【再考】伝統回帰・唯心論は諸刃の剣…? “魂中心主義”を伝えるべき

 


前記事で取り上げた『よみがえる古代思想』について、今せっかく手元に本があるので考えをメモしておきます。
現代と未来につながる政治に関する話+スピリチュアルです。

先にポイントだけ簡潔に述べます。

1.現代に至るまで政治学の源は全て古代ギリシャにある

2.全体主義は古代ギリシャ思想を都合良くつまみ取り、歪曲して創作された

3.正しく古代思想に習いたいなら、「魂中心主義」を省いてはならない

1と2は政治思想を勉強したことのある方には当たり前の常識かもしれませんので、詳細を省きます。
重要なのは3です。この3の発想を持つ人は現代ではほとんどいないのでは?と思います。

〔自分用メモも兼ねて書いているため、また無駄に長くなってしまいました。読める方のみ続きをどうぞ〕


古代、政治とスピリチュアルは一体だった


現代で政治の話をする人は嫌われるものです。どうしても険悪な内容となるし、対立する集団と喧嘩になってしまうので当然かもしれませんが。

特にここのようなスピリチュアルブログではクレームが回避できませんので避けねばなりません。
それで私も長年政治話を避けてきました。数年前からやむにやまれず書くようになりましたが、読者様の迷惑になると分かっているので別館に分けています。

それでもわざわざ追いかけてきて「自分のメンタルが具合悪くなるから政治話やめて」などとクレームを仰る人にはもうお手上げ。
政治話をするには匿名で、隠れてしなければダメなのでしょうか。でも自分の考えを述べるのにどうしてコソコソ隠れなければならないのかもよく分かりませんし。
筆者の“前世職”を考えると政治の話をしないほうがむしろ不自然でしょうに、スピを信じて前世も信じる方々がそこは疑問に思われないのか…? と謎に思う。

このように現代では“下等で下劣な話題”として忌み嫌われ、他のあらゆる話題よりも下に置かれている政治話。
しかし古代は西洋でも東洋でも政治とスピリチュアル的な話は一体として語られていました。

政教分離などという話が出てきたのはほんの近代のことですし、
「真理(神の道)の探求が上位」
とされて高みに掲げられ、政治を卑しいと決めつけ貶めたのもキリスト教が西欧を支配して以降のこと。



昔の人は「行動が大事」と知っていた


前掲『よみがえる古代思想』のなかで佐々木氏は、まだキリスト教が国教となる遥か以前のローマにおいて、偉大な政治家キケロの概念を紹介しています。これは「スキピオの夢」と呼ばれる伝説で、当時のローマで一般的だった教訓に基づいています。
(キケロの『義務論』)最後のところで天国の話、死者に対する報酬の話が出てきます。…
小スキピオがアフリカに滞在した際、夢の中に祖父の大スキピオが現れ、そこで彼は、国家のために、自分の利己心、欲望を捨てて献身した人たちは、やがて亡くなった後、天界において幸福者として永生を享受することになっていると語ったといいます。つまり…
正義にかなった社会を実現するために献身した人間こそ、神がもっとも喜ばしく思うものであることを述べて、いわばダメオシをしているわけです。祖国と国民のために尽くさなければいけないといっているだけではみんな納得しないので、死後の世界とそこでの幸福な永生の物語を付加して、エリートにその責任を納得させるというロジックだろうと思います。…
キケロの場合、哲学を一生懸命に勉強したのですが、実践的、政治的な生活の方が、じっと自然を観察するような思弁的、観照的な生活に対して積極的に擁護される価値があるという発想が見られます。「スキピオの夢」においても神によってもっとも喜ばれる存在とは、偉大な政治家です。しかも国民のために尽くした政治家こそが実は神にとって一番喜ばしく、神のことばかり考えている思弁的人間よりも大切だという指摘は重要なことです。
〔P211~212より引用 太字は当ブログ筆者による。“…”は略〕

佐々木氏はあくまでも現代の学者ですからこのファンタジーを「社会操作のためのロジック」として、マキャベリ的に解釈しています。

しかし私はこの話にも驚きました。自分が前世の死後に指導霊から言われ、悟ったことと同じだったからです。
特に最後のほう太字で引用した箇所
「国民のために尽くした政治家こそが実は神にとって一番喜ばしく、神のことばかり考えている思弁的人間よりも大切」
これは私に対する死者オーディエンスの評価と全く同じでした。

