死の淵にいる人へ。「過去にすがるな」? いいえ、すがってください。人生は思い出だけでも充分

 


 〔2020/6/3筆。2024/7/16トップ上げ〕

 ブログ整理のために過去記事を読み直していてふと、自分が過去にこんな本音を書いていたのか… と驚くことがあります。
多くの人へ呼びかける目的で書いたポピュラーな(需要がありそうな)記事よりも、誰にも読まれずひっそり埋もれている独白記事のほうが真に役立ちそうに思います。

今日、呻いていたのは
 『ヨルシカの詞が胸に響き過ぎる』
という記事。
正確に言えばヨルシカの歌詞に感嘆して呻いていたのですが、この記事には十代の頃の危機が刻まれていて痛いものがありますね。
でも痛いからこそ真実がある気がします。

誰もが通る若い頃の危機。
私の場合、死の淵へ落ちる寸前のギリギリで命が救われました。
よく生き残ったものだ……と我ながら思います。

振り返れば、戦争で肉体が危機に晒されるより、現代のいわゆる“腐った平和”における精神の危機のほうが過酷でした。
何よりも過酷であるのは、「孤独」であること。
愛が無いと誤解してしまうこと。
共鳴する友を見つけられないと早合点してしまうこと。
それ故に、自分の存在意義・生きる意味を完全に見失ってしまうこと……。

私は“前世の思い出”により、自分でも愛された過去があったことを知り、生きていていいのだと知ることができました。
こんな異次元の方法は堂々と自慢できるものではありません。とても他者へお奨めはできません。
ただ私の場合、その異次元の最終手段によって「死」の淵へ落ちるまであと1センチくらいのところで「生」に踏みとどまることができたと言えます。

あの当時は生きることが最優先でした。
だから異次元の方法が必要だったわけです。
今はもう前世であることを否定していませんが、当時は自分自身の前世である必要など全く無いと思っていました。自分と似たキャラクター※が愛され認められた時代があった、その厳然たる事実だけで生きる自信を取り戻すには充分でした。

※たとえば「お勉強ができる」。ただその程度の共通項でも良かった。似たキャラクターが認められるという世界の存在を、当時の私は全く知らなかったので。自分が生きていて良い世界があるということは、存在否定され続け死にかけている者にとっては救いなのです。たとえそれが過ぎ去った時代であったとしても。


このような経験から述べます――

今もし自分の存在を否定されて死の淵に立っている人がいたら、どうか少しだけ視野を広げて見まわして欲しいのです。

両親なり恋人なり友達なり、あなたを認めて愛してくれた人が必ずいるはず。
今、その人たちが近くに居なくても。別れてしまったとしても。
誰かが愛してくれた思い出を忘れないでください。
“あなたには価値がある”と言ってくれた思い出を胸に、生き延びてください。

「自分のことを愛してくれた人など誰もいない」と思っている人へ。
自分自身でなくとも、過去にはあなたによく似たキャラクターが愛され認められた時代があったかもしれない。

歴史でも文学でもいい。
人類の遺産を漁ってみてください。
膨大な数の人間が生きたこの地上には、必ず共鳴できる人がいるはずです。

そのように過ぎ去った時代を拠り所にするのは、決して「過去にすがる・みっともなくて罪な態度」ではありません。
何故なら、過去は未来に等しいので。今のなかに過去も未来も同時に存在するので。

自分で手放さない限り失われる思い出など微塵もない。
今とは“永遠”から切り離された孤独の箱ではありません。

現在、誹謗中傷であなたを否定して殺したがっている人々は、必ず
「過去の栄光にすがるな。過去の思い出なんか無意味、今は存在しないもの。今のお前に価値はない」
と言ってくるでしょう。
それはあなたを“永遠”から分断された“今”という牢獄へ追いやり、孤独死させるための策略。
そんな策略に乗って死んでしまうことに何の意味もありませんよ。

人生に完璧さなど求めてはいけません。
誰でも必ず辛い時があります。
今が悪いからといって過去や未来の全てを否定しては駄目です。
たとえば今現在、誹謗中傷されて存在を否定されているからといって、過去や未来は消えません。決して。

どうしても愛された思い出や共鳴する人物が見つからないなら、空を見上げてください。目に沁みる青さを。
瞼を閉じて風を感じるだけでもいい。
その青を、または風を思い出として味わうためにあなたは今ここにいる。

確かに言えることは、死んでしまったらもう思い出を作れなくなるということです。
空の青さを魂に刻むことすらできなくなる。
だから生きることには意味があります。

 

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