懐かしの「血天井」、怖いものではなく素晴らしい絆の証だった
昨夜テレビ番組で伏見城「血天井」が紹介されていた。
忘れもしない、私が修学旅行で見たあの「血天井」だ。
あの日から自分の運命が変わった。通常の意味を越えた懐かしさを抱く。
番組は宝泉院(大原三千院の参道奥にある寺院)だったのだろうか? 途中から見たので分からないのだけど、 同じ伏見城のものであることは確か。鳥居元忠氏の人生が紹介されていた。
番組を観ている時、メモのため上げたツイートを下に転載。↓
政治思想アカウントなので普段は反応がほとんどないのだが、今回めずらしく反応があって、少々リツイートや「いいね」などいただいた。感謝。
以下センシティブ?な画像があります。苦手な方は注意してください。
いや、高校の修学旅行でも連れて行かれるところだから普通の人は平気なのだろうけど(現にツイッターもセンシティブとは判断していない)。
これでショックを受けるのは私くらいか、笑。
懐かしの「血天井」放送している。
鳥居元忠は徳川家康の忠臣で、家康を天下人にした人だという。
高校の修学旅行、血天井へ行った夜に私は前世を体験したのだった…
ショック過ぎてあんなことになったのだと思っていたが、なるほど忠臣の権化。彼に導かれたのかもな…
2019年9月25日
続きの投稿。
「血天井」はずっと怖いものだと思っていた。
鳥居元忠さん、ごめんなさい。
家康のために死んだ彼が怨みなど抱いているはずがない。
「血天井」は怖いどころか素晴らしい絆の象徴だ。
2019年9月25日
今回ようやくきちんとあの「血天井」の由来を理解した。
あばれる君よ、ありがとう。
当時はショック過ぎてほとんどご住職の説明を聞いておらず、「千年前の血痕」と勘違いしていたくらい。(たぶん年号の「1600年」の「せん~」というところしか聞いていなかったのだろう)
後日少し調べたが、とり憑かれたら怖いと思っていて深入りせずにスルー。(コラ)
そもそも私は日本の戦国時代にあまり興味がないので無知。
そのため今日まであの血痕の主である鳥居元忠についてよく知らなかったのであった。
本当に申し訳ないことです……。
鳥居元忠とは
鳥居元忠って?
ここで番組の説明を参考に少し紹介しておく。
元忠は松平家の家臣・鳥居忠吉の三男。
徳川家康には幼い頃から家臣として仕えた。
1600年関ヶ原の戦いの前、上杉景勝の征伐のためと言って家康が出征する際に伏見城を預けられた。
伏見城は石田三成が挙兵すれば最前線となることが分かっていたが、元忠は家康のためになるべく多くの兵を出し、みずからは僅かな手勢で城を守り「捨て石」となることを家康に誓った。
三成が挙兵した際、4万の兵が迫った。元忠は僅か1800の兵で城に篭もり防衛。この時間稼ぎのおかげで家康は天下を取ることができた。
鳥居元忠はまさに家康を天下人へ押し上げた忠臣と言える。
家康は自刃して果てた元忠を「精忠」として称え、元忠と、彼と伴に戦った兵士たちの血で染まった畳を階上に置いて忍んだ。後に床板は宝泉院などの寺院天井へ掲げられた。
最後の箇所だけ参考のためウィキペディアより引用
その(元忠の)忠節は「三河武士の鑑」と称された。このときの伏見城の血染め畳は元忠の忠義を賞賛した家康が江戸城の伏見櫓の階上におき、登城した大名たちに元忠の精忠を偲ばせた。明治維新による江戸城明け渡しの後、その畳は明治新政府より壬生藩鳥居家に下げ渡され、壬生城内にあり元忠を祭神とする精忠神社の境内に「畳塚」を築いて埋納された。床板は「血天井」として京都市の養源院[15] をはじめ宝泉院、正伝寺、源光庵、瑞雲院、宇治市の興聖寺に今も伝えられている。
家康は忠実な部下の死を悲しみ、その功績もあって……
泣かされる話。
彼が「忠臣の鑑」と呼ばれているという話を知って、ようやくあの時自分が「血天井」に触れたことも意味があったのだと理解した。
改めて自分の体験の全てに意味があったと知る。
あの時、元忠さんは歓迎してくださっていたのだろうか? 温かいお心を感じる。
それなのに無知な現代人の私は寺院に血天井があることで、「怨念の供養」とずっと誤解していた。
申し訳なく想う。
ツイートにも書いたが、彼に怨念などあろうはずもない。
敬愛する主君のために捧げる命は僅かも惜しいとは思わないものだ。
私には彼の気持ちがよく理解できる。
【初来訪の方へ】
このブログに筆者の「前世記憶」に関する記事は膨大にありますが、プロフィールを見ると分かりやすいかと思います。
特に→「経緯1.退行催眠で見た「前世イメージ」と、当初の考え」が端的に分かりやすい話です。これが修学旅行で「血天井」を見た夜に観た記憶。
(記憶の内容についてはごめんなさい、有料の本になっていますが、当ブログ記事を多めに読んでいただければだいたい分かるはず)