癒しアニメ『百妖譜』 純な妖怪たちに心洗われる

 嘘つきだらけの世の中に疲れてしまい。
この週末はなるべく世間を見ないようにして、小説やアニメなど物語に触れるようにしていました。

そのなかで究極の癒しを与えてくれるアニメに巡り合いました。

『百妖譜』という掘り出しもの


こちら『百妖譜』。読み方は、日本語読みだと「ひゃくようふ」ですね?

主人公の女の子、桃夭は妖怪の名医である。彼女は妖怪を治療する代わりの条件として、その妖怪と「今後、薬として体の一部が必要な時は無条件で差し出すこと」という契約をする。
2話でひとつの物語が完結する美しい作風の感動アニメ。中国の有名妖怪小説「山海経」に出てくる妖怪が取り上げられている。妖怪の視点から見る人間はーー。(全12話)

私は昨今の異世界転生ものの賑やかなアニメが苦手でして、ちょっと一昔前な(90年代~00年代)和風アニメが観たいなと思って探していました。
タイトルやイラストからてっきり和風と思ってクリックしたこの作品、なんと100%華人制作アニメで驚きました。

華流アニメか。
さすがに観ようかどうしようか迷いましたね。

国ぐるみでの著作権侵害問題やアニメーター引き抜き(人材横取り)、日本漫画界のプロパガンダ利用など、社会的背景を考えると複雑な気持ち。
それと、以前観た華流アニメがいまいちだったこともあり躊躇しました。

しかし一応どんなものか観てみようと思って、再生したところいきなりオープニング曲で魅了され。
最初のストーリー『灰狐』で完全に虜となってしまいました。


参りました……。涙が止まらなかった。

以降、12話まで全てボロ泣き。
(…笑。今回は夜中泣いているのが家族にバレて心配されてしまった)
的確にツボを突いて来られるので抵抗しようがありませんでした。諸手を上げて降参です。


突っ込みと賞賛


たぶんアニメとしての技術はあと一歩なのでしょう。
突っ込みを入れようと思えば色々ありますね。
この設定は『夏目友人帳』のパク…リスペクトではないのか?とか。ギャグ顔が物語の世界観と合っていないよ、とか。キャラの顔は日本アニメを観てコピーしているようだが、様々な作品をごちゃ混ぜに真似たから数人の作家が混在している感じになっちゃってるよとか。

しかし、ストーリーは一級だと思います。
いや、格付けするのもおこがましい。少々次元を超えている。

「昔話」ふうに素朴な設定ではありながらも、まるで本当にその体験をした妖怪たちが語るように、ありありと切ない想いが描写される。
ダイレクトに伝わってくるその想いに心を鷲掴みにされ揺さぶられるので、気付けば涙腺崩壊しています。

“涙腺崩壊”するのは私だけかもしれませんが。笑

妖怪たちの人間に対する想いは純そのもの、妖怪たちを見つめる主人公たちの眼差しも優しい。
物語に泣いた後は心が洗われて満たされている。
そんな究極の癒しアニメだと思います。

(キャラの顔のバラバラ感はともかく)風景描写や音楽も美しさを究め、眺めているだけでも癒されるはず。
それといわゆる“中華モノ”としてイメージする作品世界ではなく、どちらかと言えば和風イメージに近い作品なので※、中華が苦手な人も大丈夫ではないでしょうか。たぶん。

※何故「和風」なのかと言うと古代設定だからです。「中華」として我々がイメージするのは主に清代の服装・建物なのですが、古代の中華文化は日本に近く一見「和風」に見える景色なのです。折り紙、小坊主、妖怪…等々「和」にも見えるモチーフがたくさん。それと、このアニメ自体がかなり日本アニメに影響されているようですから、日本制作?と錯覚するほど違和感は少ないです(←これは本当にどうかと思うが)。

この物語の難を言えば、切なさのツボを深く深く突いて来るところでしょうか。これでもかというくらいに。
つまり、感情描写が「濃厚」ということ。
ほのかに癒されたい人には向いていないかもしれません。
外側をやんわりと描くものが好きな人には日本アニメのほうが向いていると思います。

