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諸葛亮は粛清したのか? 今、私が思うこと

〔常体記事。※2022/6/18 改稿。読みやすく修正・解説追加・自虐を控えた。客観的な記事は別館にあります〕

前記事で「私には、粛清する人の気持ちが分からない」と書いた。
でも実は私が最も恐れているのは、
「諸葛亮が粛清していた」
という記録が発見されることなのだ。

ただ、
「諸葛亮が実は粛清していたという記録が発見されました!」
と中国政府や左翼学者が発表したところで、共産らしい政治的な捏造だと思うほうが筋が通っているのだが。
それでもきっと私の心は穏やかではいられないだろうな。

【別館解説】現代日本では蜀・諸葛亮は貶められています。これは政治的プロパガンダ

もしかしたら、私の記憶と諸葛亮は関係がないかもしれない。
しかしこれだけ深く関わってしまったのでね。
たとえ前世や輪廻転生などなかったとしても、私は彼との性格的共通項も明らかにしてしまっているから、彼の評価に私も少なからず巻き込まれることになってしまうだろう。少人数の世界で、だけど。

そんなことを考えていた折、この知恵袋の質問が目に入ってしまった。
 ⇒諸葛亮は、気に入らない人物は左遷したり粛清したりする人物だったのでしょうか?
三国志の諸葛亮について。

諸葛亮は、気に入らない人物は左遷したり粛清したりする人物だったのでしょうか?
諸葛亮を敬愛する陳寿が書いている正史からもそう読み取れるというのでは、実際はもっと酷いものだったのではないかと思えるのですが…。

劉彭廖李劉魏楊伝(特に最初の二人)は言うまでもないですが、
楊洪伝に登場する黄元は、諸葛亮に気に入られていなかったので劉備の死後を恐れて反乱に踏み切ったようですし、
費詩伝では費詩が左遷されたことについて、習鑿歯と裴松之と陳寿が寄って集って諸葛亮を弁護していますが、逆に不自然というか…。

諸葛亮の政治は公平で完璧、皆がこれを慕っていたのだというような評判には、首を傾げたくなるのですが…皆さんの御考えを教えてください。

補足諸葛亮の狭量さや猜疑心故に暴発した人が多い気がするんですよね…彭羕とか黄元は特に…
なんか、末期の劉邦みたいだな…と私は思ったり
/hur********さん 2013/11/1018:43:30
この人は別に「曹操崇拝カルト教」の信者というわけではないらしく、従って闇雲に誹謗中傷したいわけではない。ただ歴史雑談をしたいだけの人らしい。だから考えてみる価値がある。

客観的に他人として諸葛亮を見た時、どうなのだろうな?

今のところ私が諸葛亮の記録を眺めていて、腑に落ちない点はなかった。
粛清の気配はない。
左遷も理由があり、政治においては正当だろう。

性格的に、(犯罪者に対して)狭量な印象があるのは否めない。
私も犯罪者に対しては寛容になれないし、リーダーの器ではないからよく理解できる。


――ちなみに一応私の「記憶」を語っておくと、粛清した記憶はもちろんない
自分一人の我がままで
「アイツ気に入らないから遠くへやってしまえ」
と左遷したことも一度もない。
むしろそれができたら良かったのかもしれない。〔下の追記参照〕

私は他人を好き・嫌いだけで判断しない。それは他人にあまり興味がないということにもなり、一種の特殊性と言えるのかもしれないが。
ここが劉備などのリーダータイプとの決定的な違い。好みでひいきしない、好意を顔に表さないので、周りは不安になり私に心服することができないのだと思う。
ああ、今ようやく気付いたが、「えこひいきしない」「感情的な差別をしない」ことは人間にとって怖いことなのだな。漠然とAIに怖さを感じるのはそのせいか。

とにかくそんな気質なので、私は今でも職場その他で周囲の人に正当さ(誠実さ)だけ求める。
仕事は正当に行ってくれたならそれでいい。
優秀だとか、劣っているということさえも関係がない。能力などは周囲がカバーできる。
ただ性情の悪さだけはどうにもならない。
犯罪行為をした者は放置するわけにはいかない。それは他の、正当に仕事をしているまともな人々を守るために。

