昔の記憶が「第三者視点」であることに気付いた(現世も前世も)
今さら気付いた意外な件です。
人によって記憶の形式は違うらしい! 心底驚く
先日『認知特性テスト』を受けていて、
一番古い記憶の映像をイメージしてください。との質問文に驚いてしまいました。
A.自分の目から見た記憶で、その場に自分はいない
B.その場に自分がいて、客観的に見ている
私の回答は「B」です。
幼い頃の記憶は全て、少し離れたところから自分を眺めている感じになります。
わりと近い記憶でもそうですね。
十年前のことでもパッと思い浮かぶのは、客観的に自分を眺めた映像。意識すれば自分側から見た映像も同時に思い浮かべることができますが、意識しないと無理です。
もちろん写真やビデオを録画していなかった時の記憶でも全てそうなので、録画映像を記憶したわけではありません。
外部に録画した映像の記憶ではない証拠に、自分の顔は曖昧で思い出せないのです。当時着ていた服もはっきり思い出せるわけではなくて、だいたい“その頃に自分がよく着ていた服装”という抽象的なイメージになります。
これは何も特別なことではないと思っていました。
人類全てが同じように記憶を思い出していると思っていたので心底驚いた質問でした。
障害ではないから気に病むことなかれ
ネット検索してみると、同じような記憶タイプの人は少数派のよう。そのため当事者は悩んで
「これは記憶障害ですか? 何かの病気?」
などと質問掲示板に投稿したりしているようです。
【一例】 昔の記憶の半分ほどが第三者視点のものだったのですが、同じような方いらっしゃいませんか?
私も世代的に動画が当たり前の時代ではなく、家も貧乏だったのでビデオ機器は持っていませんでした。だからこの質問者さんと同じように自分の姿を録画される機会などほとんど無かったと言えます。
たぶん記憶障害や、病気などではないと思いますよ……、笑。
こういう投稿には「それは病気。妄想ですよ」などと無知な答えを書き込む人がいるのですが、本気にしないほうが良いでしょう。
おそらくイメージのなかで「俯瞰」の構図を作り上げているだけだと思いますね。
脳というものはけっこう高機能で、コンピュータが自動計算で3D映像を作るように、一方向だけの情報から俯瞰映像を組み立てることができるそうです。
(時々いる「幽体離脱」体験者はこれとは全く別。下からでは絶対に見えない視点を持ち、たとえば知らない部屋の棚の上の物などを正確に言い当てることがありますから脳の計算による作図ではないでしょう)
それで意外にも、このような記憶を持つ人は「三次元立体化」が得意な視覚優位タイプとは限らないらしい。
認知特性テストにて上の質問でBを選ぶと「言語映像」と「言語抽象」に得点が入ります。
つまり、自分の記憶をストーリー的に解釈したり、抽象化することが得意な人がこの「客観記憶」を持ちやすいと言えるようです。
いわゆる昨今話題の「抽象化思考」が得意だったり、文脈を読むのが得意だったりしそう。
【参考(外部サイトです)】思考の抽象化とは?本質を見抜く思考の概念とメリット・デメリット
だから、これって異常? 障害? などとネガティブに考えて怖がらず、強みだと自覚しましょう。お互いに。
余談:
占星術でも私のネイタルでは「俯瞰・鳥瞰」のキーワードがよく出るのですが、最近「抽象化思考」が話題になっているおかげで今さら“これのことかぁ”と気付いています。
上のリンクから引用。
抽象化とは、複数の物事が持つ固有の枠を超えて一般化すること。つまり、一段高いところから事象全体を見渡して共通の要素を取り出し、一つの概念にまとめることを言います。…なるほど、まるで『フェンス上のラブバード』の模範的な解釈文みたいですね。
よって抽象思考の概念は
・物事を大きな概念でまとめて一般化すること
・多くの情報の中から枝葉末節を削ぎ落とし、物事の本質を浮かび上がらせること
となります。
どうやら、私はこの抽象化思考が強いタイプらしい(必ずしも図式化するわけではないが概念としては俯瞰する)。従ってこのデメリットも理解できます。
前世記憶も同じなのだけど…
ここからはスピリチュアルな話。
この「第三者視点」の記憶は、私の場合、現世に限らず前世も全く同じです。
むしろ前世のほうが客観視点は当たり前な気がしますね……。
死後に魂となって人生を振り返った経験があるので。
いわゆる「走馬灯」というものです。それは本当にスクリーンに映る映像のように頭上に大きく映し出されて見えます。
ただしその映像は魂が時空を超え過去の時点に戻っているわけではなく(そういう場合もあるでしょうが)、おそらく自分自身が体験したことを再生しているだけだと思います。
何故そう言えるかというと、私の前世記憶では自分自身の顔がボヤけて曖昧に見えるからです。
私の場合は
「他人が創作したイメージ、フィクションとかで見た映像を自分の記憶と混同しちゃってるだけだろw」
と言われやすいと思いますが、もしそうだとするならお馴染みの姿で見なかったのは何故なのでしょうか。
自分自身の顔が曖昧ではっきり思い出せないことこそが、身体の中で体験した記憶である証なのでは。
しかも、現世の幼い頃とほとんど変わらないトーン・変わらない視点で思い出すということが、自分なりの“本物”の体験記憶だと思えます。
何を“本物の体験”と定義するかは微妙ですが。
少なくとも私にとってあの前世記憶は、現世と変わらない質の体験だと言えます。
前世記憶にセピア色を付けて欲しいとたまに思う
で、
「前世記憶は、現世と変わらない質」
であるからこそ困ることがあるわけです。
さすがに着ている物も違いますし、時代や立場も違いますので場面記憶を取り違えることは今のところ(笑)ありませんが、時間の感覚が狂うことが最近増えました。
つまり現世の幼少期よりも前世人生を思い返す時間のほうが圧倒で増えたため、今の幼い頃より前世晩年のほうを近く感じるようになってしまったということ。以前も書いた通り。
もっと困るのは細かい情報記憶です。たとえば誕生日とか兄弟との年齢差などは取り違えることがあります。生まれた月が同じ、異母兄であるなど状況が似ているからだとは思いますが。
誕生日は病院で間違えて申告したことがあって焦りました…。危うく若年性認知症を疑われるところでした。
兄との年齢差などは微妙なので間違えるのが当たり前となっています。「どっちだっけ?」と少し考えなければ分からなくなってしまった。
最近まずいなと思うのは、今世の幼い頃の姓(家庭の事情で何度か変わりました)より、前世の姓のほうがまるで自分のもののように感じられ反応してしまうこと。
むしろ無防備な時は、現在の「吉野」よりもギクッとしてしまうかもしれない。
この間、牛丼チェーンの『吉野家(よしのや)』が不祥事で話題になったときも何とも思いませんでしたからね。苦笑
ここのところ、現世の名を呼ばれるよりも前世名を見聞きすることが増えたせいでもあります……。
たまに、「前世記憶にはセピア色のフィルターを付けてくれ!」と思うことがあります。せめて記憶に色違いのフィルターがかかっていれば分かりやすいのにと。
続きの話。>>身体の中から再生したリアルな記憶