民族ヘイトなどの偏見を持たない方で、強めな“心の洗濯”を求めている方には『百妖譜』をお奨め致します。



『蟲師』のこと


このアニメの後で日本の『蟲師(むしし)』を観ましたが、これはこれで本当に素晴らしい芸術作品。別の意味で癒されます。

「蟲師」が中華とは違って敵を倒すためではなく、見えないもの(死者と生者の中間)と同居するために存在するというのも日本らしい。

感情も妖怪も蟲も曖昧模糊としていて境界がないのが日本文化か。
だからこそ訳も分からず欧州の悪魔崇拝まで受け入れ、侵されてしまうのでしょうが。
曖昧過ぎて悪しきものに対する免疫が低いのは、日本人の長所でもあり弱点でもあります。


『百妖譜』で癒されたもう一つの理由


最後に、少し世間話も含む感想です。

私が『百妖譜』で癒されたのは、純粋に物語に感動したからだけではありません。

「こういう人道・天道に即した価値観が今もこの世に存在するのか」
という衝撃に打たれ、感動したせいでもあります。

唯物思想とは正反対の情感溢れるストーリーそのものにも感動しましたが、オープニングやエンディング曲の歌詞にも衝撃を受けていました。

たとえば

夜が明ければ その善悪は明らかに
(原文は「等天亮 白黒自明」)

その善悪はすべて明白
(原文も「皆分明善悪」)

などに。

ちょうど前記事で書いた悪魔崇拝の歌を聴いて絶望を覚えていたところだったので、この歌詞に救われる想いがしたわけです。

日本人の多くは
「善悪なんて、正義なんて存在しない!!」
と叫ぶのが大好きです。
善悪否定、もしくは善悪反転の屁理屈を叫んで得意がっている。正義にクエスチョンするのがカッコイイと勘違いしている厨二病のメンヘラばかり。
正義を掲げた虐殺魔を批判するなら妥当ですが、そうではなく自分たちが蛮行するために正義と善を殺したがっているだけです。
これを「悪魔崇拝」と呼ぶ。(現代では)

残念ながらこの国では小説も漫画・アニメも、音楽も全てにおいて悪魔崇拝が浸透しきっていますね。
もはや義は嘲笑され、地獄虫たちが天道や人道を凌辱し卑しい快楽の声を上げているだけ。

そんな日本人ばかりではないことは知っていますが――と言うより私もこの状況を憂えている日本人の一人ですが、この国において悪魔崇拝は圧倒の勢力。

ところが、何故か「悪魔国家」と呼ばれているお隣から光明が差し込んできました。
隣の国家は悪魔思想の党に支配されていますが、意外なことに一般庶民は悪魔崇拝にほとんど侵されていなかったようです。

もしかしたら隣の悪魔思想家たちは国家を支配し、人民を定期的に虐殺しながら恐怖支配しているため安心して、一般庶民を放置してきたのかもしれません。
いっぽう日本は国家体制としては表向き違うので、むしろ必死で小学校からの教育や、アニメ・音楽・テレビ番組などで悪魔思想の洗脳を行わなければならなかったのかも。

とにかくこのような義の心、人間らしい感情を現代まで受け継いでくれた華人に心から感謝したいと思います。

自由に言論できる国ではありませんのでずっとこのまま純粋な作品を作ることはできないと思いますが、今この瞬間の光明を受け取っておきます。

あなた方がいれば、きっと未来の人類は大丈夫だと信じることができました。

 

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うざい?嫌い? SEKAI NO OWARI『Habit』に違和感を覚える理由


 SEKAI NO OWARIの新曲、『Habit』がヒットしているのか各所で耳にします。彼らの暗いほうの曲にしてはめずらしい。

『Habit』に不快を覚える人は多いはず


この『Habit』、楽曲はかっこいいしダンスも面白く、流行るのも分かります。が、なんとなく不気味な感じゆえ不快を覚えている人もいるのではないでしょうか。

〔2023/1/3 追記〕やはり、『Habit』には発売後しばらくして「気持ち悪い」「うざい」「嫌い」といったネガティブな感想がSNSに溢れるようになってきたらしい。NHK紅白歌合戦で『Habit』が歌われた際もネットが荒れたようです。

ファンの方、すみません。批判として書いているのではありませんので念のため。むしろ「不快」は彼らには賞賛として響くのでは。

不気味さのエッセンスを入れるのがSEKAI NO OWARIのコンセプトであり、目指している芸術でしょう。
言ってみれば確信犯的に「メンヘラ厨二病」の旗を掲げているグループだと思いますので、不快と感じる大人が出ることこそ彼らの狙い通りかと思います。

