みんな主人公になりたい? モブキャラとは何か(『フェルマーの料理』感想)

 久々の雑談です。

10/20から始まったドラマ『フェルマーの料理』、第1話から面白くて魅了されています。

ドラマ感想


数学者になる夢を絶たれて退学を言い渡され、人生を諦めていた高校生の岳。彼は自分を「モブキャラ」と呼んでいた。
しかし有名なシェフに料理の才能を見出されて告げられる。
お前はモブキャラじゃない。主人公だ

素晴らしくスピード感があって意表を突く展開。しかも夢がある。マンガって凄いな。
前期の『トリリオン・ゲーム』に似た、高みへ昇り詰めるサクセスストーリーが期待できる設定です。それでいて人生の残酷さも匂わせている。

男の子はこういうの好きでしょう。
私も嫌いではないです。

ただ私が最も心をつかまれたのは片親で息子を育てたお父さんの物語でした。
岳の思い出のシーン、幼い頃から「ねえ、見て見て」と声をかけると何をしていても振り返って笑顔で答えてくれたお父さん。岳が東大進学を蹴って「料理人になる」と言ってから口をきいてくれなくなったお父さんだが、旅立ちの日にはバス停まで追いかけ応援した。岳を抱き締めたシーンにうるっとしてしまいました。
料理の才能も本当は数学のおかげではなく、お父さんから受け継がれたものだったという話。
あんな短いシーンなのに、長編映画に負けない親子の感動物語で泣けました。

でもそんな親との絆を(岳をスカウトする)シェフは「父親の呪い」などと呼んでいた。
ここに今どきの思想が入っていて気味の悪さを感じましたね。
確かに具体的な目標に縛られてしまうと挫折したとき終わり。だから達成できなかった過去の目標は「呪い」と呼んで断ち切ることが必要。親の夢であれ、自分の夢であれ。
しかし愛情や絆そのものを「呪い」と呼ぶのはカルト思想であり、悪質なイデオロギーです。信じてついて行くと心ない非人間に改造されてしまうもの。

思わず
「あれは現実だとスカウトした側は詐欺師で、騙された未成年は借金を負わされて沈められる展開だな。結局、自分のことを想ってくれていたのは父親だけだと十年後に気付いて泣くパターン」
などと大人の観点で感想を呟いてしまい、家族の不興を買いました。
…ごめんよ、つい現実の厳しさを投影してしまった。

でも現代は怖いから、若い人たちは気を付けてね。
スカウトを装った詐欺があります。投資もボランティアも罠だから、ついて行かないように。

スカウトが詐欺かどうか? 見抜く方法


ではスカウトを受けたとき、詐欺か本物か見抜くにはどうしたらいいでしょうか?

まず大事なのは自分の才能・価値に対する“読み”。そのために心の声に耳を澄ますことが必要です。
相手の称賛が真実かどうか、一番分かっているのは実は自分自身だと思います。

謙遜していても自信がなくても無意識では気付いている。本当は自分が何者なのか。

(「お前は自分が何者なのか知らない」というセリフ、ドラマで聴いたときは驚きました。私は現実でも夢の中でも言われたことのあるセリフで、確か小説にも書いたので一瞬パクられたかと思いました笑。…すみません冗談です)

その無意識の読みに反する称賛を浴びせてくる人間は詐欺師ですからついて行かないで。
相手は君をいい気分にさせて釣り上げ食おうとしているだけ。

“違和感”には敏感になることです。
詐欺師はこちら側のことをよく見ていないので言葉のチョイスが見当はずれだったりします。

本物のスカウト主は、見当はずれなことは言いません。細部までよく見ている。
そして全身全霊で推して来ますね。
どこにそんなエネルギーがあるんだ? と思うほど通い詰めてきたり。無言で支援したり。言葉はもちろん行動で示す。
それとスカウトしても最終的には、無理強いはしません。何故なら本気で相手のことを想っているからです。

