2004
May
02
-
緑雨
これは小説(フィクション)です。執筆2004年5月2日 『rainy days』掲載
緑に浸された木々の中、あなたは立っていた。
白い傘に降り注ぐ雨の筋は銀色に光る。薄い青のスカートが、光に囲まれて淡く滲んでいた。
まるでそこだけ太陽の光が当たっているようだった。声をかけるのも忘れて、光の場を遠くから眺めてみる。その姿が何度も見続けた幻のような気がして怖くなった。けれど十五年ぶりに見た真っ直ぐな背中は、確かに記憶にあるものと同じだった。
くるりと傘が動いた。
僕を見つけた、あなたの笑顔が輝く。
白いブラウスの袖口が濡れるのも厭わず、高く手を上げて振るあなたに、僕も駆け足で応えた。
カップに添えられた彼女の手は、細く頼りなく見える。
先ほど手を取って公園内を歩いた時、思いがけず痩せていることに気付いて驚いた。
「元気……ご両親は、お元気ですか」
当たり障りのないことを口にしてみる。
会ったこともない彼女の両親の話を聞き、相槌を打ちながら、本当に聞きたいのはあなたが幸せかどうかなのに、と思う。
「ユウちゃんは、本当に大きくなったわね」
さらりと彼女が口にした言葉に僕は気恥ずかしさを覚えた。
「それは、もう二十歳ですから」
「背も私より高くなって」
「ええ」
「びっくりしたわ。あの女の子みたいだった祐ちゃんが……」
「あの、」
僕は耳まで熱くしながら言った。
「ちゃん、は、やめて下さい。僕はもう大人なんだから」
「私にとっては、今でも子供だわ」
注がれる眼差しが真剣だったので、言葉を失いうつむくしかなかった。
遠い場所を夢見る表情で、喫茶室の窓の外を眺めながら、「今でも」と彼女が呟いた。
「今でも、小さい祐ちゃんの姿が浮かぶの。こうして、立派な青年を目の前にしても、小さい祐ちゃんといるような気がする。――さっき会った時、すぐに祐ちゃんだと分かったのよ。その笑顔、変わらないわ。あの頃、私に見せてくれた手放しの笑顔と一緒ね」
引いていく波のように落胆が僕の心から力を奪って行く。
けれど同時に、愛してくれた人の真実が僕を包んで傷を癒したことを感じた。
思い出の中でいつも感じていた、あなたの愛は存在していた。それを確かめることが出来ただけで、自分は幸せだ。
「祐ちゃんは、本当に可愛い子だった……」
まだ注がれている暖かい眼差しに、僕はふうと笑って、冷めた紅茶を飲んだ。
*
あの頃。
僕はあなたを守る騎士になりたかった、と言ったら、あなたは笑うだろうか。
僕の本当の母は、僕を産んですぐに死んだという。
父の再婚相手として家に入ったのが、瑠璃さんだった。
二十歳の若い後妻は、戸惑いながらも旧家の家事をこなしていた。僕のことも、まるで本当の母親のようにきちんと面倒を見ていた。と、これは僕の感想ではなくて、彼女をはたで眺めていた叔母の言葉だが。
幼い僕はただ、清く美しい人と思って彼女を眺めていた。
仰ぎ見る美しい存在は近付き難く、触れることすら怖くて出来なかった。
いつも凛々しい横顔をしていた、そんな彼女が、ふいに優しい笑顔を向けることがあった。
“雲のあいだから射し込む、太陽の光”
当時の僕は彼女の笑顔を密かにそう呼んで、待ち焦がれた。
あの光だけが、寂寞とした家庭で僕に注がれた愛の全てだった。
けれど次第に、光を見る日は少なくなった。
彼女の顔は悲しみに曇るようになり、時に雨が降り注いだ。
一人、声を殺して泣く彼女の震える背中を、僕はいつも胸が張り裂ける想いで見つめていた。
ぱあん、と耳元で音がして、継母が倒れた日のことを覚えている。
いつものように浴びるほど酒を飲み帰ってきた父が、彼女を平手で殴り倒したのだった。
その場の光景を理解した瞬間、僕は父に飛びかかって行った。