細かく具体的な記憶はないが、あの当時、何人かの部下を処分をしなければならなかったことは覚えている。
全てがやむを得ず、何かしら「悪さ」をしでかした人に対して処分をしただけだった。
もしその時のことが記録に残っているなら、その記録文は表面的な話しか書いていないと思う。外部の人にはとうてい事実など分からないはず。
現実には記録文に残っている以上の、筆舌に尽くしがたい酷い行いがあったため処分せざるを得なかった。
放置したら他の人々の不満が爆発して暴動が起きるというほどの規律違反、犯罪行為だ。

何故そのような犯罪行為が多かったのかと言うと、本人の性格による犯罪を除けば、主人の死後に逆転のチャンスを狙った者が多かったため。
以前から私に対して嫉妬を抱き、潰そうと狙っていた者が多かった。
私と親しくしていた者たちもそちらのグループに取り入れられ、罪を犯したため処分せざるを得なかった。それは反対派による、私を孤立させるための策略だったのだろう。

(駄目だ、思い出すと重い。詳しいことを覚えていないのに目の前が暗くなる)

本当のことを言えば、もし私が権力闘争に勝つため「粛清」していたら50%は処刑せねばならなかった。
私に嫉妬心や敵対心を抱いていた者たちはちょうど半数いたのだから。
むしろ私が主人の死後、何ら権力闘争の手を打たなかったために、あのような混乱を生んだとさえ言える。

隣国を眺めていると、権力闘争の場では粛清などするのが当然なのか? そうしなければ真っ当な仕事をすることができないのか、と思ってしまう。

……ああ……、いや。
やはりそれは違う。
今の私の人格はそんな過去に耐えられない。
やはり粛清などしなくて良かった、と思う。
粛清する独裁者になるよりは、「無能」の評価を得てバカにされたほうが遥かに良い。

〔記憶語り追記〕


“それができたら良かったのかもしれない”と言う裏付けとして、きちんと記憶を語っておく。

当時、権力を求める者たちが私に対する「反対派」※を形成し、私を引きずりおろそうとしていた。
陰で誹謗中傷するなど悪質な貶め工作をしており、上にも書いた通り犯罪を行う者までいた。具体的に彼らが何をやったかは覚えていないし、公表されてもいないはずだが、おそらくその犯罪の結果の一部が記録に残る「処分」だろう。
あくまでも「一部」。それも私の処分は常識から見て甘いところがあって、支持者たちを悲しませていた。

※この「反対派」は左翼学者らが言う「閥」などではなく、単に権力を欲する者たちで出身地域も関係ない。私も「閥」など形成していない。「閥」って何のこっちゃと失笑した。(ところで反射的に「閥」という言葉が出てくるのは近代中国の知識のほうが強いからだ。そのうち「パン」とか「曹操の本拠はペキン」などと言い出すだろう、笑。やはりどうやら彼らは中共の歴史教育で育った者たちらしいな)

そもそも、私は特殊性格なのか欲得や保身に興味がない。派閥など形成するのは、とうてい無理。だからこそ反対タイプの人たちに憎まれ集中攻撃を受けたのだ、今もそうであるように。もし私が彼らと同次元のタイプだったら“同類同士”で共鳴し合い、甘い汁を吸わせて手玉に取ったのだろう。
それともう一点、私が見た目や印象が「弱い」ことも要因。
主人の死後に反対派が発生したのは私の性格が狭量だから? と言われているが、おそらくそうではないと思う。遠く客観的に見れば、私が見た目に迫力がなく声を荒げたこともなかったため、性格的に「弱いタイプ」に見えたからだろう。つまり脅せばすぐに倒れると計算され、権力を奪うことが可能と思われ襲い掛かられた。狼の群れのなかで一人、無防備に立っていたようなもの。

ある若者は私に対する耐え難い悪口を耳にして、その悪口を言っていた者たちの名を挙げ、「あの者たちを死罪にしてください!」と私に泣いて訴えて来た。しかしその時、
「悪口くらいで死罪にはできないよ。耐えてくれ」
と私は断った。
気の毒なことをしたと思う。
私の処分が甘かったゆえに、あのあと彼らはどれほど苦労したか? 本当に申し訳ない。