『フェルマーの料理』というドラマで言えば、お父さんがその本物スカウト主に相当するでしょう。

何を言っているか分からないかもしれませんが、「青い鳥」は遠くにいるとは限らないということ。
旅に出なければそのことにも気付けないので青年はいったん家を出なければなりませんが。

最終的には「自分がどうしたいか」です。
表で活躍したいか。それとも素朴な愛を大事にし、少数の人たちを幸せにしたいか。

どちらも同じ価値ある人生でしょう。
表で注目を浴びることだけが主人公の生き方ではない。

主人公⇔モブという分け方


「親の呪い」というカルトワードに加え、もう一つ。
このドラマで気になったのが

・君は主人公になれる!

に対応する

・モブキャラ、サブキャラ、脇役

との言葉でした。

モブとは名もなき群衆の意味で、モブキャラと言えば「村人A・B」のような名前を与えられない役のことですか。

最近は若い子たちが「サブキャラ」や「雑魚キャラ」と言う代わりに「モブキャラ」を使っているらしい。
主人公と戦って負けたりする雑魚や、主人公を助けるサブですらない。存在感の全くない通りすがり。ただの背景です。ドラマで言うところのエキストラ。

人をチートな主人公か、その他大勢の「モブ」に分けたがる。
全ての場面でこの価値基準において分類しているなら、かなりまずい考え方だなと思いました。

私も少し前にいただいた小説の感想で、作品中に登場する名前のない人物たちを「モブ食客希望者」と呼んでいた若い人の表現が面白くて笑っていたのですが。

確かに、私はあの小説に書いたイメージのなかで他の参加者を「木偶(でく)」などと呼んでいました。申し訳なかったです。
何故そう呼んだのかというと、彼らが他人の言葉を繋ぎ合わせて語っているだけのAI人形のように思えたからでした。

私は常々多くの人が自分の考えを持たず、他人の言葉を繋ぎ合わせて吐き出しているだけであることが不思議でならないと思っています。
ChatGPTが登場してから「あの人たちは対話型AIのようだ」と表現できるようになりました。本当にそっくりです。

左のイデオロギー集団も、陰謀論にはまった人たちもそうですが、どうして誰かが作った台本をそのまま飲み込み口から出してしまうのだろう?
自分が属する団体の主張からはずれたことを言うのが怖いのか、たとえ本能で「これは嘘だ」と違和感を覚えていても嘘を叫び続けている。

団体と違うことを言うと殺されるんでしょうか? 家族を人質に取られているの?
(隣国の人たちは実際そうだから仕方ないですね。日本人でも左側は組織に反する意見を口にすると社会的に抹殺されるか、実際殺されてしまうのだろうな)

もし「殺すぞ」と脅迫されていないのに、周りの様子を見ながら同じことを喋ろうと努めているだけなら愚かなショッカーです。
おそらく出世のためにショッカーとして振る舞っているのだと思う。
実際たいていの場合そんなショッカーのほうが出世する。
創作の世界でもテンプレのまま書いたAI代筆みたいな作品だけが流行ったり……。

そのような生き方をしている人たちは事実として「喋る木偶」と言えるでしょう。

私は彼らの生き方を軽蔑し指摘しますが、そういう悲しい生き方をやめて欲しくて言っているだけです。
人間に始めから「モブ」「主人公」という製造ラベルがあるとは考えていません。

ショッカーとして生きている人たちは、自らショッカーとなることを望み選択してそうなっただけ。
そのような安易な生き方は卑しいのだといつか気付いて欲しいと思います。

事実、自分の考えがなく教義に従って「イー!」しか言えないショッカーたちは必ず殺戮マシーンになるので有害。その安易な生き方は人類にとって迷惑です。
早く目覚めて自分の言葉で生きる「主人公」になって欲しいですね。

