うざい?嫌い? SEKAI NO OWARI『Habit』に違和感を覚える理由


 SEKAI NO OWARIの新曲、『Habit』がヒットしているのか各所で耳にします。彼らの暗いほうの曲にしてはめずらしい。

『Habit』に不快を覚える人は多いはず


この『Habit』、楽曲はかっこいいしダンスも面白く、流行るのも分かります。が、なんとなく不気味な感じゆえ不快を覚えている人もいるのではないでしょうか。

〔2023/1/3 追記〕やはり、『Habit』には発売後しばらくして「気持ち悪い」「うざい」「嫌い」といったネガティブな感想がSNSに溢れるようになってきたらしい。NHK紅白歌合戦で『Habit』が歌われた際もネットが荒れたようです。

ファンの方、すみません。批判として書いているのではありませんので念のため。むしろ「不快」は彼らには賞賛として響くのでは。

不気味さのエッセンスを入れるのがSEKAI NO OWARIのコンセプトであり、目指している芸術でしょう。
言ってみれば確信犯的に「メンヘラ厨二病」の旗を掲げているグループだと思いますので、不快と感じる大人が出ることこそ彼らの狙い通りかと思います。

それにしても今回は不気味さの割合が高いように思います。
MVも今までのように視覚的に地獄や悪魔を表現しているわけではなくて、“普通に学校で踊っているだけ”だからなおさらなのでしょうか? 日常の光景と狂気ダンスの不調和がまた、なんとも不気味。

しかし実はこの不気味さの根源は、狂気ダンスでも、歌詞の表面的な言葉でもなく、背景にある「思想構造」にあるはずです。

今回はこの歌詞に含まれる本当の意味と目的――おそらくこの曲を創った彼ら自身も気付いていない、構造そのものが導こうとしている未来を解読してみます。

YotTube公式:


「分類壊せ」で、永遠のモラトリアムへ


まず先に言っておくとこれは決して悪いばかりの曲ではありません。

第一に届けようとしているのは若者へのエールだと思います。

以下のような歌詞に、「支配の軛(くびき)」を断ち切る力強いメッセージを感じて救われる子が多いでしょう。
君たちったら何でもかんでも
分類、区別、ジャンル分けしたがる
ヒトはなぜか分類したがる習性があるとかないとか

隠キャ陽キャ?
君らは分類しないとどうにも落ち着かない
気付かない本能の外側を
覗いていかない? 気分が乗らない?

つまり それは そんな シンプルじゃない
もっと 曖昧で 繊細で 不明瞭なナニか

夢を持てなんて言ってない
そんな無責任になりはしない
ただその習性に喰われないで
そんなHabit(習性)捨てる度 見えてくる君の価値

俺たちだって動物
故に持ち得るOriginarlな習性
自分で自分を分類するなよ
壊して見せろよ そのBad Habit
うん、
「その習性に喰われないで」
「Originarlな習性」
というところ、とても正しいと思うし私も若い頃ならこの言葉を好きになっていたと思います。

特に、「陰キャ?陽キャ?」など他人のレッテルと支配を跳ね除けてオリジナルに生きろと言うメッセージはとても良い。世界中の若者にとって必要なメッセージです。

ただしここまでで止めれば、の話。
その先のメッセージ……「自分で自分を分類するな」
は、唱え続けるのは危険な言葉
です。

他者に押し付けられたレッテルの支配を打ち破るために、ここぞという時だけ叫ぶのは良い。
「限界を自分で決めるな! 可能性を信じろ!!」と言う意味で使うのも良い。ただそれは心の底から湧いてくる夢がある場合に限る。

「自分を分類するな(自分の道を決めるな。モラトリアムで生きろ)」
と唱えるのはできれば人生で一回限り、せめて二回までが限度でしょう。

何故ならこの呪文は何度も唱え過ぎると腐る性質があるからです。
何者にもなりたくない、責任を果たしたくない言い訳として、自分にかける「モラトリアムの呪い」へ変貌するのです。