しかしそれでも「大粛清」に至るような処罰が、当時の私にはどうしてもできなかった。
“上位に歯向かえば一族皆殺し”が当然。そんな東洋政治の常識というものに納得できなかったし、私が実行するのはとても無理だった。

メモ


上のURLに話を戻す。
ここの回答者たちは、いつもと違い史実知識と論理があった。
概ね合っていると感じたので引用しておく。
彼らは決して手放しで諸葛亮を称賛しているわけではなく、欠点についても述べているのが正当。おかげで心が落ち着いた。深く感謝……。
(ほぼ自分用メモ)

ベストアンサー:
諸葛亮の出師の表では「後漢が滅んだのはつまらない人物に親しみ立派な人物を遠ざけたから」と言っています。彼の人事の価値判断は「まじめに職務する」「精一杯頑張る」とかそういう感じなんでしょう
曹操のような清濁併せのむ人事とは違うタイプ。

左遷や粛清も時には必要です。 それらをしないで国を崩壊させたら元も子も無いでしょうし・・・(まあそれらの判断は諸葛亮がやっちゃうわけですが)

別に諸葛亮が聖人君子とは思いませんが立派な政治家だとは思います。


諸葛亮は「政治」として左遷したのであり「君嫌いだからあっち行け」という理由ではないと思いますよ。。「後頭部が出っ張ってるから」というのは逆に諸葛亮を貶めていますな(笑)

①劉封・・・後継者争いの火種を消すため・・・ 曹魏ですら曹ヒ派と曹植派で争っていたのですから・・・ 劉備軍で争っている暇はないでしょう。 というか諸葛亮が劉封に私怨なんてあるんでしょうか。

②彭羕・・・左遷されたら馬超に謀反を唆す。 「こういうことをしそうだから安心できない」(謀反しなかったら諸葛亮がひどい扱いになるでしょう) 荀彧が袁紹陣営を批評したのに似ています。 左遷したのは劉備と一緒に相談したうえで決めた。

③廖立・・・いろんな人を誹謗する。 曹操や荀彧をこき下ろした禰衡のような言動。 こういう人をほうっておくのは国の威信にかかわるのでは・・・ この人自身諸葛亮死亡を嘆いた

④李厳・・・職務怠慢ゆえ? 確かに急に平民に落とすのはどうなんでしょう・・・たぶん意見の分かれるところ 左遷する前はむしろ良き協力者として厚遇してると思うのですが・・・

⑤劉琰・・・車騎将軍のくせに職務怠慢(この人何かしたのか?) 魏でいう張コウが働いていないようなもの。 魏延と仲が悪かったとか。 劉琰自身に罪はないかもしれませんが魏延と連携取れなかったらヤバイでしょう。 お飾り将軍?が前線に居てもこまるでしょうし・・・(政治的には仕方ないのか・・?) ところでこの人の最後はかわいそうですね。

⑥魏延・・・諸葛亮の価値判断では後継者になれない。 諸将と連携があまりとれない。 しかし武将としてはむしろ最も頼りにしてたでしょう。 冷遇より厚遇してたのでは。

⑦楊儀 ・・上と同じくだめ。 「魏に行けば良かった~~」 蜀の大臣が吐く言葉じゃありませんよ。

⑧黄元・・・②と似たような感じ。 というか安心できない人手元におけないでしょう。 魏でいう夏候一族も宗族もいない蜀ですから。

⑨費詩・・・ 皇帝即位ムードを壊す。 費詩が「左遷されるべきか否か」は人により違うんでしょう。 考え方もいろいろありますよ。「正統論」ってやつでしょうか?
諸葛亮は後に復帰させてるし、諸葛亮が気に入らなかったから左遷したわけでもないような・・・・


自分の感想としては諸葛亮が悪意で人を左遷しているわけではなく、 その判断も特別間違っていることもないと思います。
もちろん人それぞれ感じ方は違うでしょうから、人物の評価も変わってくるでしょう。 そこが「三国志」の面白さですよね。

