【補足】『パンズ・ラビリンス』に別視点からのレビュー

 先日書いた『パンズ・ラビリンス』のレビュー。
 →『パンズ・ラビリンス』考察~かつて救済だった悪魔崇拝

ラストの展開について、私は少々理解不足だったところがあります。
そんな私とは別視点からのレビューをいただいたので、補足としてここに掲載させていただきます。N様、引用ご快諾いただきありがとうございました。
(引用とともに筆者の返信もこの記事で書きます)

精神防衛を果たしたオフェリア

枠で囲まれている文は、4/8 N様のメールより引用。『』で括られているのは上記事より筆者の言葉の転載です。
※映画をまだ観ていない方へ、ネタバレありますのでご注意ください
『「パンズ・ラビリンス」には私がブログで表現していることと共通の考えがある、と言っていただきましたが鋭いご指摘です。
ある意味では正解。私は多神教の世界をずっと表現してきているからです。
と言うより、私は体験を書いているだけなんですがね。生まれ変わりなどの実体験から導き出される思想が多神教に属すというだけ。つまり多神教が宇宙の真実。だから、ギリシャ神話へのリスペクトがあるこの映画の一部に、私のブログにも共通した思想を感じ取られたのではと思います。』

いえ、それは少し違います。
多神教の世界、確かにそういうことなのかもしれません。自分も根っからの多神教人間。
でも、自分はギリシャ神話との繋がりなんてさっぱり気づきませんでした!
なんとなく「このパンってのは悪魔っぽいなー」ぐらいに感じましたけど。
以前見た時に調べたパンのモチーフが、どこ神話のなんだかも、忘れていましたし。

最初のメールを、書く時思っていたのは、もっとぼんやりしたことでした。

いうならば…
『精神防衛』です。まさに!

オフェリアはそれができたと思いませんか?

地下の王国に迎えられたオフェリアは、「パンの囁き」に乗せられて弟を渡さなかったことを讃えられます。
悲惨な現実に追われた無垢な少女はそれでも、弟の血を流すくらいなら王国行きの権利を手放すと言ったんです。

そうでした……。
オフェリアは弟を差し出しませんでしたね。自分の利益のために家族の血を犠牲にしようとしなかった。
このことで、彼女は悪魔崇拝(現代の意味の。家族さえ犠牲にする)へ転げ落ちることなく人間の世界に踏みとどまりました。

それによって肉体の命は失ってしまいますが、魂は純粋なまま保たれます。
ここが、この映画の美しさであり最も感動するところですね。

にも関わらず私がそんなラストをスルーしてしまったのは、「悪魔崇拝」などの知識が先に立って警戒心の色眼鏡で見てしまったからと言えます。申し訳ないです。

あと、正直に言うとその後の場面で納得できなかったのです。
結局彼女はパンのいる地下へ行ったのか? あれは詐欺師だと気付いたはずでは? と。
ここで監督の意図に悩んでしまった。

個人的にはパンも地下の王様や王女もいない、“本物”の両親に迎えられる場面が見られたら気持ち良く納得できたかなと思います。
たとえば『鬼滅の刃』で斬られた鬼たちが経験するように、人間だった時のお父さんお母さんに迎えられて抱きしめられるとか。
そのほうが、王国行きの権利を放棄したオフェリアがほんとうに報われることになり、物語上も矛盾がなくなりますが… 場面としてそれを描くとチープとなり芸術作品と呼ばれることもなかったのでしょう。
欧州的な、地下・悪魔の世界こそが救いなのだという教義のもとで描かれた映画なのでこの結末しか無かったのかなと。
(この辺りはごめんなさい、知識に影響された独り言です)

でも、オフェリアの精神が最後まで純粋なまま守られたことは確かです。

>いうならば…
>『精神防衛』です。まさに!
>オフェリアはそれができたと思いませんか?

はい、なるほど……。
仰る通りです。

オフェリアは弟を心待ちにしていた

引用続けます。(長い引用ですがせっかくの解釈がもったいなくてカットできませんでした)
『心理分析』のレビュー。
(リンクありがとうございました!自分はあまり、人のレビューを読まないので。)
心理学的には、抑圧された子供心の暗喩として読み解けるのですね。
長子の寂しさ…。わかる気がします。

でも一方で、オフェリアは弟を心待ちにしてもいた、と思います。
母親の暖かいひざを奪った弟を、王国行きの権利を棄ててまで守ったんですから!
危機に瀕した時、極限状態での行動は本心がよく現れるのではないですか。
それにお腹の弟にお伽話を聞かせてるオフェリアは幸せそうだった。