それにしても今回は不気味さの割合が高いように思います。
MVも今までのように視覚的に地獄や悪魔を表現しているわけではなくて、“普通に学校で踊っているだけ”だからなおさらなのでしょうか? 日常の光景と狂気ダンスの不調和がまた、なんとも不気味。

しかし実はこの不気味さの根源は、狂気ダンスでも、歌詞の表面的な言葉でもなく、背景にある「思想構造」にあるはずです。

今回はこの歌詞に含まれる本当の意味と目的――おそらくこの曲を創った彼ら自身も気付いていない、構造そのものが導こうとしている未来を解読してみます。

YotTube公式:


「分類壊せ」で、永遠のモラトリアムへ


まず先に言っておくとこれは決して悪いばかりの曲ではありません。

第一に届けようとしているのは若者へのエールだと思います。

以下のような歌詞に、「支配の軛(くびき)」を断ち切る力強いメッセージを感じて救われる子が多いでしょう。
君たちったら何でもかんでも
分類、区別、ジャンル分けしたがる
ヒトはなぜか分類したがる習性があるとかないとか

隠キャ陽キャ?
君らは分類しないとどうにも落ち着かない
気付かない本能の外側を
覗いていかない? 気分が乗らない?

つまり それは そんな シンプルじゃない
もっと 曖昧で 繊細で 不明瞭なナニか

夢を持てなんて言ってない
そんな無責任になりはしない
ただその習性に喰われないで
そんなHabit(習性)捨てる度 見えてくる君の価値

俺たちだって動物
故に持ち得るOriginarlな習性
自分で自分を分類するなよ
壊して見せろよ そのBad Habit
うん、
「その習性に喰われないで」
「Originarlな習性」
というところ、とても正しいと思うし私も若い頃ならこの言葉を好きになっていたと思います。

特に、「陰キャ?陽キャ?」など他人のレッテルと支配を跳ね除けてオリジナルに生きろと言うメッセージはとても良い。世界中の若者にとって必要なメッセージです。

ただしここまでで止めれば、の話。
その先のメッセージ……「自分で自分を分類するな」
は、唱え続けるのは危険な言葉
です。

他者に押し付けられたレッテルの支配を打ち破るために、ここぞという時だけ叫ぶのは良い。
「限界を自分で決めるな! 可能性を信じろ!!」と言う意味で使うのも良い。ただそれは心の底から湧いてくる夢がある場合に限る。

「自分を分類するな(自分の道を決めるな。モラトリアムで生きろ)」
と唱えるのはできれば人生で一回限り、せめて二回までが限度でしょう。

何故ならこの呪文は何度も唱え過ぎると腐る性質があるからです。
何者にもなりたくない、責任を果たしたくない言い訳として、自分にかける「モラトリアムの呪い」へ変貌するのです。

※モラトリアム:猶予(ゆうよ)のこと。俗語では学生など社会人になるまでの自由時間を指すが、「永遠のモラトリアム」を標ぼうして何者にもならない道を選ぶ人たちもいる。彼らはたいてい、責任を果たしたくないことの言い訳として「分類されたくない」「自分で自分を決めるのは悪だ」などとのたまう。

【参考サイト】モラトリアム人間とは?意味や特徴・モラトリアム人間脱却法を紹介
「モラトリアム人間」という言葉の意味を知っていますか?主に「自分が何者かを見つけられない大人」という意味で使われます。あなたには心当たりがありませんか?ここでは「モラトリアム人間」という言葉の意味や、「モラトリアム人間」からの脱却法を考えていきます。
日本でも1960年代~80年代に永遠のモラトリアムはカッコイイとして、「分類(カテゴライズ)を打ち破れ!」呪文を唱えることが流行した時期がありました。

でも実際、自分で自分を決めることを永遠に拒否し続けたその人たちはどうなったかご存知でしょうか?