長い投稿失礼しました。

※補足について
そう思われますか、なるほど・・・。 諸葛亮が下した処置を不服に思う人もいたと。 (彭羕 黄元がその例?)
それだと、評判である(「完璧」で公正な政治)を「文字通り」受け取るのが難しい、のも分からないでもないですね。
自分が彭羕 黄元に対して思うのは「将来不安ゆえの暴発」というより「死に掛けの蜀を劉備に成り代わって奪う」という野心の表れだと思います。 不安なら魏や孫呉に逃げればいいのに・・・

劉封処分で「不安分子である俺たちは消される!」と思ったのかもしれませんが・・・ どっちにしろ2人共「積極的な忠臣」とは言えないでしょう。 「彭羕は傲慢 黄元は凶暴」らしい・・・

「手元に「忠臣」とは呼べない言動を繰り返す信用できない人達がいる」場合にどういう行動を取るべきかを考えた場合、諸葛亮の選択は間違っていないと私は思うんですよ。 劉備、蜀漢も安定した基盤が欲しいはず。 手元を忠臣多めにするのは正しい選択だと思いますよ。(有能な人は忠臣でなくとも使う。・・・もちろん利害を天秤にかけて、 なんですが)

地方とはいえ2人とも太守ですし・・・それを不服に思うのって「それ本当に不服なのか?」と思います。(彭羕は後に自分の過ちに気づいた) 曹魏で言うなら許攸・・いや、それ以上にひどいでしょう。

※補足2
上の方々の意見は的を得ていると思います。諸葛亮は厳格な法家主義を貫いたんでしょう。ところで劉封の上庸派遣はかつて劉奇が江夏へ赴任したのに状況が似ていると思いませんか?
怪しい孟達の監視というより、政治的混乱を避けるべく劉封を成都から遠ざけたような感じがします(それの補佐が有能な孟達)(露骨な左遷でないのがミソ?)
/te9********さん 編集あり2013/11/1419:41:18


質問した人からのコメント 2013/11/15 08:13:56

皆さんありがとうございました
相変わらず私が穿った見方をしすぎだったようですw

良回答:
ん~。

狭量といえば狭量ですが、まあ、思うに、孔明と曹操や劉備では立場が違う、ということではないでしょうか。

曹操や劉備は、言ってみれば専制君主で、多少のわがままやえこひいきも許される立場でした。
許されるというか、それで、組織が大きく崩れることはないというか・・・、まあ限度はありますが。

孔明は、事実上の蜀の主とはいえども、立場は一臣下です。
一臣下が専制的な権力を振るうと、それが後々の弊害になるのは間違いのないことです。
孔明が公明正大な政治であった(もしくは公明にありすぎた)のは、つまりはそういう事なのだと思います。

劉封も彭羕も、まだ劉備の存命中のことで、こちらの決断は劉備のもの。
これで孔明が佞臣で讒言を吐く人で、劉備がバカ殿というならまた、別ですが、劉備にも人を見る眼はありますから、二人の総意でしょう。
劉封は、多分に劉備の感情も入っていますし、まあ多少は孔明が焚き付けたきらいはありますかね。
費詩も劉備時代の左遷で、孔明は特にひどい扱いはしてませんね。南征に従軍したとあるので、むしろ名誉回復してるんじゃないでしょうか。
廖立も傲慢さがだめでしたね。

李厳は孔明の理解者であり、得がたい人でしたが、処罰しました。馬謖と同じで、孔明にとっては辛い判断だったと思います。

劉琰も孔明は別になんもしてませんね。談論好きで実務能力は低い人みたいで、長らく劉備の賓客扱いだった人ということで、まあ、許靖なんかと同じで名誉職的に高位にいただけでしょう。
どうも、晩年は認知症だったんじゃないですかね。失志慌惚、とあり、その後に妻の胡氏を離縁しています。

魏延・楊儀はまあ、自業自得ですね。黄元も。


孔明は一臣下の立場でしたから、何よりも秩序を重んじたのだと思います。
下克上の風潮を退け(上司を激しく非難したり、自分の現状を嘆いたりするタイプ)、過失には必ず処罰をもって報いる、という事を厳しく行ったのだと思います。
蔣琬らの助命も聞かずに馬謖を処刑したり、李厳を平民に落としたり、もし孔明が劉備の立場だったらやりすぎだったかもしれませんが、丞相という立場では、なかなか難しいトコだったのでしょう。少なくとも孔明はそう考えたのでしょう。

