感情は魂に属し、霊界にも来世にも持ち越される。「感情」と「肉体本能」は異なるもの

 


前記事を見直していて、「感情」「肉体的本能」などの定義が分かりづらく混乱しやすいかなと思いました。

ここに改めて当ブログの用語定義として解説しておきます。過去記事と重複する話が多いのですが、新たに来訪された方のために書くものです。ご容赦ください。

感情は肉体に属するか、精神に属するか


まず「感情」は地上・肉体だけに属して死後は消えてしまうものなのか? それとも死後も感情は続くのか? という話。

この点、スピリチュアル本によって見解が異なります。

そもそも「感情」とは、地上の一般用語で定義しますと
“他者との交流のなかで生まれる愛(絆)・憎悪・喜怒哀楽”
などの反応のことになると思います。
このなかで愛(絆)と憎悪は永く続きます。喜怒哀楽と違って、その場限りの反応ではなく心に定着するものだからですね。

そのような「感情」は地上の肉体だけのものだと説くスピリチュアル本が多いようです。
感情=エゴ=肉体本能、とネガティブに考える人が多いから、死後世界へ行くと感情が消えるとの推理が一般的になるのでしょうか? 
あるいは“悟り”を得た仏陀などには感情のない超然としたイメージがありますから、死ねば即悟りを得られる(輪廻などない)と信じている人たちは、「死=永遠の安息」で感情のない世界を想像するのかもしれません。

そのいっぽうで、死後世界の体験者たち…前回死んで生まれ変わるまでの間の記憶を持つ人々は「霊界にも感情がある」と口を揃えて語ります。

たとえばニュートン氏のレポートでは霊界で地上のごとく仲良しな魂同士で親しく交流している様子が述べられています。(血よりも濃い、グループソウルとの絆

また、死後世界を旅した人々の話によれば“地獄”のような次元もあるそうで、そこはネガティブな感情に囚われた魂たちが自ら留まっている世界だといいます。(一例:Aファーニス『死後世界地図』)

実は死後世界体験者の話だと、後者のほうが多勢。

自分の体験から言えること


私自身の考えも、後者(感情は死後も引き継がれる)のほうです。

これは単なる想像やスピ本をつなぎ合わせた発想ではなく自分の体験から思うこと。

私の記憶では前回の死の直後、肉体的な痛みや苦しみは消え去ったのですが、逆に感情は強まり圧倒されました。
むしろそこは感情しか無い世界だった、と言っても良いでしょう。

肉体を脱ぎ去った後だからこそ純粋な精神が解き放たれ、地上に比べて何倍にも増幅された感情を味わうことになるようです。
そこで地上の真実を悟ることができます。肉体の垣根に阻まれて知ることのできなかった相手の感情をダイレクトに感じ取ることができるからです。ごまかしのない相手の心が伝わるため、一切の嘘が入りようがありません。
だからこそ私は生きていた頃にはあまり気付いていなかった(自惚れまいとして信じ過ぎることを抑えていた)、魂の伴侶※のとてつもない信愛を知って衝撃に打たれたわけです。

※詳細は小説『我傍』または『死の後、数日間の話』

もちろんこのとき、自分自身の生前の感情もごまかしなく思い出されます。
嬉しかったことや楽しかったこと幸せだった日々の気持ちはもちろん、悲しかったことや辛かったことなどのネガティブな気持ちも増幅されて感じ取ることになります。
(出来事の具体的な事柄など、細かいことは省略されて場面と感情だを感じ取るのです。神経が剥き出しになった状態で味わう感覚を想像すれば近いかも。だから、ネガティブな感情が多い人の場合はきついだろうと思います)

このように肉体を失ったからこそ感情が純粋に増幅されたということは、感情は完全に精神すなわち魂に属するものだと考えることができます。

現実にも、何らかショックを受けて魂を失ったかのようになる離人症や記憶喪失の場合、感情に紐づけられているエピソード記憶が失われてしまいます。

【実例の話】魂が記憶しているもの、肉体が記憶しているもの

いっぽうで肉体のほうは生存のための記憶を持ち続けています。こちらの本能に関わる記憶は、どうやらDNAで受け継がれるようです。(生物学の実験結果からも肉体DNAが生存手段を記憶することが判明しました)