だからこの話はロジックではなく単なる誰かが体験したという意味で“真実の話”だと思います。
信じるか信じないかはあなた次第なのですが、私は同じことを体験したので信じますね。

なお正確に言えば神々に賞賛される行動とは政治だけとは限らず、人々のために何らかの形で尽くす人生のことです。
政治でなければ医学でもいい。介護でもいい。ボランティアでもいい。創作を発表して人の心を癒すというのも有りです。

大事なのは自己を捧げるという行い。
報酬を得るためという欲得で行うのは良くないが、やらない善よりもやる偽善のほうが褒められるのは現世と同じでしょう。

(ただしボランティアと称して実際はやらず公金チューチューしている犯罪者は報われません。死後世界の先輩霊は実態を見ています。実態として利己的な行いをし、他人を害している者たちは自ら地獄の底という故郷へ戻ることになるでしょう。今世は改心するために得たチャンスだったろうに、残念ですね)

行いが大事なのですから、生きている間に
“真理探究”
の修行だけして修道院に籠りきるのはあまり称賛されないと言えます。

もちろんそのような修行人生も一時なら否定されないでしょう。でもそれはあくまでも自分のために生きたということになりますので休憩と捉えられるはず。

宗教で精神修行すべきとの考えは、不自然な歪み

これまで私が
「行動が大事。宗教修行している暇があるなら、人生を真面目に生きるべき」
と繰り返し説いてきたのは、哲学書や宗教から得た知識ではなくて自分自身の死後体験に基づく考えでした。

その体験が今こうして、古代の思想家たちの発言によって裏付けられていくのは不思議な感覚です。

ちなみに根本的な正義感――何が正義なのかという感覚、道徳観念は洋の東西を問わず人類共通だと思います。

前記事では私の指導霊の言動から、元ギリシャのアテナイ人であったことをプロファイリングしました。
そのように生前の文化圏によって若干、指導が異なることはあると思います。
しかし根本の道徳観は不思議と一致していること注意。地域によって表面的な文化は異なりますが、根本的な道徳観は同じであると私は感じます。

おそらく古代の人たちは私が体験して得た知識と同じものを生まれつき知っていたのでしょう。
あるいは、死後の霊たちと対話できる感覚の優れた人が多くて(デルフォイの巫女など)、その人たちの話が尊重されており信じる人が多かったのだと思います。

歪みが出てくるのはやはり一神教が強くなって以降です。

佐々木氏は
「ローマ帝国が興って、ポリスという小規模な国家の価値観が通用しなくなった。“政治”に参加できる人が少なくなった結果、“精神修養”だけに籠っていたほうがいいと考える人々が増えた」
と解説しています。

その人々は政治を「魂を乱すもの」として嫌い、個人が関わるべきではないとしました。ただ国のリーダーだけが政治という卑しい仕事を請け負えばいいのだと考えたわけです。
正義も人間が生きるための相対的な手段に過ぎないから、存在しないものとして扱えと言いました。古代にあった善悪の概念も否定してしまったようです。
(このあたりの思想を現代の全体主義者は便利と見て再利用しているようです)

そして人々は政治を軽蔑し遠ざけ、あげく善悪について一つ一つ考えるのをやめ「神の判断」に委ねてしまいました。
その人生放棄の態度は信者を囲い込みたい宗教にとって好都合だったことでしょう。

やがてキリスト教がローマの国教となり、西欧を支配していくにつれて人々は考えることさえやめてしまったようです。

「真理の探究」はソクラテスやプラトンが唱えたような思考←→行動の反復によって目指すものではなくなり、ただ修道院に籠って神に祈りを捧げたり、胡坐をかいて悟りをひらくための瞑想に励むものとなったわけです。

ここに厳密な意味での哲学(愛智、フィロソフィ)は滅んだと言えます。

近代哲学になると「反哲学」となり善悪・天地の反転を願う呪詛を唱えるのみ、都合良く過去の哲学者たちの言葉を捻じ曲げて悪用し、一神教をなぞるだけの全体主義となっていきます。

こう言うとまた宗教弾圧と思われるかもしれませんが、やはり一神教に支配され思考と行動を放棄するようになった頃から人類が歪み始めたのは確かだと思います。

現代の反哲学・悪魔崇拝、そこから派生して世界を地獄へ叩き落したマルクス主義なども一神教を反転させた宗教から生まれました。たとえばグノーシス、マニ教など。
「この世は地獄」と説く厭世的な宗教は東洋に輸入され、仏教的にアレンジされると浄土教となり、やがて白蓮社(白蓮教)などの秘密結社へと発展します。その秘密結社は中華で大規模な乱を起こし、虐殺などで甚大な被害を生みました。世界を憎悪しているため彼らは破壊や殺戮に躊躇なく、戦闘をさせれば喜んで命を投げ出し最強の兵士となったそうです。

