我傍的、ここだけの話


Category正史・三国志 日本語訳 1/1

正史『諸葛亮伝』2 少年期~青年期

正史 目次へ本文訳 (養父の)諸葛玄が死ぬと、亮は農作をして自給自足で暮らした。※1 この頃、亮は『梁父の吟(りょうほのぎん)』という歌を好んで歌っていた。※2 亮の身長は八尺(184センチ)※3、つねに自分を管仲・楽毅※4 になぞらえていたが、当時彼の周囲にいた人々は認めなかった。 ただ亮の友人だった博陵の崔州平・徐庶元直らは「まさにその通りだ」と言っていた。吉野解説諸葛亮の若い頃に関する記述です。...

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正史『武帝紀(曹操)』1 生まれ~少年期

正史 目次へ2018/12/30より、『蜀志』と同時進行で『魏志』のうち『太祖紀(曹操の伝)』のみ翻訳開始。本文訳 太祖武皇帝(曹操のこと)は、沛国譙県(現在の安徽省亳州市譙城区)の人である。姓は曹、諱(いみな)は操、字(あざな)は孟徳という。 (曹家は)漢で相国を勤めた参の子孫。桓帝の時代に(曹操の祖父に当たる)曹騰は中常侍・大長秋となり、費亭候に封ぜられた。養子の嵩が後を継ぎ、官職は大尉に至ったが、その...

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正史『諸葛亮伝』1 生まれ、幼少期

正史 目次へ2018/12/20より、『先主伝』と同時進行で翻訳していくことにしました本文訳 諸葛亮は字(あざな)を孔明といい、(徐州の)琅邪郡陽都の人で、漢の時代(前漢)に司隷校尉となった諸葛豊の子孫である。 父は名を珪といい、字は君貢、後漢の末期に太山郡の丞を勤めた。珪は亮が幼いときに世を去った。 その頃、叔父の玄が袁術の所管する予章太守となった。玄は(父親を失くした亮たちを引き取り)、亮とその弟の均を...

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正史『先主伝(劉備伝)』 3 黄巾の乱、義兵として名を上げる

正史 目次へ本文訳 霊帝時代の末、黄巾の乱が起きた。※1 この反乱を鎮めるために、州や郡はおのおの義兵(義勇兵。大義のためにみずから志願する民間兵)を募った。 先主は豪商の出資金で集めた仲間を率いて義兵として立ち、校尉の鄒靖のもとで戦った。 この戦闘で活躍し功績をあげた先主は、安喜県の尉という官職に任ぜられた。  その後、督郵(見回りの役人)が安喜県を訪れた際、先主は謁見を求めたが拒絶された。怒っ...

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正史『先主伝(劉備伝)』 2 少年期~青年期

正史 目次へ本文訳 先主は幼くして父を失ってから、母と草履を売り、蓆(むしろ)を織って生活の糧としていた。 (劉備が少年期を過ごした)家の東南角の垣根の上に(覆い被さるように)桑の大木があった。高さは五丈余りもあり、遠くから見ると葉が生い茂って位の高い人が乗る車の傘のように見えた。往来の人は皆この大木の非凡さを不思議がった。 ある人は言った、「この家からは位の高い人が出るぞ」。 先主も幼い頃、親戚...

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正史『先主伝(劉備伝)』 1 生まれ、先祖について

正史 目次へ本文訳 先主は姓を劉、諱(いみな。下の名)を備、字(あざな)を玄徳といった。 涿郡涿県(現在の河北省保定市)の人で、漢の景帝の子、中山靖王劉勝の後裔(子孫)である。 劉勝の子の貞が、元狩六年(紀元前117)に涿県の陸城亭候の爵位を受けたが、納めるべき酎金を納めなかったので位を失い、そのままこの地に住んだ。 先主の祖父は雄、父は弘といい、代々州郡に仕えた。雄は孝廉に推挙され、官位は東郡の...

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正史・三国志 陳寿著~2000年代の日本語訳 目次

〔目次〕解説・この翻訳の使い方蜀志 魏志この翻訳の使い方三国時代の正統な史書とされる陳寿著『三国志(三国書)』を、現代日本語でわかりやすく訳し、ネット上に公開していく試みです。どこまで翻訳できるか分かりませんが、少しずつ上げていきます。気長にお付き合いください。インターネット上での閲覧は自由、永久無料。(引用については下記参照)長期保存できるようインターネットアーカイブにも残していきます。『演義』...

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