これらのことから、
 感情=精神・魂に属して死後も来世も持ち越す
 本能=肉体に属する記憶でDNAにて受け継がれる
と考えることが可能です。

魂と肉体は生きているときは一つに繋がっていますが、実は別々のものであり、魂は肉体という乗り物をお借りしているだけ。
このため魂(精神)と肉体とで記憶する担当が異なるのだと思われます。

「死んだら即感情を失う」とか「感情を持っている限りはエゴが強くて成仏できない」などと言うのは、“悟り”に対するイメージからの想像。
感情を超越した仙人(または仏陀)に憧れる人々の希望的観測、とも言えます。

あるいは、地上での体験から遠く離れた高次霊たちは本当に“感情”からも遠ざかっていて忘れてしまっているのかもしれません。
ただし感情は精神(心、魂)の軌跡そのものですから決して消えることはないでしょう。
感情を深め味わうためにこそ魂は地上へ降りて活動するわけです。そのような貴重な体験が消えるはずがないと思います。

肉体の欲望に翻弄されるのは、魂の願いから離れること


前回の記事で私が書いた
「ドロドロした本能に取り込まれて堕ちていく」
「魂が老いていけば肉体へのこだわりが薄れて本能が減っていきます」
とは、上の肉体反応や肉体記憶のことを指しています。

肉体はどこまでも生存して子孫を残すことだけを希求するもの。ですから、欲望の塊でもあります。
他者を蹴落として競争に打ち勝たないと肉体は生存し、子孫を残すことができません。そのため純然たる私利私欲だけで行動するようにインプットされています。

このような肉体の欲望を制御できずに翻弄されてしまうことを、若く未熟な魂は「心に従う素晴らしいこと」と混同しがち。
文学などの芸術作品にも、本能に翻弄され堕ちていくことを「精神性の高さ」だと勘違いし誇るものが多くあります。
しかし本能と精神性は全く逆方向のものなのです。

確かに恋愛など本能と区別しがたい感情もあるでしょうが…

他者を蹴落としたり殺したりしてまでも自分一人が勝ち残りたいという欲望が、本能。すなわち肉体に属するもの。
結果に関わらず感じ・抱き続け燃え続けるのが、感情。すなわち精神に属するもの。

――などと私は区別しています。
あくまでも過去世記憶を幾つか持つ私の考えです。

【当記事の話をまとめたイメージ図】


我欲は地獄への道、自分を突き動かす心(魂の意思)に従え


肉体は魂の乗り物に過ぎないとすれば、その肉体に属する「本能」に溺れてしまうといつまでも肉体に囚われ、地上の学習つまり輪廻転生から卒業できなくなってしまうでしょう。

さらに地上で肉体の欲望に溺れ続け、虐殺などの快楽に手を染めればネガティブなカルマも抱え込み、“地獄”という精神次元に堕ちていくことにもなります。
だから私は私利私欲に囚われて貪るべきではない、と述べています。

逆に「心に従うべき」と言うのは、精神・魂の願いに耳を傾けるべきということ。道しるべとなるのは純粋な精神に属する“想い(感情)”です。

感情を悪者扱いしないでください。感情を抹殺しようとしているカルト思想が地上へ出現させた地獄こそ、かの国々の悲惨な現実
地獄に堕ちたくなければ、心を信じましょう。魂発信の想いに生きましょう。

当ブログのスピリチュアル用語について、基本


最後に立場を明確にしておきますと、私は主に自分の体験を語っている者です。

誰か教祖に師事してその言葉を代弁しているのではないし、もちろん何かの団体に属して教義を布教する者でもありません。

また、何かのスピリチュアル本、たとえばシルバー・バーチやニュートン氏の本を信じて紹介するためのブログを運営しているわけでもありません。

ただ自分の体験に関わる手がかりとして読んだスピリチュアル本をご紹介することはあります。
このため、私がその本の著者の完全なる信者だと勘違いされることも時々あるようです。

たとえばこちらが典型でした…
筆者のことを完全なる「ニュートン氏」の信者だと思われ、筆者の意見がニュートン氏と完全に同一であると思われてしまった。
(引き合いに出してすみません。好例だったので)

