現在の自分についての話だから気楽に公開で書くけど、また愚痴っぽくなってしまったらすみません。
私はたぶん今でも
「狭量」
「ルールに厳しい」
「細かそう」
というイメージを持たれていることと思う。
実は子供の頃からそう言われてきた。
上の言葉はネガティブな評価で、良い評価だと
「優等生タイプ」
「模範的」
「道徳家」
ということになるらしい。
今まで最も恐縮した評価は、
「はきだめの鶴」
「泥中の蓮」
かな。
……書いていて赤面する。本当にあり得ない。
(すみません。これは自慢ではなく自虐で公表しています。怒っていいですよ、これを言った人に)
こういうイメージを持たれることが子供の頃は嫌で嫌でたまらず、十代後半になるとあえて遅刻したりするなどルーズな人を演じたりした。
下品な言葉遣いや態度も無理に身に付けてみた。
でも、そういう演技も「痛い」ことだ。
大人ならその痛さ・恥ずかしさが分かるはず。
前世記憶を得て、ありのまま生きていいのだと悟ったのが十七歳の頃。
以降、自然に生きることにした。
するとやはり性格は徐々に元へ戻っていくものらしい。
最近ではまた、「狭量」「細か過ぎ」「真面目過ぎ」と言われることが多くなってきた。
やはり、私には
「許せない」
というラインがある。
人としてアウト!な行い、嘘をついたり明白な犯罪に抵触する行為は、たとえ長年付き合った友でもダメと言ってしまう。
そこだけは絶対に譲れない。厳しい対処をしてしまう。(このブログでもやらかしている通り)
現代ではこういう厳しい対処は引かれると分かっている。きっと軽蔑され悪口を言われているだろう。
狭量な印象を与えてしまうことは仕方ないと思う。
でも私が「許せない」と怒るまでの許容ラインは、実はとてもとても高い。
許せないと思う行いの例
・快楽殺人、幼児や弱者を虐待する・とてつもない嘘をつく
・嫉妬で誹謗中傷、人権蹂躙のネット書き込みをする
・他人を騙して金を掠め取る
・マルチやセミナー、宗教など有害な場所へ通う、家族に迷惑をかける
等々。
つまり人類原始の道徳基準、十戒レベルではないかと思う。
たとえば年上に敬語を使わなかったなど、日本人が怒りがちな細かいルール違反などに目くじら立てたことは一度もない。
表面的な礼儀などはどうでもいい。多少の不潔さにも眉を顰めることはない。
この点、世の中の「潔癖な人」と違うところ。
【別館の関連記事】「善悪二元論は一神教からの輸入」と言い張る嘘つきが、蛮行を正当化するために世界から善と道徳を消し去ろうとしていますので要注意。(もともと善意を持たない魂だからこそ、こういうカルト思想に染まるのだと思います)
私は前世も今世も、ただ「ちゃんと仕事してください」「ちゃんと生きてください」と言ってきただけなのだが。
その普通基準がこれほどにも受け入れられないなら、やはり今後も私の生きづらさは変わらないのだろうな。
もはや諦めの境地。
余談、「儒教的」という謎の評価
一応書いておくと、2018年現在日本に生きている私が「儒教教育」を受けたことは一度もない。
たぶん我々世代は儒教から最も遠い時代に育ったのではないかと思う。
「アンチ儒教」で「フリーダム!」と叫ぶ大人たちのもとで育った世代。かつて東洋に儒教という思想があったことも、かなり大きくなってからでなければ知ることはできなかった。
だから少なくとも今の自分に関しては儒教の影響を受けた道徳観では絶対ないと言い切れる。
今もたまに年配の方から「あなたは儒教的ですね」と言われたりするのだが、謎過ぎる。あり得ないことだ。
むしろ私は何の思想にも拠らない生来の基準を持つからこそ、犯罪者から見たらやっかいな「敵」に見えるはず。彼らも本能で自分が受け入れられないことを悟るので、私を攻撃してくるのだと思う。
関連する話: (別館)『法治とは何か。法の適用とリーガルマインド』に、道徳と法治の関係について書きました
続きの雑談 >>「許せない」という想い、この道徳観はどこから来たのだろう?