自分と父の力の違いなど考えていなかった。とにかく彼女を殴った男が許せなかった。この巨大な敵から彼女を守らねば、と思った。僕は小さい拳で父を殴り、何度も何度も噛みついた。
僕はその時、五歳。
父の一撃があれば死んでいたと思う。
僕に手を上げなかった父は、今から考えればまともな愛情を持つ人だったのだ。
でも、その頃の僕にとって、“継母を泣かせる者はみな敵”だった。泣かせるどころか、殴り倒した父のことは絶対に許せなかった。殺してやる、と本気で思っていたのかもしれない。小さい子供ながらに命を棄てた攻撃は、屈強な男を痛めつけた。――体ではなく、心を。
「いたい、いたい」
悲しげな悲鳴を上げて父は僕を引き離した。
僕も泣いていたが父も泣いていた。
肩を落とした寂しげな背中は、静かに家を出て行った。
そして、二度と帰って来なかった。
父と彼女の仲が壊れた経緯は知らない。父が仕事を失い、酒に溺れるようになったことだけ聞いている。何もかもがうまくいかなくなって、父は最後のけじめとして、一人で家を出て行くことを決めたのだと思う。
まだ父と正式に籍を入れていなかった瑠璃さんは、うちと関係のない人間とされた。彼女の養子ではなかった僕も、そのまま同じ家で祖父母に育てられることになる。瑠璃さんは、当然のように実家へ帰された。
まもなくうちでは、彼女の名を口にする者すらいなくなった。何時の間にか、瑠璃さんの存在は消されてしまったようだった。
けれど僕は“存在しないはずの”人に恋焦がれた。
会いたい切なさに押し潰されそうで、何度も泣いた。
孤独な夜は、恋しい人の幻にうなされた。
……
それらの日々を越えて、今、僕はようやく大人になった。
*
「本当に驚いた。電話で祐ちゃんの声を聞いた時は。夢ではないかと思ったわ」
「ええ、僕も。自分で電話をかけながら、現実のこととは思えなかった」
二人で顔を見合わせて、笑った。
「十五年ぶりかしら」
「十五年ぶり、です。僕が五歳の時ですから」
叔母から瑠璃さんの連絡先が手渡されたのは一週間前のことだった。成人の報告をかつての母にすることが、ようやく許されたのだった。
「二十歳…… あの子が、ハタチ」
感慨深げに、瑠璃さんは口の中で何度も呟いている。
「おめでとう」
目に涙を浮かべて、彼女は笑った。
ああ、その笑顔だ。と思う。
僕がずっと見たかったもの。求め続けたもの。大好きだったもの。
「主人がね」
ハンカチで軽く目頭を押さえながら、思い出したように彼女は言った。鞄から何かを取り出す。有名百貨店の細長い包みだった。
「これを渡せって」
「ご主人が?」
「そう、ネクタイ。彼が選んでくれたのよ。…ごめんなさい、私ちっとも男の子の趣味が分からないから、成人祝いに何がいいか分からなくて」
困ったような、けれど嬉しそうな笑顔で彼女は言った。
ありがとうございます、かろうじて礼をして僕は包みを受け取った。
「開けてちょうだい。どうかしら?」
包みの中にあったのは、淡いブルーのネクタイだった。よく見ると今日、瑠璃さんがはいているスカートと同じ色だった。妻の買い物にも嫌な顔一つせず付き合うが、ろくに色の選び方も知らない中年男の姿が浮かぶ。どれがいいかと妻に問われて、悩んだあげくつい自分の好きな色を指してしまう男。
「優しい、人なんですね」
「え」
「ご主人」
僕の言葉に戸惑ったのか、彼女は軽く瞬きした。
けれど次の瞬間、僕が見たことのない顔で笑った。
「ええ。優しいだけが、取り柄の人ね」
全身の力が、抜けていく。
良かった。
この人は、幸せなんだ……。
「どうしたの?」
瑠璃さんが目を丸くして僕の顔を覗きこんでいた。まるで小さな子を心配する表情だった。
「なぜ、泣いているの」
僕は手の甲で涙を拭き、言った。
「いえ。ただ、嬉しくて」
なおさら、わけが分からないという顔になって瑠璃さんは心配している。
まさか僕が腹でも痛くしたと考えているのだろうか?