【運命論まとめ】 「幸せ」って何ですか? 因果応報、カルマの受け取りも自分で選んだ道

一応、私は自分の意見と違うところは「違う」と書いていたつもりなのですが…分かりづらかったか。
それにしても本を紹介した場合、自分が述べていないことまで、「ニュートンがこう言っているからお前も同じに違いない」と決めつけられるのは少々恐ろしさを感じます。そのように思われてしまうなら何の本からも引用できなくなってしまう。

私が何かの本を紹介したからと言って、一から十まで信じ切って賛同していると思わないようにしてください。
好印象を抱いた本であっても、賛同するところもあれば違う意見の部分もある。本来これが当たり前です。

一から十まで聖書を信じるのは「宗教」信者の態度でしょう。〇〇主義者とも言いますね。

私は死ぬまで他者の考えに染まりきった〇〇主義者にはならない(他者の話を参考にするけれども無考えの信者には絶対ならない)という自信があります。
いや、死んだ後も永遠にかな。
 
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感情の密度が濃い作家は魂年齢が高いのか【返信】

 いただいたメールへの返信です。
11/16に受信したK様のメールより引用:

こんにちは
魂年齢のこと
とてもささったのですが
やはり
魂年齢というのは存在しますか?

感情の密度が濃い小説家とか
漫画家は魂年齢が高いのでしょうか?

こんにちは、ご来訪ありがとうございます。

「魂年齢」についての記事とは、たとえばこちらなどでしょうか?

サビアンシンボルと魂の年齢

霊格、「魂の年齢」を知るための詳しい話

主に書籍や匿名掲示板の書き込み引用ですが、私自身も魂の年齢というものはあると感じています。

古い魂だからといって全員が善い方向へ成長しているわけではないですがね。なかには悪事を重ね、悪い方へ向かい「魔王」のようになってしまう魂もいる。
でもたいていは色々な経験をしていますので、“人格”に相当する“魂の格”が成長し、完成に近づいてくるのではないでしょうか。

なお私も「過去世記憶」の多さを考えればたぶん古いほうの魂なのでしょうが、成長しきれていないと感じます。まだまだ悩み多き成人期でしょうね。


>感情の密度が濃い小説家とか漫画家は魂年齢が高いのでしょうか?

作家の場合は、たぶんそうだと思います。

本人が現実で感情豊かとは限らないのですが、過去にたくさんの人生を経験してきているので様々な感情について「予め知っている」ような感覚を持っているのでしょう。
それで感度が高くなり、密度の濃い表現ができるようになるのかと。

ただしそのような方の感情表現には、一種の“透明感”と言うか次元の高さを感じます。
たとえドロドロした現実を描写していても、泥のなかで咲く蓮のように孤高の美しさがある。それと真っ直ぐに空を目指すかのような、真理を忘れずに追い求める「青い闘志」を感じます。
(表現が独特ですみません。“青い闘志”とは、青く燃える炎というイメージ。永く続く消えない情熱のことを私はこう呼んでいます)

このように述べながら私が思い浮かべているのは、やはりゲーテやヘッセなどあの時代の芸術家たちなのですが。
現代では誰でしょうね…?

間違いやすいのは、ドロドロした本能に取り込まれて堕ちていく表現も「濃密」と感じやすいことです。
そのような作品も芸術ですから私は嫌いではないのですが、「魂年齢」という観点から言えば若いほうだと考えられます。
魂年齢が若いほど肉体的な欲望、本能に溺れやすく、感情の渦に取り込まれてしまいがちだからです。

魂が老いていけば肉体へのこだわりが薄れて本能が減っていきます。
感情が摩耗する人間の“老い”とは逆で、精神性が高まり鋭敏になるようです。
そのような芸術家たちが表現する世界は、泥沼を潜り抜けて光を見い出すような作品になるのではと思います。

……なんだか自分の世界に入って感性で語ってしまいましたが。
このような答えで回答になっていますかどうか。
しかし久しぶりに小説など芸術の話ができて嬉しかったです。私自身、癒されました。
良いご質問をありがとうございます。

*「感情」「本能」用語定義は次記事へ>>感情は魂に属し、霊界にも来世にも持ち越される。「感情」と「肉体本能」は異なるもの


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禅病・魔境落ちとは? 瞑想で陥る疾患、スピリチュアル好きの方は要注意

 