たとえば就職するのが嫌なのでフリーターをしながらバックパッカーとなり自由を満喫した若者は、バブル崩壊と高年齢で就けるバイトがなくなってしまいました。
仕事もできず生活手段がなく、家族も家もない彼らはもちろん年金など払っていません。最後には生活保護の世話になるしか選択肢がないでしょう。

若い頃バックパッカーで世界を眺めるのは素敵な経験です。最終的に生活できなくなったとしても、それはそれで自分で「決めた」人生なのだからと納得できるなら立派と思います。
しかし、そもそも「決める」ことを嫌がる人たちなので納得できるはずもなく。
差別されてそうなったわけでもないのに何故か社会を逆恨みし、絶望して犯罪に走る人もいます。
(当たり前ですがそうなっていない元バックパッカー・フリーターもいます。その人たちはどこかの段階で自分で自分の道を決め、納得した人生を送っているわけです)

フリーターたちは実はまだマシなほうで、反抗の破壊活動からスタートした人々はもっと悲惨です。
60歳や70歳になっても未だに世界革命を夢見る反抗期を続けて、テロ活動をやり続けることでしか食えない孤独な老人となるのです。
国家を滅ぼすためという理由で生活保護も不正受給している、本当に保護が必要な人たちを差し置いて。こうなると明白な「寄生虫」と呼べます。
(日本では「赤**」と呼ばれるあの集団です)

いつかは自分で自分を分類し、どの箱を選ぶか決めなければならない時が来ます。
それが「一流企業の社会人」か「フリーランスで生きる自営業者」なのかは、人それぞれ。
他人が良しとする決まりきった価値観に縛られる必要は全くないのですが、自分では選び取ることが絶対必要。
その時を乗り超えなければ、上に書いたような世界を呪い嘘をつき続け他人に危害を加えるだけの、「寄生虫」として余生を送るしかありません。

余談。ヘッセの場合


かつてヘルマン・ヘッセも当時流行していた悪魔崇拝的なモチーフ(『デミアン』)を使い、
自分自身へ生まれ変われ!
と檄を飛ばして世界中の若者を救いました。
一見、セカオワと似たようなメッセージを叫んでいるようですが、似て非なるものであることお分かりですか。

ヘッセは分類を棄てるのではなく、“自分”という存在を選び取るように説いたわけです。そのためには一度死んで生まれ変わるほどの決意が必要、つまり厳しい責任を受け取れと説いています。

この場合はモラトリアムとは正反対で、大人になる道を説いたものです。

押し付けられたレッテル、敷かれたレールに抵抗して新しく生き直すために「分類」を剥がすのはいい。
でも、その後に必ず自分で選び取ったOriginalな道を生きなければなりません。それは大変な孤独と苦しみを伴いますが、そうでなければ人として大人として生きることなど不可能なのです。

選び取った人たちの人生が、
分類された普通の箱で燻ってるやつら

などとバカにされる理由はありません。
イージーモードか何だか知らないがそちらの人生のほうが魅力ありませんね。懸命に泥まみれで生きている人を見下す資格はないでしょう。



『Habit』の背景にある悪魔崇拝の構造が呪詛をかける


この通り『Habit』のメッセージはレッテルを剥ぎ取る「救い」にも、聴く者をモンスターに変えて地獄へ連れていく「呪い」にもなると言えます。

薬は病気のときに飲むなら命が救われますが、ずっと飲み続けていればジャンキーとなって脳を溶かされ身を亡ぼす。それと同じ。
芸術として愉しむなら良いが、あまり現実に引き入れ唱え続けないように。

どうして彼らの歌にそういう悪魔的な性質があるのかというと、文字通り欧州の「悪魔崇拝」思想を素材としているからでしょう。

『Death Disco』が典型。これは扮装が悪魔そのものだから分かりやすいのでは。


(私はこの歌詞の悪魔崇拝メッセージは受け入れがたいですが、曲はとても好きです。ピアノが主となっているバージョンのほうが良い)

欧州では悪魔崇拝からロックやパンクが生まれポップなものへと変化していきました。
しかしそれを飛び越えて日本人が過去を直接に掘り起こし、イメージとしての「悪魔崇拝」を表現しているのは面白いこと。
ヨーロッパから遠く離れた外国だからこそ、このようなイメージの抽出が可能だったのだと言えます。中華や日本文化も、欧米人のほうが純粋なイメージ表現がうまいことと似ている。