※モラトリアム:猶予(ゆうよ)のこと。俗語では学生など社会人になるまでの自由時間を指すが、「永遠のモラトリアム」を標ぼうして何者にもならない道を選ぶ人たちもいる。彼らはたいてい、責任を果たしたくないことの言い訳として「分類されたくない」「自分で自分を決めるのは悪だ」などとのたまう。

【参考サイト】モラトリアム人間とは?意味や特徴・モラトリアム人間脱却法を紹介
「モラトリアム人間」という言葉の意味を知っていますか?主に「自分が何者かを見つけられない大人」という意味で使われます。あなたには心当たりがありませんか?ここでは「モラトリアム人間」という言葉の意味や、「モラトリアム人間」からの脱却法を考えていきます。
日本でも1960年代~80年代に永遠のモラトリアムはカッコイイとして、「分類(カテゴライズ)を打ち破れ!」呪文を唱えることが流行した時期がありました。

でも実際、自分で自分を決めることを永遠に拒否し続けたその人たちはどうなったかご存知でしょうか?

たとえば就職するのが嫌なのでフリーターをしながらバックパッカーとなり自由を満喫した若者は、バブル崩壊と高年齢で就けるバイトがなくなってしまいました。
仕事もできず生活手段がなく、家族も家もない彼らはもちろん年金など払っていません。最後には生活保護の世話になるしか選択肢がないでしょう。

若い頃バックパッカーで世界を眺めるのは素敵な経験です。最終的に生活できなくなったとしても、それはそれで自分で「決めた」人生なのだからと納得できるなら立派と思います。
しかし、そもそも「決める」ことを嫌がる人たちなので納得できるはずもなく。
差別されてそうなったわけでもないのに何故か社会を逆恨みし、絶望して犯罪に走る人もいます。
(当たり前ですがそうなっていない元バックパッカー・フリーターもいます。その人たちはどこかの段階で自分で自分の道を決め、納得した人生を送っているわけです)

フリーターたちは実はまだマシなほうで、反抗の破壊活動からスタートした人々はもっと悲惨です。
60歳や70歳になっても未だに世界革命を夢見る反抗期を続けて、テロ活動をやり続けることでしか食えない孤独な老人となるのです。
国家を滅ぼすためという理由で生活保護も不正受給している、本当に保護が必要な人たちを差し置いて。こうなると明白な「寄生虫」と呼べます。
(日本では「赤**」と呼ばれるあの集団です)

いつかは自分で自分を分類し、どの箱を選ぶか決めなければならない時が来ます。
それが「一流企業の社会人」か「フリーランスで生きる自営業者」なのかは、人それぞれ。
他人が良しとする決まりきった価値観に縛られる必要は全くないのですが、自分では選び取ることが絶対必要。
その時を乗り超えなければ、上に書いたような世界を呪い嘘をつき続け他人に危害を加えるだけの、「寄生虫」として余生を送るしかありません。

余談。ヘッセの場合


かつてヘルマン・ヘッセも当時流行していた悪魔崇拝的なモチーフ(『デミアン』)を使い、
自分自身へ生まれ変われ!
と檄を飛ばして世界中の若者を救いました。
一見、セカオワと似たようなメッセージを叫んでいるようですが、似て非なるものであることお分かりですか。

ヘッセは分類を棄てるのではなく、“自分”という存在を選び取るように説いたわけです。そのためには一度死んで生まれ変わるほどの決意が必要、つまり厳しい責任を受け取れと説いています。

この場合はモラトリアムとは正反対で、大人になる道を説いたものです。

押し付けられたレッテル、敷かれたレールに抵抗して新しく生き直すために「分類」を剥がすのはいい。
でも、その後に必ず自分で選び取ったOriginalな道を生きなければなりません。それは大変な孤独と苦しみを伴いますが、そうでなければ人として大人として生きることなど不可能なのです。