 一昨日、YODの記事(別館)にて
「誕生時での天才は単に過去生で努力したというだけの凡人です」
「才能がないと始めから諦めないで努力すればいい」
との話を再掲しました。
これは当ブログでもいつも書いてきたことですね。

上から目線で言うほど私自身が天才ではないので説得力がないのですが(笑)、生きている間の行為の何もかもが積み重なっていくというのは本当のことです。
だから、魂としてステップアップしたいなら“良い行いをする”こと。才能を身に付けたいなら、生きている間に努力すれば良いのだと言えます。すごく当たり前のことですが。

ただその「努力」を誤ってしまう人は、けっこう多いと思います。

誤った努力とは、たとえば瞑想だけをがんばってしまうことです。
私は昔から瞑想は必要ないと思ってきたのですが、スピリチュアルのジャンルでは「魂のステップアップ(次元上昇)をするために瞑想しなさい」とよく言われますね。
「引き寄せ」セミナーでも願望をかなえるための最も良い方法が瞑想(ワーク)だと言われ、瞑想に励むように言われると思います。

また最近ではビジネス界でマインド・フルネスというリラクゼーション法も流行っています。
これはスティーブ・ジョブズなどの著名人が実践していた欧米流の瞑想法。
「ストレスを軽減し、脳のパフォーマンスを上げてビジネスに貢献する」とのことで、科学の薫りがするエクササイズ的なイメージから多くの人が気軽に実践しています。
特にコロナ禍での自粛生活中、YouTubeを見ながらマインド・フルネスをする人が増えて爆発的に流行したらしい。

ところがそのような瞑想は「悟り」を得るにはもちろん、創造性や記憶力を高めることに全く貢献しない(逆効果)だけではなく、最近では病のもとだとして危険性が囁かれるようになりました。
瞑想人口が増えるにつれて「瞑想で精神病になった」との書き込みがネットのあちこちに見られるようになっています。

え??
瞑想で病気になる!?


心身ともに健康になる目的でやっているはずの瞑想で病気になるとは。
ちょっと意外な話なのですが、どうやらただの噂ではないようです。

当ブログ運営者は医学の専門ではありませんが、スピリチュアルに興味を持つ人が訪れることが多い場所ですので、注意を呼び掛けるために調べてみることにしました。

※当記事内の医学的な話は一般人による個人的な所感です。ここに書いた症状がある方は後日必ず、専門の病院を受診してください。


瞑想で陥る病の名は「禅病」


瞑想で惹き起こされる病とは、その名を「禅病(ぜんびょう)」といいます。昔から禅僧の間では知られていた症状だったようです。

日本のネットでの俗語としては「魔境落ち」「偏差」とも呼ばれます。欧米では「クンダリニー症候群」。
どれも同じように瞑想を行ったことで発症する病のことを指します。

仏教の瞑想、インドでの瞑想、スピリチュアルの引き寄せワーク、マインドフルネス…等々
その全てで報告されている症状です。

「スピリチュアルにはまる人だけが罹る病気」と思って馬鹿にしている人たちが、「マインドフルネスは科学だから安心」「私は科学を信じてるから大丈夫」と過信することによって“魔境落ち”している例も散見されますね。
科学の看板を信頼しがちな方は、危険性を軽視しやすいので特に注意が必要と思います。

一般には瞑想を頑張り過ぎること、長時間行い過ぎることで発症することが多いようですが、人によってはわずかな時間でも発症することがあるようですので気を付けてください。

では、「禅病」とは実際どのような症状なのか次項で見ていきましょう。



「禅病」の具体的症状


その昔、禅僧の白隠が陥った「禅病」の症状は文献に残っています。
下記のサイトから訳文のみ引用させていただきます。(原文を知りたい方は引用元URLへ)

『夜船閑話』 訳文:https://uchicomi.com/uchicomi-times/category/lifestyle/main/14418/より。数字は当ブログ筆者による加筆:
禅の修行を始めるにあたり、こう誓った。

「悟りを求めるために、勇猛心を発憤し、絶対に退かない」

かくて、ひたすら修行に精勤し刻苦勉励すること足かけ三年にして、一夜、悟りの境地に至った。これまで抱いていたいくつもの疑惑はその根底から氷解し、輪廻転生の初めからつきまとっていた業もまた完全に消え去った。