おそらくSEKAI NO OWARIは欧州ファンタジーを描くアニメなどの影響を受けてこういう世界観を作ったのだと思っていましたが、今回『Habit』を聴いて欧州哲学もよく勉強しているのだなと分かりました。
それと同時に、彼らは本気で「悪魔崇拝」サタニズムをやろうとしているグループなのだな、とも確信しました。

どこまで自覚しながらやっているのか?
本人たちの意思なのか、それとも偉い大人たちがコントロールしているのか?
分かりませんが、少々危険を覚えました。

単なるイメージの抽出なら芸術ですから歓迎するけど、これ以上の思想プロパガンダは危険。
もしかしたらすでに何かの団体に取り込まれていたりして。
明確に計算してこの歌詞をプログラムし、洗脳目的でばらまいているなら良くないですね。

『Habit』を構造的に読み解く


具体的にどこが「悪魔崇拝」であり、危険だと言うのか。
言いがかりではない証拠に、歌詞を引用しながら指摘していきましょう。
自分で自分を分類するなよ 壊して見せろよ
分類するなよ →これは上にも書いた通り、永遠のモラトリアムへ誘導する呪詛です。

また、「分類」は思考の基礎でもあります。
単純な二元論で止まってしまうと逆に思考停止となりますが、複雑な分類をすることは思考の足掛かり。論理的な回答を得るためには不可欠と言えます。
そんな分類を禁じるということは、思考を封じる呪詛になります。

原典は19世紀に盛んに叫ばれた、階級破壊・国家破壊でしょう。
神によって分類され支配される羊(奴隷)という箱を壊すことで自由になろうとした。

自由民主を手にする時点で終われば何の問題もなかったのですが、彼らは永遠のモラトリアムを願っていたため安定社会を呪い、革命をやめることはありませんでした。
当然ながら誰も何者かになりたがらないので、生産性のある仕事が行われることはありません。彼らにできることと言えば、破壊と殺人、盗むことだけ。
こうして「地獄の虫」や「寄生虫」となり、世界を荒らすようになります。

マルクスやニーチェたち、近代欧州で流行した悪魔崇拝の信者たちが願った「地上での地獄の実現」を招くのが、この永劫モラトリアム回帰※です。

※筆者の造語です。ニーチェ「永劫回帰」より

俺たちだって動物
こーゆーのって好物
俺たちだって動物 →ここは現実的な意味での「人間は動物の一部」という分類なのではなく、魂を否定する純粋な肉体優先としての「唯物論」の刷り込みです。

これもニーチェ思想ですね。
「唯心論」への反逆として、我々は肉体だけで動いている機械的動物なのだと説く。

心も魂も存在しないと説いているのですから、この思想を貫けばいずれ感情は否定され、愛なども禁止されることになります。

唯物論者にとっては心を動かして泣くことなどあり得ない現象です。
だから愛や感情などを持つことはバグ、異常分子なので殺処分せねばと考えます。

事実かの国で、子供が親を殺して内臓を引きずり出して食べることを強要されたことがあります。
家族の肉が食べられなかった人、愛する家族を失って泣いた人たちは死刑となっています。(実話です。⇒閲覧注意

これが
「俺たちって動物」
と唱え続ける者たちが招く世界です。

大人の俺が言っちゃいけない事言っちゃうけど
説教するってぶっちゃけ快楽

その後なんか俺興味ないわけ
大人の話は全部くだらない説教。大人の話を聴くな →世代間の分断を目的とする呪詛です。情報伝達を断ち、歴史継承・文化継承を断ち、若者を洗脳して奴隷支配しやすくするための呪詛。

まあ、この歌詞は前向きに読めば
「若者よ。大人の言うなりになるな」
という意味にも捉えられます。でもそれは表面的に読んだときだけです。

この呪詛の正体も19世紀、悪魔崇拝から発祥した反哲学が原典。
世代間を分断すれば、文化が継承されることがなくなり伝統文化は永遠に滅びます。賢さを養い、カルト思想から脳を保護してくれる文化という免疫が破壊されるので、若者は洗脳されやすくなり奴隷に身を落とすことになります。