黄元なんかは、どういう理由で孔明に嫌われていたのかは知りませんが、一人合点で反乱したようです。
おそらく、孔明は、かくのごとく私情を挟まず、個人的に気に入らなくても、殺すようなことはしなかったと思います・・・出世させたかは別ですが。

まあ、ある意味、冷徹に人物を評価して危険因子を未然に潰していたのでしょう。
まあ、曹操のように、才能さえあれば、性格はどうでもいいという斬新な登用ではなく、オーソドックスな儒教的な思想で、能力よりも人格優先の評価だったのかな、という感じはします。

ただ、すでにあるご回答にあるように、こうしたしっかりした組織を作り上げれば、下っ端は仕事がしやすく、安心できますから、孔明をみんなが慕ったというのはわかる気がします。まして、ちょっと前の劉璋がちゃらんぽらんでしたから、なおさらでしょう。
これは、蜀科を制定したころの議論でもわかります。孔明はあえて厳しい法律を制定して、人民を引き締めに掛かったわけです。当然、それで上の者のいい加減を許すわけにはいかなかったでしょう。


補足について

思うに、孔明は狭量な部分はあったとは思います。杓子定規というか、厳格すぎる面はあったかと。
しかし、猜疑心といえば、これは違うかなあ・・・。猜疑心というのか、不安要素は少しでも除くという発想でしょうか。孔明の北伐戦略にもそういう孔明の性格は見え隠れしている気がします。

実際、彭羕や廖立が出世して高位に就いたとして、彼らが孔明のように謙虚で法に厳格な政治を行えたかは疑問です(無能ではないからなおさら厄介でしょう)。
逆に、直言を吐く費詩のような人でも、孔明はことさら嫌ったりはしません。孟達の反乱に際しては、多少不明瞭ながら、費詩の意見を受けて、孔明は結局、孟達を見殺しにした感じもします。

んまあ、孔明が丞相ではなく、皇帝だったら、どういう人事を行ったでしょうかねえ。
人を使いこなす自信があれば、曹操のような能力主義でいったかもしれませんが、どうも孔明は儒教的な道徳主義なタイプに思えますね。
孔明の場合仕える主君の劉禅が、善良だけども人に影響されやすい、流されるタイプでしたから、彭羕とか、そういうクセのある人を劉禅の側には置きたくはないでしょうね・・・。
孔明が作り上げたガイドラインのおかげで、良くも悪くも費禕の時代までは、凡庸な劉禅を主君としながらも大きな混乱もなくやっていけた、という感じはします。もしかしたら、孔明の道徳主義は、劉禅の性格を慮ってのことだったのかもしれません。
/kou********さん 2013/11/1418:42:08
追記。
この方は本当によく記録を見ているな。分析は全くその通りで頷くところが多い。
(褒めたところ撤回。後の回答で、この人は史書を読んだことが一度もないと判明した。彼はただ某孔子学院にて教材として与えられたテキストを読んでいるだけの人と思われる。ということは、おそらくこの部分だけ中国学者の考察が妥当だったということになる。党のプロパガンダに関わりない件に限れば、中国学者は意外に誠実なことがある)

>蔣琬らの助命も聞かずに馬謖を処刑したり、李厳を平民に落としたり、もし孔明が劉備の立場だったらやりすぎだったかもしれませんが、

(自分の記憶と同一視して語ると)
むしろ親しかったからこそ厳しくしなければならなかった。
反対派はわざと親しい者を策略で取り込み罪を犯すよう仕向ける。そこで甘い処罰をしたら国家組織も崩壊する。

〔追記〕これは「最大多数の最大幸福」での生贄、ロクヨンでの虐殺とは意味も状況も全く違う。実際に罪ある者を処罰しただけなのだから(被害者がいることを忘れてはならない)。ここまで違うものを、わざと混同させて印象操作し誹謗中傷している左翼たちは我が身を振り返れ。日常的に思い付きでの処刑、拷問を行っていた「我が曹操様の正義の行い」を賞賛しているわりに、法に則った処罰を非難するのは何故か? 自分たちが恣意的な殺人をしたいから、国家や法を守る意識が僅かもないからだろう。暴力至上主義の本性丸出しだ。