そして、こう思った。「究極の悟りの境地も、もうすぐだ。昔から何十年もかかるといわれてきたが、自分の場合はそうではなさそうだ」。嬉しくて嬉しくて、文字どおり狂喜乱舞の状態だった。

ところが、数カ月して、冷静に自分の状態をかえりみると、坐禅の動と静とがまったく合っていないことに気付いた。両極を行きつ戻りつするばかりで、そこからどうしても抜け出せない。〔1〕

そこで、こう思った。「なおいっそうの精進が必要だ。命がけで修行しなければならない」というので、歯を食いしばり、両眼をカッと見開き、寝ない、食べないで、頑張った。



一カ月もしないうちに、心臓はどきどきしっぱなし〔2〕、呼吸が苦しくなり〔3〕、下半身は氷に使っているように冷え〔4〕、谷の激しい流れのすぐそばにいるみたいな轟音が耳に響きっぱなしになり〔5〕、内臓は不調になり〔6〕、なにかにつけてひどく不安や恐怖にとらわれ〔7〕、心も体も疲労困憊し、寝ようとすれば悪い夢ばかり見る〔8〕。両脇はいつも汗をかきっぱなし〔4〕〔9〕、両眼はつねに涙で濡れている。
白隠の症状をまとめると、

1 双極的な精神症状(躁と鬱を行ったり来たり)
2 動悸
3 息切れ
4 体温調節機能障害
5 幻聴
6 (推測)胃腸障害
7 パニック障害
8 睡眠障害
9 発汗異常


等となりますか。
一部、現代医学での正確な病名が分からず一般語にしました。

他に現代人で「スピワーク」や「マインドフルネス」の体験者から報告されている症状は、白隠との重複を除けば

・身体の震え
・発熱、頭痛
・吐き気
・腹痛
・下痢
・めまい


等々が挙げられます。

これらの症状が起きても我慢して瞑想を続けていると、幻覚や幻聴が激しくなっていき統合失調症のような精神疾患を起こすことがあるといいます。
たとえばこちらの方などは精神疾患で入院、障碍者認定手前まで行かれたそう。

https://ameblo.jp/miroqmicro/entry-12658927731.html より引用:
えー
わたくし、表題のとおり

禅病&魔境落ち経験者です!

経緯や詳細は伏せますが、
引き寄せこじらせて、精神病んで入院した過去があります。
(障害者認定の一歩手前までいきましたw ※医師の許可を得た上で、通院投薬ともに卒業済みです)
(そして、そこからまた自分に7桁以上課金して学んでるっていうんだからw←すごい執着よね)


うーん……。想像以上に深刻ですね。
精神疾患だけではなく7桁以上の課金とか、とても心配です。
「引き寄せ」好きの方は中毒し過ぎないよう本当に注意してください。



医学的な推察をしているサイトを見つけるのが難しい


さてこの「禅病」。
どう見ても身体症状――脳神経が起こしている肉体現象なのですが、いろいろ検索してみても医師が医学的な立場から言及しているサイトが少ないのが現状です。

ヒーラーや気功師などを専業とされている方々が
「気が頭に上っている状態だから下げなさい」
「オーラが過熱している状態だから冷やしなさい」
等々とスピリチュアル的な解釈で説明しているのみ。
または病名のもとになった禅宗の僧侶の方が、禅宗における伝統的な治療法を説かれています。

もちろんそれら多くの人たちを救ってきた伝統的な方法は薬物よりも有効だと思うのですが(たぶん経験で編み出された不調を治す手法なのです)、その前にどういった身体メカニズムで病気になるのか知りたいものですね。



禅病の正体は、「自律神経失調症」だと思う


私が一般人ながら常識的な知識をもって考えますと、「禅病」の症状は
自律神経失調症 
と考えて良いのではないでしょうか。

推測するに体内でこんな感じのことが起きています…

どちらかと言えば緊張型の人、常にストレスを感じている=交感神経がオンの人が瞑想をすることで、副交感神経へ無理やりスイッチを入れる。すると一時的にリラックスを得られる。
しかし瞑想をやめるとすぐ元の状態に戻るので、何度も瞑想を繰り返さなければならない。(瞑想の依存症となる)
交感神経 ⇔ 副交感神経
この二つのスイッチの切り替えが毎日激しく行われることで自律神経コントロールが利かなくなってしまう。自律神経失調症の発症です。