「説教するってぶっちゃけ快楽」
とか、最低ですね。
そんな大人ばかりではありませんよ。
そういう最低上司がいることも事実ですが全員そうであるはずがない。

ちなみに…
私が説教するときがあるとすれば、それは快楽のためではありません。
そもそも自分の場合、年下だろうと年上だろうと、「言わねばならない」と思うことを言っているだけなので説教のつもりもないですけどね。酒の肴にするシチュエーションとは無縁。
言う時は最終手段。言わなければ相手が身を滅ぼす(または他人が激しく迷惑する)と考えられる時だけ。
だから、意見を言うときは激しい精神的負担を伴うのだけど、そういう気持ちは現代人には一切理解されないようです。内容で判断することもなく、ただ「上から目線で意見された!」「説教された、許せない!!」と脊髄反射で怨みを持つだけの人が多いらしい。
現代人の多くが、深瀬氏の侵されている思想と同じものに侵されているのだなと分かります。

私自身、若い頃に自分の将来を真剣に考えてくれた教師たちの説教に救われた経験を持ちます。
あの年上の人たちがいるから、私は今ここに生きています。
そういう経験を持たずに年上の話を完全無視している人たちは気の毒だなと思いますね。

憂慮


『Habit』の呪詛をこれだけ歓迎している人が多い現状を見ると、今後ますますこの悪魔崇拝思想は浸透していくでしょう。
モラトリアムな寄生虫や、サイコパスなメンヘラがさらに増えそうです。


〔当ブログ内関連記事〕
「自分探しの旅」追記
「分をわきまえる」という言葉の本当の意味。自分さえ見失った現代人の不幸

【歴史別館】歴史が得意な方向けの話です。
当記事に書いた「呪詛」を唱え続け、人間らしい感情を棄てた者の実例がこちら。彼ら彼女らは本気で『出師表』の文を「口出しをさせないための策略」「泣いたという文末はただの挨拶文」だと思っています。
 ⇒この人たちが『出師表』の歪んだ解釈を声高に叫ぶ理由



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策士ではなく“ナイチンゲール”だったらしい【エゴグラム詳細】

 前に上げた性格診断の記事、『ディグラム(エゴグラム)診断』について私自身の誤解があったようなので改稿しておきました。

⇒ディグラム診断 「先読みはお手の物!寡黙でクールな策士」…苦笑

あれはもともと何故上げたのかというと「策士」というワードが面白かったからなのですがね。自虐。

一部の人たちには
「マイペース」「融通がきかない」
というところだけしか目に入らなかったようで、誹謗中傷の材料に使われています。

【別館(閲覧注意)】一部の人たちによる誹謗中傷とは

おそらく筆者(と言うより諸葛亮)を
「自己中心で独裁の父権主義者」
ということにしたくてたまらず
、例によって針小膨大※で極限まで弱点を拡大して誹謗中傷しているのですね。
そして一般の人が長所と考えそうな話は完全に嘘の捏造話で否定して潰す。
さすがカルト思想信者、狂っているとしか言えない事実反転脳です。日ごろ平気で嘘をついているだけあります。

※誤変換ではなく。針小棒大では足りないくらい拡大しているので、「膨大」

あのような者たちに対しては何を言ってもムダ、すべてを悪口として利用するだけ。
そもそも現実を理解する脳がないから無意味なのですが、一般読者の方が誤解しないように専門サイトより正確な話を上げておきます。



一般的な「策士」は逆N型(筆者の型と正反対)


私自身エゴグラムについて正しい知識がなかったため、たまたま見かけたサイトから解釈文を適当に引用したのは悪かったなと思います。
何より同じタイプの方に申し訳なかったです。

記事冒頭で紹介したのは「ディグラム診断」で、開発者オリジナルの解釈が加味されたものでした。しかし、エゴグラムとしてはかなり解釈が違っていたらしい。

開発者自身も後に解釈を修正されたのか…?
たとえば『マイナビ転職』のディグラム診断では、“クールでキレる天才策士”は逆N型という定義となっています。

【参考】マイナビ転職 ディグラム・ラボ より

周囲の人はすべて駒!? クールでキレる天才策士

 

まさにこれこそ一般的な「フィクション孔明」のイメージですかね?
しかし史実孔明は、「正反対」ではないでしょうか。…残念ながら。

少なくとも筆者はこれとは正反対の波型、N型Ⅲでした。

「お前は関係ないだろ!」と言われるでしょうが、上の赤**氏ら誹謗中傷している人たちが筆者を材料に孔明の悪口を言っている現実がありますので、筆者で証明しておきます。

N型は、策士になりづらいのでは?