>黄元なんかは、どういう理由で孔明に嫌われていたのかは知りませんが、一人合点で反乱したようです。

その人はそれこそ劉備の死を権力奪取のチャンスと思って謀反を起こしたものだろう。
「孔明の狭量さが怖かった」「自分は嫌われていると思ったから、殺されるのが怖くてやるしかなかった」
などと本人が語ったのだとしても、それは言い訳に過ぎない。
結局はこれも一方的な、権力闘争。
権力欲しさで反乱を起こすというのは、諸葛亮には理解が及ばない行動。ただやった行いについて処罰するしかない。

>冷徹に人物を評価して危険因子を未然に潰していた

未然ではなくて、後手だったと思う。
犯罪という結果に対して処罰したのみ。
(現代用語で恐縮だけど、諸葛亮は「罪刑法定主義」だ。法に敏感な者なら、必ず無意識的にそうでなければならない)

>才能さえあれば、性格はどうでもいいという斬新な登用ではなく、オーソドックスな儒教的な思想で、能力よりも人格優先の評価だったのかな、という感じはします。

おそらく儒教は後付けの理由に過ぎず、生来の道徳主義者だった。
才能ではなく人格優先というのは正しい。人の職能などはどうにでもなるが、人格はどうにもならないのだから。

>もしかしたら、孔明の道徳主義は、劉禅の性格を慮ってのことだったのかもしれません。

善良な者たちで大切な遺児を囲みたいのは当たり前。
でも別にそれだけではなくて、やはり生まれつきの道徳主義者だったのだろうな。

【参考】この投稿の後で知ったが諸葛亮は現代定義の「ギフテッド」であり、倫理観が高いのは生来の特質。特に計算などではない。

【現代の筆者について】儒教好き? 「許せない」という想い、この道徳観はどこから来たのだろう

何事も「計算」と思われるのは、フィクション孔明の影響なのか……。

諸葛亮の公正さで困惑するのは朝廷や行政に仕えている家臣たちです。

一般の民にとっては法を公正に執行してくれる諸葛亮はありがたい存在です。
(普通は賄賂がまかり通って法がねじ曲がるのが中国です)

家臣から見れば、賄賂を受け取らず公私混同しない諸葛亮のような存在は怖いのです。
家柄とか血筋とか私的な付き合いとか賄賂とかが通用しない。
むしろ、賄賂を受取ってくれた方が安心できたのでしょう。

当時は賄賂のやりとり・一族に仕事を融通する・金貸しや金儲けなどは当たり前に行っていた時代です。
反乱したり左遷されたりといった人物は、思い当たることがあり過ぎるぐらいあると思います。

当時は犯罪を犯すと一族にも類が及びますので、反乱したほうの人物や一族のほうが猜疑心に捕らわれていて、一族の中から「このまま黙っていては殺されるだけ」という考えが出てきて、「反乱すべき」という行動に出たのではないでしょうか。

諸葛亮は猜疑心が強いのではなく、全く中立的に物事を見て判断しているので、相手側から見れば冷たい処遇を受けたと感じるのかもしれません。

中国は、三国志以前から疑心暗鬼になってこんなことばかりです。
忠誠心だけで仕えているのではなく、利益でも主従関係を結んでいます。

諸葛亮の家臣たちへの処罰に関してはかなり甘いと思います。
軍令違反した人物を処罰していないことも多いので。
処罰するにしても、よほど証拠がしっかりしていないと処罰に踏み切っていないと思います。
/tok********さん 2013/11/1312:21:52
>諸葛亮の家臣たちへの処罰に関してはかなり甘いと思います。

実はその通り。他の中国トップと比べると甘過ぎると分かるだろう。
しかし今までにない評価だ。異次元で凄いと思った。歴史家の評価を無視して、自分なりの観察で考えている。
一般人のほうが歴史家より鋭いな。そして誠実な人も多い。


今回、色々な意味で勉強になった。感謝。
「知恵袋は悪口を言いたいだけの人たちの溜まり場」と思っていたが(事実そういう面はある)、これら回答を読み、まともに考えている人もいるのだと知って安心した。

今日はちょっと人間が信じられて、嬉しい。


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