この時点で白隠の双極性障害のような状態、
「躁と鬱をジェットコースターのように行ったり来たり」
が説明できますし、多くの人が経験する頭痛・発熱・ほてり・冷汗・めまい・胃腸障害などの症状も説明できます。

さらに白隠など頑張り過ぎてしまうタイプの人は不調を自覚してからも瞑想を続けるので症状が悪化し、自律神経失調症からパニック障害へ移行していくようです。

パニック障害へ移行するとさらに動悸・呼吸障害・耳鳴り等が激しくなり、理由不明の恐怖感に苛まれて睡眠障害を起こします。
白隠の文献にある症状とほぼ重なりますね。

病院のサイト参考↓

【外部リンク】自律神経失調症とパニック障害

「禅病とは統合失調症のことである」とネットに書かれているのですが、それは勘違いかと。
統合失調症と自律神経失調症は似ているようですが症状は違い、原因も別々なのです。

統合失調症と自律神経失調症の違いより引用:
間違えないような対策とは

個人的な偏見ではありますが、統合失調症と自律神経失調症は似ていると感じられます。わたしは結果的に統合失調症と診断されましたが、それまではずっと自律神経失調症だと思い込んでいました。しかし症状的には身体においての影響はあまりなく精神的な負担がかなり多かったです。決定的な違いとはそこに隠れているのではないかと思われます。確かに精神的にはイライラ、落ち込み、不安感、無気力などの症状はまったく似ています。身体の症状などは全くなく、自律神経失調症とはあてはまらないぐらいでした。

ただし実際、この二つは併発することが多いといいます。
おそらく、パニック障害で睡眠がとれずにいるうちに脳へ負荷がかかり、統合失調症も併発してしまうのではないか…? と思います。



インスピレーションは統合失調症? 病気をなめないほうが


前項の話でお分かりの通り、禅病で統合失調症まで発症するのは相当に「がんばり過ぎた」ケース。
生半可な人はおそらく、統合失調症までたどり着くことはできないでしょう。
その前に身体の不調で入院するなどして、ストップせざるを得ないと思います。

ただそれでも瞑想で“お告げ”を聴いたり“仏”や“神”を見る人が多いのは、おそらく単に意識が半分眠っているために夢を見ているのと似た状態になっているだけです。

寝起きに金縛りにあったり、寝ぼけたことを言ったりするときの“半覚醒”状態。
つまり正常な脳活動の範囲です。
夢の全てが統合失調症の症状ではないのですよ(笑)。ご安心を。

幼稚園児ではないのだから、よく知りもしない病気のレッテルを他人に貼りまくるのはやめましょう。
ちょっと白昼夢を見たことがあるだけの人の全てに統合失調症の認定をしていたら、現実にその疾患をお持ちの方々に「なめるな!」と怒られると思います。そんなに生易しい病気ではないはずです。

【筆者の健康状態について】 念のため。筆者にも自律神経失調風の症状がありますが、これは生まれつきの副交感神経優位性質によるもので、瞑想などによる弊害ではありません(記事末の関連記事参照)。病院での検査の結果はこちら



無理に神秘体験する必要はない


この項目は少しスピリチュアル体験者側の立場から書きます。

体験者としてきっぱり言えばスピリチュアル的なインスピレーションというものは、たしかに存在すると思います。
死後世界との交流やメッセージも現実にあるでしょう。(死後世界は次元が違うので“現実”という言葉を使うのは難しいですが)

“半覚醒”の状態のときには潜在意識が活発となるため、実際に異次元からのインスピレーションを授かりやすくなるはずです。
お告げのように降ってくるアイディアは、ほとんどが脳の記憶整理から生まれる発想なのですが、なかには「ガイド」という高級霊サポーターからのアドバイスであることもあるでしょう。
睡眠時や半覚醒状態のときに死後世界と地上を行き来するツワモノもいますね。ユングなどが有名。

具体的に幻覚と神秘インスピレーションの違いを述べると――

仏や神の像が目の前にありありと浮かび、輝く光に取り込まれそうになるなど、誇大なインスピレーションは精神のバグ(幻覚)。ちょっと危険です。
耳のすぐ傍で囁いたり、怒鳴ったりする声などが聞こえた場合はそれこそ統合失調症の可能性がありますので注意してください。