本家エゴグラムの解釈について、色々なサイトを読みこちらが一番分かりやすかったので引用させていただきます。

【別サイトリンク】エゴグラム結果の見方!性格判断、相性判断だけじゃない!診断結果の見方 より『自分がわかる心理テスト―知らない自分が見えてくる』(ブルーバックス)からの再引用
テスト結果は、7つの代表的なパターンに分類されるとしています。
このパターンは、その人の生き方の「くせ」のようなものとも考えられます。

パターンは以下の7つです。

①円満パターン(アベレージ)    『へ』型
②献身パターン(ナイチンゲール)  『N』型
③自己主張パターン(ドナルドダック)『逆N』型
④葛藤パターン(ハムレット)    『V』型
⑤苦悩パターン(ウェルテル)    『W』型
⑥明朗パターン(アイドル)     『M』型
⑦頑固パターン(ボス)       『右下がり』型
このなかで私の最新結果は『N』型、献身パターンの「ナイチンゲール」に当てはまるようです。

ナイチンゲール… な、なるほど(汗

この表現は痛いところを突かれていて、ものすごく恥ずかしいと感じます。若い頃だったら激しく抵抗していた定義ですが、今の年齢になると人生経験の反省から「そうかもしれない」と素直に受け止められます。

客観的に観て、史実の諸葛亮もこのN型Ⅲタイプとして生きたに違いないと思います。
※晩年、厳しさを演じていた時期はCPが高くなり「ウェルテル」型となって苦悩したでしょう

そしてこういうタイプは、一般的な意味での「策士」にはなれないでしょう。
NP(優しさ)が強いと相手を騙したり傷つけたりすることが辛い。姑息な策がとれなくなる。
AC(従順さ)が高く、FC(自由度)が低いとハイリスクな策が選べない。

N型Ⅲは知能が高いので、策略もやってやれないことはないのですが、倫理性の高さが邪魔して「実戦下手」となるでしょう。
史実評価の通りです。

〔補足〕エゴグラムは永久不変な性格を調べるものではなく年齢や環境によって変わります。しかし、訓練して性格を変えたとしても戻りやすい「生き癖」のようなものがあり、年を取るほどそれが出現しやすいようです。

N型の正しい定義


では、同じタイプの方のためにもここへN型の正しい定義を引用しておきましょう。

上のサイト様のN型の説明より
N型は、NP を頂点とし AC も高く、FC を底とするグラフになっています。
人に優しく、自分の身を粉にして他人のために尽くす献身タイプです。
その反面、人に頼まれるとノーと言えない、自ら楽しむことをほとんどしない人でもあります。



このタイプは、自己否定的で他人に依存的になりがちな、献身するタイプと言えます。
人に優しく、自分を犠牲にすることを良しとしている、人生を楽しむことが苦手です。

I am not OK , You are OK.(自分は×、相手は○)と考えがちなタイプです。



このタイプの男性の場合には、会社への忠誠という形で現れてきます。
会社の仕事は、自分を犠牲にしてでも忠実にこなすタイプです。
気分転換を忘れ、会社への献身が行き過ぎると自律神経失調症などストレス病を発症しやすい人と言えます。

献身はよいですが、行き過ぎないようにし、自分らしく生きるために FC を上げることが大切になります。

このなかでもA=知性が高いN型(筆者はこのタイプ)の場合。
AC が高く、低い CP は共通ですが、NP ではなく A が高いタイプです。
このタイプの人は、高い A は仕事での実行力を発揮しますが、AC が高く CP が低いという特徴から、周囲の人に気を遣う友好的な人なので、仕事を頼まれると断りきれません。
また FC が低いことでほとんど遊ばないので、仕事中毒になりやすい傾向があります。

う、うむ。そうかもしれないですね。痛い…。

史実孔明、特に後半はまさにこれだったと思います。
赤いカルトたちは今、必死でこのイメージを潰すための捏造話をばらまいているのですが、現実の諸葛亮にこのような性質があったことは改変しようのない事実です。

いっぽう筆者は幼い頃からこういう自分の性質を自覚していましたので、ボランティアに走らないようブレーキをかけてきました。
“遠い他人より近くの家族を大事にすること”。
これが現在の私の戒律です。
大勢の他人の代わりに家族へ身を捧げるようになった、と言えるでしょうか。