選び取った人たちの人生が、
分類された普通の箱で燻ってるやつら

などとバカにされる理由はありません。
イージーモードか何だか知らないがそちらの人生のほうが魅力ありませんね。懸命に泥まみれで生きている人を見下す資格はないでしょう。



『Habit』の背景にある悪魔崇拝の構造が呪詛をかける


この通り『Habit』のメッセージはレッテルを剥ぎ取る「救い」にも、聴く者をモンスターに変えて地獄へ連れていく「呪い」にもなると言えます。

薬は病気のときに飲むなら命が救われますが、ずっと飲み続けていればジャンキーとなって脳を溶かされ身を亡ぼす。それと同じ。
芸術として愉しむなら良いが、あまり現実に引き入れ唱え続けないように。

どうして彼らの歌にそういう悪魔的な性質があるのかというと、文字通り欧州の「悪魔崇拝」思想を素材としているからでしょう。

『Death Disco』が典型。これは扮装が悪魔そのものだから分かりやすいのでは。


(私はこの歌詞の悪魔崇拝メッセージは受け入れがたいですが、曲はとても好きです。ピアノが主となっているバージョンのほうが良い)

欧州では悪魔崇拝からロックやパンクが生まれポップなものへと変化していきました。
しかしそれを飛び越えて日本人が過去を直接に掘り起こし、イメージとしての「悪魔崇拝」を表現しているのは面白いこと。
ヨーロッパから遠く離れた外国だからこそ、このようなイメージの抽出が可能だったのだと言えます。中華や日本文化も、欧米人のほうが純粋なイメージ表現がうまいことと似ている。

おそらくSEKAI NO OWARIは欧州ファンタジーを描くアニメなどの影響を受けてこういう世界観を作ったのだと思っていましたが、今回『Habit』を聴いて欧州哲学もよく勉強しているのだなと分かりました。
それと同時に、彼らは本気で「悪魔崇拝」サタニズムをやろうとしているグループなのだな、とも確信しました。

どこまで自覚しながらやっているのか?
本人たちの意思なのか、それとも偉い大人たちがコントロールしているのか?
分かりませんが、少々危険を覚えました。

単なるイメージの抽出なら芸術ですから歓迎するけど、これ以上の思想プロパガンダは危険。
もしかしたらすでに何かの団体に取り込まれていたりして。
明確に計算してこの歌詞をプログラムし、洗脳目的でばらまいているなら良くないですね。

『Habit』を構造的に読み解く


具体的にどこが「悪魔崇拝」であり、危険だと言うのか。
言いがかりではない証拠に、歌詞を引用しながら指摘していきましょう。
自分で自分を分類するなよ 壊して見せろよ
分類するなよ →これは上にも書いた通り、永遠のモラトリアムへ誘導する呪詛です。

また、「分類」は思考の基礎でもあります。
単純な二元論で止まってしまうと逆に思考停止となりますが、複雑な分類をすることは思考の足掛かり。論理的な回答を得るためには不可欠と言えます。
そんな分類を禁じるということは、思考を封じる呪詛になります。

原典は19世紀に盛んに叫ばれた、階級破壊・国家破壊でしょう。
神によって分類され支配される羊(奴隷)という箱を壊すことで自由になろうとした。

自由民主を手にする時点で終われば何の問題もなかったのですが、彼らは永遠のモラトリアムを願っていたため安定社会を呪い、革命をやめることはありませんでした。
当然ながら誰も何者かになりたがらないので、生産性のある仕事が行われることはありません。彼らにできることと言えば、破壊と殺人、盗むことだけ。
こうして「地獄の虫」や「寄生虫」となり、世界を荒らすようになります。