それ以外で、たとえば遠くから伝わるアドバイス的なメッセージ(音ではない)が「ガイド」などからのサポートと思われます。
これはリアリティがあるか、現実の裏付けがあるか、正しい方向・良い方向へ導いてくれているか等を判断基準としてください。
多くの人は「霊なんか存在しない! そんなアドバイスも幻聴だ!」と言うでしょうが、現実の裏付けがあれば自分では否定しづらいと思います。他人を信じさせるために得るインスピレーションではないのですから自分一人で納得してください。

真実はどうあれ、現実に健全な生活ができるよう導かれたなら、たとえ幻想でも良い幻想だと言えるでしょう。

さて、古来、このような神秘体験を求めて人々は瞑想してきたのだと思います。
現にこういう話をすれば、「やっぱり自分もスピリチュアル体験したい!!」と言って瞑想に走る人もいそうです。

でも私は体験者だからこそ言えます。
スピリチュアル体験に瞑想は必要ない、と。

まして、次元上昇のための「解脱(輪廻転生からの卒業)」は瞑想と一切関係ありません。
卒業条件としてのカルマ解消は、現実現世を生きることでしか成し得ないからです。
白隠のように瞑想して「たちどころにカルマが解消した」ということはあり得ませんし、もしそのような感覚を掴んだとしても気のせいです。
(魂にはもともと罪はない、という真理を知覚することはありますがね。それと自分のカルマが消えるのとは別です。カルマは同エネルギーでの行いでしか清算できないのです。カルマの閉じ方参照)

【関連記事】 生きるに優る修行なし

私があえてスピリチュアルの体験者側からこのような話をするのは、「無理に神秘体験を求める必要はない」と言うためです。
ガイドさんはあなたがアドバイスを聴こうと聴くまいと常にサポートしています。だから瞑想でガイドの声を聴く必要はありません。
それに必要なら、無理やりに睡眠時の夢に割り込んででも“お告げ”を聴かせてきます。

わざわざ自分から神秘体験を求めて瞑想しても、言うべきことがなければガイドさんは何も声をかけてくれません。そのように無理をしたときに話しかけてくるのは、それこそ日本で「狐狗狸(こっくり)」と呼ばれる低級霊だけでしょう。



「悟り」を得たいなら瞑想より、現世を生きること!


まとめ。

どうやら、瞑想とは
自律神経へ人工的に手を加える行為
のようですね。

自然に動くシステムに浅知恵で手を加えれば、システムそのものが崩壊する。
あたかも「神の見えざる手」を奪い、計画経済という浅知恵で人々を飢え死にさせ、国家を滅ぼしたあの悪魔たちのように。

大いなる自然の摂理は人間の浅知恵でコントロールしきれるものではありません。
だから欲張り過ぎてはいけません。

不調を補うための少しの管理なら良いでしょう。
ストレスで緊張状態にある人は呼吸法を少し行うことで、一時的にリラックスを得られると思います。そのような休憩をとることはたぶん健康に良いこと。

でも瞑想に中毒するのは危険だと分かりましたね。
たぶん、たまに観光でお寺へ行って座禅を組むくらいの息抜きがちょうどいいのだと思います。

特に日ごろ副交感神経優位な人には瞑想は全く必要ありません。もう既に他人が瞑想で得ようとしている精神状態にある人なので。笑
むしろ瞑想をすることで副交感神経がさらに優位となってしまい、危険な状態に陥るのではないか?と想像します。
たぶんアレルギーや片頭痛、鬱の傾向が増すでしょうね。
(というわけで、副交感神経優位の私は絶対にやってはダメだと思いました)

副交感神経優位タイプの人は、瞑想ではなく真逆のアグレッシブになれる趣味が必要のようです。…と分かっていながらなかなか私は見つけられずにいますが。

【参考】自律神経のタイプを四分類! バランスチェックやってみた

なお、いわゆる「悟り」を得るために瞑想をするのは最もお奨めしません。
繰り返しますが、輪廻転生を卒業する唯一の方法は「生きてカルマを解消すること」です。
つまり、ただ地上の現実を生きること。

何度も言っていますが、修行とは「目の前のことに一所懸命に取り組む」だけで充分。充分過ぎるほどです。

 

 

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