しかし、
「イイ子」「従順」「忠誠なだけ」
と思われるとまた違います。ということは何度も書いていますが。
暴力主義者の言うなり、奴隷には決してなりません。奉仕する相手を決めるときも、奉仕すると決めるときも自分の意思です。
だから実は誰よりも「自分らしく」生きている。
それでマイペース・我が道をいく、との側面があるのでしょう。

エゴグラムは少し解釈がステレオタイプで表面的過ぎると感じますね。(だから私は昔からこのテストが苦手でした)
むしろ本質個性は占星術のほうが正しく表しているのかもしれない。

ただ、少なくとも「逆N型」との違いだけは明白に表現されているようです。


逆N型こそ赤**氏が批判しているタイプなのに、なぜ賞賛してるの?


比較のために逆N型の性質を引用しておきます。正確に正反対のようで、興味深く思いました。
逆N型は、CP 、FC が高く NP 、 AC が低いグラフになっています。
自己主張が強く、自己中心的な傾向があります。
理想や目標に向かうエネルギーが高く、好奇心が旺盛で想像力も豊かなので、新しい目標を見つけチャレンジすることができますが、人の意見を素直に聞かないという特徴もあり、 ワンマンタイプと言えます。

この特徴が良い方向に回ればカリスマ性を持ったリーダーとなるでしょうし、悪い面だけが強調されてしまうと傲慢なリーダーとなってしまいます。

また、このような欲求(特性)を芸術や芸能分野で活かせば、その世界で力を発揮するでしょう。


人に共感できないので、自分の思い通りにならないので、よりよい人間関係を築くのが苦手です。

I am OK , You are not OK.(自分は○、相手は×)と考えがちなタイプです。

自分を肯定的(自分は正しい)に評価し、相手を否定的(相手は間違っている)に評価するので、自分の意見を曲げず、自己主張が強いタイプです。

相手の意見が受け入れられないので、相手の意見に強く反論したり批判したりします。
そして、自分に都合の悪いことは責任転嫁することもあるので、対人トラブルは常に付きまといます。

このように、対人関係のトラブルが多いということは周りから批判され反感を買うことになります。

ただ、周りから批判されても、本人は意に介しません。
自分は正しく、周りが間違っていると考えているので、人がいくら意見を言っても聞きません。
自分が間違っていたとしても、間違いを認めず、周りのせいにするでしょう。
…いかがでしょうか? 史実の曹操みたい、と思ったのは私だけではないはず。

I am OK , You are not OK.(自分は○、相手は×)
が、まさに曹操の言葉として有名な
俺は人に叛くが、人が俺に叛くのは許さん
そのものだったので噴きました。
本当に私のタイプと正反対ですね。
自己中心の独裁者、父権主義者とはこちらの逆Nタイプのことを言うのではないでしょうか?

つまり赤**たちが諸葛亮に対して、
「人の言うことを聞かない孔明は自己中心の独裁者だー! 父権主義者だー!」
と叫んでいるのは、実は彼らの教祖である曹操様に向けて叫んでいたことになりますね。笑

ところが彼らの思考では、曹操様のことだとなぜか自己中心の蛮行も「素敵ぃ~」と嬌声を上げてしまう行為だし、民衆虐殺も「素晴らしい正義」にすり替わり、拷問処刑も「痺れちゃーう。曹操様の拷問受けたぁい!」という発想になる。
どこまでもご都合主義で異常思考、狂っています。

ともかく現代の科学的な性格診断ではこのような分析結果となりますので、皆様カルトによる史実反転を信じないようお願いします。

〔念のためフォロー〕


逆N型の人が全員、曹操のような虐殺魔になるということはあり得ません。

曹操ほどのサイコパスで人殺しを趣味とする者は障碍です。ほとんどの逆N型は、性格タイプが自己中心なだけでサイコパスと呼べるほどの有害行動をする人は少ないでしょう。

【別館参照】サイコパスとは何か? 先天障碍と後天性とがある

逆N型はいわゆる一般で言うところの「策士」タイプであり、競争社会で勝ち抜く可能性が高いなどの長所もあります。
犯罪スレスレのことをやるのが常套のため通常は嫌われがちですが、現代社会ではむしろこのようなタイプのほうが賞賛されやすいのではないでしょうか? 

 

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