思わず、くっと笑った。
「瑠璃さん」
姿勢を正して言うと、彼女は、驚いたように「はい」と答えた。
「僕は今まで、あなたに会う日を夢見ていました」
「……はい」
「長いこと、この日を」
「……」
「会ったら、言おうと思っていました。ずっとあなたに恋をしていました、と。だからあなたを幸せに出来なかった父の代わりに、僕が幸せにしたいと。でも、その必要はなくなりました」
僕は上着の内側に隠していた一本の花を、彼女に差し出した。
淡いピンクのカーネーション。
僕のたった一人の母親に、似合うと思って買ったものだった。
瑠璃さんはカーネーションを受け取り、微笑んだ。涙を一つ、こぼしながら。
「ありがとう」
喫茶室を出た時には、雨は止んでいた。
公園は薫る緑に包まれている。母と二人で見上げた空には、大きな虹が架かっていた。
それは幾重にも連なる虹――生まれて初めて見るような虹だった。
虹が消えるまで眺めていた僕たちの場所へ、雲が吹き払われた空から光が降り注いだ。
<了>
Copyright (c) 吉野圭 All rights reserved.
緑雨
緑に浸された木々の中、あなたは立っていた。
白い傘に降り注ぐ雨の筋は銀色に光る。薄い青のスカートが、光に囲まれて淡く滲んでいた。
まるでそこだけ太陽の光が当たっているようだった。声をかけるのも忘れて、光の場を遠くから眺めてみる。その姿が何度も見続けた幻のような気がして怖くなった。けれど十五年ぶりに見た真っ直ぐな背中は、確かに記憶にあるものと同じだった。
くるりと傘が動いた。
僕を見つけた、あなたの笑顔が輝く。
白いブラウスの袖口が濡れるのも厭わず、高く手を上げて振るあなたに、僕も駆け足で応えた。
カップに添えられた彼女の手は、細く頼りなく見える。
先ほど手を取って公園内を歩いた時、思いがけず痩せていることに気付いて驚いた。
「元気……ご両親は、お元気ですか」
当たり障りのないことを口にしてみる。
会ったこともない彼女の両親の話を聞き、相槌を打ちながら、本当に聞きたいのはあなたが幸せかどうかなのに、と思う。
「ユウちゃんは、本当に大きくなったわね」
さらりと彼女が口にした言葉に僕は気恥ずかしさを覚えた。
「それは、もう二十歳ですから」
「背も私より高くなって」
「ええ」
「びっくりしたわ。あの女の子みたいだった祐ちゃんが……」
「あの、」
僕は耳まで熱くしながら言った。
「ちゃん、は、やめて下さい。僕はもう大人なんだから」
「私にとっては、今でも子供だわ」
注がれる眼差しが真剣だったので、言葉を失いうつむくしかなかった。
遠い場所を夢見る表情で、喫茶室の窓の外を眺めながら、「今でも」と彼女が呟いた。
「今でも、小さい祐ちゃんの姿が浮かぶの。こうして、立派な青年を目の前にしても、小さい祐ちゃんといるような気がする。――さっき会った時、すぐに祐ちゃんだと分かったのよ。その笑顔、変わらないわ。あの頃、私に見せてくれた手放しの笑顔と一緒ね」
引いていく波のように落胆が僕の心から力を奪って行く。
けれど同時に、愛してくれた人の真実が僕を包んで傷を癒したことを感じた。
思い出の中でいつも感じていた、あなたの愛は存在していた。それを確かめることが出来ただけで、自分は幸せだ。
「祐ちゃんは、本当に可愛い子だった……」
まだ注がれている暖かい眼差しに、僕はふうと笑って、冷めた紅茶を飲んだ。
*
あの頃。
僕はあなたを守る騎士になりたかった、と言ったら、あなたは笑うだろうか。
僕の本当の母は、僕を産んですぐに死んだという。
父の再婚相手として家に入ったのが、瑠璃さんだった。
二十歳の若い後妻は、戸惑いながらも旧家の家事をこなしていた。僕のことも、まるで本当の母親のようにきちんと面倒を見ていた。と、これは僕の感想ではなくて、彼女をはたで眺めていた叔母の言葉だが。
幼い僕はただ、清く美しい人と思って彼女を眺めていた。
仰ぎ見る美しい存在は近付き難く、触れることすら怖くて出来なかった。
いつも凛々しい横顔をしていた、そんな彼女が、ふいに優しい笑顔を向けることがあった。
“雲のあいだから射し込む、太陽の光”
当時の僕は彼女の笑顔を密かにそう呼んで、待ち焦がれた。