マルクスやニーチェたち、近代欧州で流行した悪魔崇拝の信者たちが願った「地上での地獄の実現」を招くのが、この永劫モラトリアム回帰※です。

※筆者の造語です。ニーチェ「永劫回帰」より

俺たちだって動物
こーゆーのって好物
俺たちだって動物 →ここは現実的な意味での「人間は動物の一部」という分類なのではなく、魂を否定する純粋な肉体優先としての「唯物論」の刷り込みです。

これもニーチェ思想ですね。
「唯心論」への反逆として、我々は肉体だけで動いている機械的動物なのだと説く。

心も魂も存在しないと説いているのですから、この思想を貫けばいずれ感情は否定され、愛なども禁止されることになります。

唯物論者にとっては心を動かして泣くことなどあり得ない現象です。
だから愛や感情などを持つことはバグ、異常分子なので殺処分せねばと考えます。

事実かの国で、子供が親を殺して内臓を引きずり出して食べることを強要されたことがあります。
家族の肉が食べられなかった人、愛する家族を失って泣いた人たちは死刑となっています。(実話です。⇒閲覧注意

これが
「俺たちって動物」
と唱え続ける者たちが招く世界です。

大人の俺が言っちゃいけない事言っちゃうけど
説教するってぶっちゃけ快楽

その後なんか俺興味ないわけ
大人の話は全部くだらない説教。大人の話を聴くな →世代間の分断を目的とする呪詛です。情報伝達を断ち、歴史継承・文化継承を断ち、若者を洗脳して奴隷支配しやすくするための呪詛。

まあ、この歌詞は前向きに読めば
「若者よ。大人の言うなりになるな」
という意味にも捉えられます。でもそれは表面的に読んだときだけです。

この呪詛の正体も19世紀、悪魔崇拝から発祥した反哲学が原典。
世代間を分断すれば、文化が継承されることがなくなり伝統文化は永遠に滅びます。賢さを養い、カルト思想から脳を保護してくれる文化という免疫が破壊されるので、若者は洗脳されやすくなり奴隷に身を落とすことになります。

「説教するってぶっちゃけ快楽」
とか、最低ですね。
そんな大人ばかりではありませんよ。
そういう最低上司がいることも事実ですが全員そうであるはずがない。

ちなみに…
私が説教するときがあるとすれば、それは快楽のためではありません。
そもそも自分の場合、年下だろうと年上だろうと、「言わねばならない」と思うことを言っているだけなので説教のつもりもないですけどね。酒の肴にするシチュエーションとは無縁。
言う時は最終手段。言わなければ相手が身を滅ぼす(または他人が激しく迷惑する)と考えられる時だけ。
だから、意見を言うときは激しい精神的負担を伴うのだけど、そういう気持ちは現代人には一切理解されないようです。内容で判断することもなく、ただ「上から目線で意見された!」「説教された、許せない!!」と脊髄反射で怨みを持つだけの人が多いらしい。
現代人の多くが、深瀬氏の侵されている思想と同じものに侵されているのだなと分かります。

私自身、若い頃に自分の将来を真剣に考えてくれた教師たちの説教に救われた経験を持ちます。
あの年上の人たちがいるから、私は今ここに生きています。
そういう経験を持たずに年上の話を完全無視している人たちは気の毒だなと思いますね。

憂慮


『Habit』の呪詛をこれだけ歓迎している人が多い現状を見ると、今後ますますこの悪魔崇拝思想は浸透していくでしょう。
モラトリアムな寄生虫や、サイコパスなメンヘラがさらに増えそうです。


〔当ブログ内関連記事〕
「自分探しの旅」追記
「分をわきまえる」という言葉の本当の意味。自分さえ見失った現代人の不幸

【歴史別館】歴史が得意な方向けの話です。
当記事に書いた「呪詛」を唱え続け、人間らしい感情を棄てた者の実例がこちら。彼ら彼女らは本気で『出師表』の文を「口出しをさせないための策略」「泣いたという文末はただの挨拶文」だと思っています。
 ⇒この人たちが『出師表』の歪んだ解釈を声高に叫ぶ理由



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