「主人公」は集団のなかの立ち位置ではない


このドラマもそうですが世間を眺めていて私が気持ち悪いなと感じているのは、最近「主人公」という定義が
“集団のなかで優位な立場にある者/勝ち組・有名人・富裕者・権力者”
という意味で使われていること。

だから「モブ」はそれと反対に
“集団のなかで劣等な立場にある者/負け組・無名人・貧者・無権力者”
という意味となっていて、他人や自分に対する蔑みや嘲笑のために使われています。

現実に社会の立ち位置で差があるのは仕方ない。
親ガチャは実際ある。
能力に差があるのも仕方ない。
(スピリチュアル的に言えば能力とは過去世の努力。経験値が違うだけなので今から努力すればいいが、出生時に差があるのはどうしようもない。死ぬ想いで訓練してきたオリンピック選手と一般人の自分を比べて嫉妬しても意味なし)

でも、「主人公」の定義はそんな集団の中の立ち位置とは一切関係ありませんよね?

主人公の定義は、物語のなかで視点の中心となる人物のことです。
物語にはさまざまな設定があり、主人公が不遇となるストーリーもありますので、“集団のなかのチートなキャラ”だけを主人公と定義するのはそもそも言葉の使い方としておかしいのです。
チートな人の隣にいるキャラ、取り巻きとして遠くから眺めるキャラも「主人公」となり得るでしょう。

つまり「主人公」の定義に集団における立ち位置は関係ないのです。

いつからでしょうか? チートなキャラだけが主人公だと誤解されるようになったのは。

(投稿場所として借りておいて申し訳ないけど)
やはりネットの小説投稿サイトが推し進めた、「俺TUEEEE」創作量産のせいでは?

世の中に偏ったジャンルの創作しかなくなっていつか弊害が出ると思っていたら、やはりこういう時代になった。
食べ物と同じで創作もバランスが必要だったなと思います。
エンタメばかり偏食していると現実を生きる力が育たず、心の健康が保てなくなってしまうかもしれない。
もう少し色んなジャンル、純文学系も読むようにすると不遇なまま終わるキャラも主人公だと理解できるようになるのですがね。


主人公がぶっちぎりに強いパターン・サクセスで駆け上がっていくパターンの創作だけを読んで育つと、現実を突きつけられたとき
「自分は主人公ではなかった…」
とショックを受けて自殺してしまうかもしれません。

実際に最近SNSでも若い子たちのそんな呟きを見かけることが増えました。

先日見かけたときの私の呟きを転載:

こう言っている私は前世?がチート扱いされている者でして。
でも現実で(前世・今世含め)チートだったことは一度もありませんね。
フィクションの扱いを見て得意になる――わけがない!! 不当だと感じて怒りを覚えます。今はフィクションの多才ぶりが羨ましい、などと笑い飛ばすことにしていますが。

前も書いた通り、私自身は集団のなかでずっと自分を「サブキャラ」だと思ってきました
今も「サブキャラ」態度だと思います。いや、社会のなかの立ち位置で言えば「モブ」か。

それでも、自分の人生においては「主役」だし「主人公」ですよ。
どんな情けない人生であっても自分の人生を生きられるのは自分だけ。

こう思えるのは純文学の不遇な物語に触れてきたせいもあるでしょうが、スピリチュアル体験で得た輪廻転生の記憶が裏付けてくれます。

ほとんどの人生記憶で私は不遇で無名でした。幼い頃に死んだ悲惨な人生も覚えています。
しかしどの人生でも私は「主人公」でした。当たり前。
有名でも無名でも同等、同価値の人生です。
有名になって騒がれた人生は、仲間がいたので楽しかったですがね。苦労も多く今も苦しんでいますので、悲惨な人生と同等な感覚。

だから集団のなかでの立ち位置は関係ないと言えます。

ショッカーをやめれば「どんな人生でも君が主役」という言葉は真理なんですよ。納得いくかどうかは知りませんが。
欺瞞でも何でもなく、宇宙の真理でしかない。



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