、私は今が大事です。
生きている時間が愛おしいと思う人間です。

(こう思うのも転生の記憶があるから、なのですが。つくづく矛盾していますね)

紫陽花について


冒頭アイキャッチ画像に紫陽花の写真を掲げたのは、今が見ごろの紫陽花を愉しみたいという想いから。(PAKUTASOさんより。自分の写真は下手なので、お借りしました。すみません)

散歩で出会う紫陽花が今、輝いて見えます。

これほど季節ごとに美しい花々が咲き、日常の散歩で愉しめる時代・国は他にないのでは。
究極に特別な今この場を愛でたいものです。


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