これらのカルト宗教と反哲学者は、唯心論と唯物論で対立しているように思われがちです。
しかし実は根本が同じと思います。
いずれも“今ここ”の人生をおろそかにし、肉体を機械または要らない物と捉える点で思想構造が共通しています。「何をやっても現世で罪は帳消し」と言って道徳観を放棄し、蛮行にふけるようになる。

いっぽう魂主義だったソクラテスやプラトンなど古代人は、魂を大切に考えるなら人生を大切にしろと説きました
「少しの悪事でもしてはいけない(魂を傷つけるから)」
「不正するくらいなら、不正されたほうがいい(同上)」
「現世で真理を明らかにする実践教育をしろ」
等々と説く。

これは魂主義であると同時に、現世と死後世界を分断して考えていないということになります。

肉体のなかに宿って行動する現世も、死後に魂となって浮遊する黄泉の国も続きにある。だからこそ死後の幸福のために現世で善行に努めなければならない、神のために人生を放棄するのではなく自分で思考し真理にたどり着かなければならない…云々と説く。
こう説くことで聴いている側に必然的に道徳観が生まれます。
多分に利己主義ではありますが、自らの魂のために善く生きるべきというのは真実だと言えます。

古代の人のこのような考え方は、何と呼べばいいのか。
【魂中心主義】
などと呼べるでしょうか。
決して分断されていない生と死を移動する魂。その魂を中心に考えるからこそ現世をより善く生きようとし、自然な道徳が生まれる。

近現代ではこの【魂中心】の考えが欠けているといえます。
プラトンの書籍にしろ、ソクラテスの思想にしろ、近現代学者がただ全体主義のためだけに悪用できてしまうのは【魂中心】の考えを完全にカットしているから。

そんな古代思想の根幹と言える【魂中心主義】を抹消したために近現代哲学は“死んで”しまったのですね。
言論を都合良く利用、捏造する者は悪魔です。

佐々木氏の話も引用しておきます。
(西欧ではたびたび古代復古の波が起こったが)ただ、もう一度、二十世紀の初頭に古代の波が来ます。ここでまた古代が使われますが、あまりいい使われ方はしません。それは、どちらかといえばファシストたちが利用したのです。…
一言でいえば、民族共同体への奉仕を強調するために古代を動員したのでした。実際、古代の議論の「つまみ食い」をしたわけです。こうしたことがあったため、ポパーは『開かれた社会とその論敵』の中でプラトンを二十世紀の全体主義思想の原型として取り上げ、延々と批判を行うことになりました。ここでは、二十世紀の議論はこのどちらにせよ、「魂への配慮」といった命題にはまったく興味がなかったこと、民族共同体至上主義をめぐる議論でしかなかったことを指摘しておきます。
〔P248, 同上〕

魂中心主義 復活のレシピ


最近の私は“伝統回帰”だとか、“魂中心主義”を主張することが増えました。
しかしこれらの言葉は諸刃の剣であること分かっています。

伝統回帰は原理化すると必ず狂気の凶器となります。
民族主義と結びつけて嘘の伝統話を捏造し始めたら終わり。
たとえば先日別館で書いた「からごころ(中華文化)批判」の本居宣長が典型ですね。
急激な伝統復活を望んだ場合、その時点で社会に広まっていた文化を否定することになるので一種の“ブンカク”となり、嘘をついてまで破壊せざるを得なくなるのかもしれませえん。

魂主義も同じで、唯心論と勘違いされると前述通り命をおろそかにするカルトを生みます。

あくまでも魂中心主義であること。
そして伝統回帰とはけっして急進的なものであってはならず、自然な道徳を蘇らせる程度の文化復興であること。

まず、現世と死後が連続しているとの理解が必要です。
古代と現代も切り離されておらず、道徳は不朽の概念であることの確信も必要。

これらのことをファンタジーではなく真実として受け止めることができれば、人類はようやく成長できると思います。
押しつけの独善カルト思想にしてはいけませんよ。
死後も道徳も現実にあること、これは星々が宇宙に存在しているのと等しく自然なことだと漠然とでも信じてもらうのが大切です。 


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