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「狭量と言われる」という記事を書いたらアクセスが高い。笑
やはり、私は皆さんに「狭量な奴」と思われていたのだろうな。
きっと悪口を言いたい人には好都合のネタなのだと思う。二時間ドラマ的な、ステレオタイプのレッテルを貼って満足されたいのだろう。

「許せない」
などというセリフを吐く者は、現代では極悪非道のサイコパス扱いされ叩かれる。
現代の創作でも
「犯罪行為を許さない」
とのたまう主人公が怖い殺戮者になる展開がスタンダードだ。
 例:『デスノート』は典型的。『時の地平線』主人公の怖い一面もこのスタンダードに拠るだろう。(『時地』には若干、それ以上の根拠があったような気はしている。現代素材を得たか? →妄想、アホ記事。笑)

なぜ被害者に同情し、憤りを覚えることが「サイコパス」ということになるのか、私には理解不能なのだが。
犯罪者だけチヤホヤされて優遇され、被害者はずっと泣き寝入りしつづけなければならないと言う現代。それどころか、被害者のほうを責めて罰する風潮のある現代の「正義感」は私には全く理解できない。
西洋の宗教思想なのか何なのか知らないが、犯罪を許し、人を殺したり苦しめることを推奨する思想は理解しがたい。これは悪魔による悪魔のための教義なのではないかと思う。
※何度も書いているけど私は「悪魔」の存在を信じる者ではありません。ここは彼らに合わせて彼らの言葉で語っただけ

それはともかく、私が古典的な道義心で生きている人間であることは否定しようのない事実だ。


「この道徳観はどこから来たのか?」と自分で気になった。

よく聞かれるご質問や批判

Q.あなたは儒教好きですか?

に応える意味でも書いておく。

前々記事で書いた通り、現代の私は儒教教育を受けたことが一度もない。
だから年配の方々が私に「あなたは儒教的ですね」と言うのはきっぱり違うと言える。

私の妄想的な話を受け入れてくださる方々は、
「あなたは東洋人として生きた前世で儒教を学んだはず。その影響が強いのでは?」
と考えると思う。
でも実を言えば前世の私も、儒教に全面的に共鳴していた者ではない……、はず。たぶん。

「儒教、嫌い」と言ったら物凄く怒られるだろうな? 怖いなあ。笑

理解して欲しいのは、儒教についての解釈が漢代と後世とは違うはずであること。
儒教で私はかろうじて『孟子』だけに共鳴する。『孟子』は性善説への偏りを除き、完璧だ。『孔子』は良いところもあるが、全てを受け入れられない。
だが漢代は『孔子』推しではなかっただろうか? その場合、全面的に受け入れることはない。
(私の忠義に見える行動は敬愛敬慕が基礎。ルールに従っただけ、と見られるのは不当に感じる)
近代日本も孔子を悪用したので、私は「儒教、嫌い」と思う。

いっぽうで矛盾なく受け入れられるのは古典的な西洋思想のほう。
先日の記事に追記した、「道徳と法治の関係」で書いた通り、法律についての考え方は結局ソクラテスの影響が大きい。
私はやはり古代ギリシャ思想に共鳴するところが多いらしい。
それはつまり、自分の魂のルーツであるからなのだろう。
(プラトンの著作はおそらくキリスト教以降に書き換えられ、共鳴できない部分が多いのだが)古代の西洋にあった「善」という考え方が自分の根幹に近いという気がする。


なおこれは、あくまでも地上の思想に投影するなら、という話。

『孟子』も『ソクラテス』も根本的な自分の思想を作ったわけではないと思う。
単に共鳴したから従っただけ、とも言える。つまり、元々自分の中にあった道徳観に一致しただけのことだ。

元々、魂の本質として、私が西洋的「善なるもの」や東洋的「道義」に共鳴する部分を持つことは確かだ。
こういった感覚はどうも教育では身に付けることができないらしい。どれだけ教えても、道義を理解できない人が存在する。
ニーチェなどを読んでいると、どうやら本当に元々「善」「道徳」を持たない魂が存在するらしいと分かる。それは本質個性なのでどうしようもないことだ。

本能で動いているだけの私を「偽善」と責めることが不当であるのと同じように、元々「善」を持たない人を教育で矯正しようとするのは不当なのだろうな。

結論。
結局、道徳観というものは魂が地上へ携えてきた、魂の性質に過ぎないのだと思う。
人が善悪で二分されているように感じられるのは、それぞれに魂の歴史や経験が違うからだ。

魂が生まれつき本性として善悪の基準を持つのか、それとも経験で身に付けるだけなのかは私にも分からない。


余談、占星術で読む正義感

占星術で考えるなら、私のネイタルは一般的にはそれほど正義感が強いとは解釈されないホロスコープだろう。
今世ネイタルホロスコープについて語っています

火のサイン、特に射手座や牡羊座に感受点があれば正義感は強くなりがちだが、私は風のほうが強く合理がベースとなる。
(と、言うのは現実にも正しいか……)

ちなみに土の要素が低いので、「規律」を守る風紀委員なのではなく、本質的な道義に生きるタイプだということは分かってもらえるだろう。
道義を反映しておらず法律にもなっていない、存在意義の理解できない「ルール」に対してはむしろ反逆的で、わざと破ったりする場合もある。だから、薄っぺらいステレオタイプなイメージで「風紀委員」と思われると違う。

あくまでも道義がメインにあって道義に従っているだけの者。
そもまた合理の一種として私は捉えているのだが。

再掲:究極の合理は道理に等しい

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吉野 圭-Yoshino Kei
Posted by吉野 圭-Yoshino Kei


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