ラストシーンで、王座の母は赤子を抱いているように見えます。
出産の時亡くなったのは母だけで、赤子は生きているのに!
オフェリアの願望だからじゃないでしょうか、地下に広がる王国と同じような夢。
母と弟と自分。お伽話のような無垢な夢です。
彼女の夢は結局、王座でふんぞりかえることでも、母親を独り占めすることでもなかった。

そこまでが、オフェリアの『精神』でした。
“王国の姫物語”という思想は、つまるところ彼女を幻惑出来なかったんです。
な、なるほど……。
死後世界もオフェリアの精神(願望)で、地下の母は本物のお母さんだということですね。
地下の王女が赤子を抱いていることには気付きませんでした。そうかもしれない。
だとすれば、オフェリアは人間の両親に迎えられたことになりますね。あくまでも彼女の想像の中でですが、それは純粋に守られた精神のなかでの想像だと。

心理分析する人たちも、私も、オフェリアをうがった目で観てしまったかもしれません。
オフェリアは確かに弟の誕生を心待ちにしていました。優しくて純粋な子です。
地下で君臨して暮らす利益に惑わされることはありませんでしたね。

心を明け渡さなかった

引用続きます。
(一見して)救済の、正義の思想。
小さな少女には“地下の王国”が、それでした。

でも人も、言葉も、“思想”も、みんな空っぽの器のようなもの。
器の色と、中に満ちるものの質は違う。
器の美しさに騙されて、よくないものに中毒していく人々。
それとわかって貪る人々もいますね。

オフェリアはちゃんと中身に気づいた。
明け渡してはいけないところはちゃんと守った。
そう感じたんです。なので、私はオフェリアが哀れとは思いませんでした。

オフェリアは地下の王国に迎えられることはなかった。
銃声と入れ替わり、“王国の使い”は霞のように消えました。
それでも、メルセデスの子守唄が聞こえた時、オフェリアの子供心は、満足だったんじゃないでしょうか。

ラストシーン。
満月が、子守唄を歌うメルセデスの肩越しに見えていました。
銃弾の痛みも薄れていく中でオフェリアの心にあったのは、かび臭い地下の王国なんかじゃなくて月明かりと子守唄だった。

性的虐待も虐殺も現実なら、死後もまた現実ですよね。
王国に迎えられている描写がありますが、単にオフェリアが死後、安らぎに迎えられたということなのかな…と。
魂の旅は長い、といいますよね。
まだ幼い彼女はひとまず、自分で守りきった心に帰った。
そういう『精神防衛』の寓話だと私は考えたんです。
深い解釈ありがとうございます……感動しました。

「明け渡さなかった」は本当にその通りだと思います。
真実を明け渡さない強さ。たとえ命を失おうとも精神は渡さない。

「月明りと子守唄」は人間性、私がこの映画の結末として願ったものでしょうか。
その解釈で観たなら、映画のラストに感じた“腑に落ちない”感じが吹き飛びますね。

最後に、筆者が書いていることについて

引用最後です。
吉野さんの表現していることと似て感じられたんだと思います。
世界の暗部を認めつつ、あくまで自分の心を明け渡さないこと。

吉野さんは私の『精神防衛術』の兄弟子というわけです。笑
勝手にそんなふうに思っていたので。

『進撃の巨人』
途中まで面白く見てました。
でもモヤモヤするようになって、駄目になりました。
この流れで言うならば、「進撃の巨人」は
「誰も彼も、残酷な現実から精神を守れない」
そう言う作品のように感じて。
(まだ最後まで見てないのでアレですけど)

そうした人ばかりで。
そんな中『精神防衛』を果たしている人を見つけたようで、なんだか安心したんです。
最後に驚き、少し泣かされました。

やっと前回メールの意味が分かった。言葉にしてくださって感謝です。

「兄弟子」と仰ってくださって嬉しく思いました。
ものすごく光栄ですし……勇気をいただきました。今のままで良いのだと。

いい年をして本当に恥ずかしいことに、私はネガティブバイアスが平均より強い人間でして。つい自分に対しても否定的に考えがち。
でも最近は、こうして応援してくださる方の声のほうをちゃんと受け止めなければと思っています。わざわざ言葉にしてくださるのは、とてつもない厚意。本気で受け止めないほうが失礼なのだと感じます。

たいした仕事はできませんが、今の立ち位置のまま思うことを書き続けていこうと思います。ありがとうございました。

検索で来られた方へ

…と、
映画レビューのはずが最後は普通にメールの返信になってしまいましたね。映画タイトルで検索して来られた方には失礼しました。
『パンズ・ラビリンス』は様々な解釈ができる映画。私のレビューも、この方のレビューも一つの観方としてお読みいただければ幸いです。 

 

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