あの光だけが、寂寞とした家庭で僕に注がれた愛の全てだった。
けれど次第に、光を見る日は少なくなった。
彼女の顔は悲しみに曇るようになり、時に雨が降り注いだ。
一人、声を殺して泣く彼女の震える背中を、僕はいつも胸が張り裂ける想いで見つめていた。
ぱあん、と耳元で音がして、継母が倒れた日のことを覚えている。
いつものように浴びるほど酒を飲み帰ってきた父が、彼女を平手で殴り倒したのだった。
その場の光景を理解した瞬間、僕は父に飛びかかって行った。
自分と父の力の違いなど考えていなかった。とにかく彼女を殴った男が許せなかった。この巨大な敵から彼女を守らねば、と思った。僕は小さい拳で父を殴り、何度も何度も噛みついた。
僕はその時、五歳。
父の一撃があれば死んでいたと思う。
僕に手を上げなかった父は、今から考えればまともな愛情を持つ人だったのだ。
でも、その頃の僕にとって、“継母を泣かせる者はみな敵”だった。泣かせるどころか、殴り倒した父のことは絶対に許せなかった。殺してやる、と本気で思っていたのかもしれない。小さい子供ながらに命を棄てた攻撃は、屈強な男を痛めつけた。――体ではなく、心を。
「いたい、いたい」
悲しげな悲鳴を上げて父は僕を引き離した。
僕も泣いていたが父も泣いていた。
肩を落とした寂しげな背中は、静かに家を出て行った。
そして、二度と帰って来なかった。
父と彼女の仲が壊れた経緯は知らない。父が仕事を失い、酒に溺れるようになったことだけ聞いている。何もかもがうまくいかなくなって、父は最後のけじめとして、一人で家を出て行くことを決めたのだと思う。
まだ父と正式に籍を入れていなかった瑠璃さんは、うちと関係のない人間とされた。彼女の養子ではなかった僕も、そのまま同じ家で祖父母に育てられることになる。瑠璃さんは、当然のように実家へ帰された。
まもなくうちでは、彼女の名を口にする者すらいなくなった。何時の間にか、瑠璃さんの存在は消されてしまったようだった。
けれど僕は“存在しないはずの”人に恋焦がれた。
会いたい切なさに押し潰されそうで、何度も泣いた。
孤独な夜は、恋しい人の幻にうなされた。
……
それらの日々を越えて、今、僕はようやく大人になった。
*
「本当に驚いた。電話で祐ちゃんの声を聞いた時は。夢ではないかと思ったわ」
「ええ、僕も。自分で電話をかけながら、現実のこととは思えなかった」
二人で顔を見合わせて、笑った。
「十五年ぶりかしら」
「十五年ぶり、です。僕が五歳の時ですから」
叔母から瑠璃さんの連絡先が手渡されたのは一週間前のことだった。成人の報告をかつての母にすることが、ようやく許されたのだった。
「二十歳…… あの子が、ハタチ」
感慨深げに、瑠璃さんは口の中で何度も呟いている。
「おめでとう」
目に涙を浮かべて、彼女は笑った。
ああ、その笑顔だ。と思う。
僕がずっと見たかったもの。求め続けたもの。大好きだったもの。
「主人がね」
ハンカチで軽く目頭を押さえながら、思い出したように彼女は言った。鞄から何かを取り出す。有名百貨店の細長い包みだった。
「これを渡せって」
「ご主人が?」
「そう、ネクタイ。彼が選んでくれたのよ。…ごめんなさい、私ちっとも男の子の趣味が分からないから、成人祝いに何がいいか分からなくて」
困ったような、けれど嬉しそうな笑顔で彼女は言った。
ありがとうございます、かろうじて礼をして僕は包みを受け取った。
「開けてちょうだい。どうかしら?」
包みの中にあったのは、淡いブルーのネクタイだった。よく見ると今日、瑠璃さんがはいているスカートと同じ色だった。妻の買い物にも嫌な顔一つせず付き合うが、ろくに色の選び方も知らない中年男の姿が浮かぶ。どれがいいかと妻に問われて、悩んだあげくつい自分の好きな色を指してしまう男。
「優しい、人なんですね」
「え」
「ご主人」
僕の言葉に戸惑ったのか、彼女は軽く瞬きした。
けれど次の瞬間、僕が見たことのない顔で笑った。
「ええ。優しいだけが、取り柄の人ね」
全身の力が、抜けていく。
良かった。
この人は、幸せなんだ……。
「どうしたの?」
瑠璃さんが目を丸くして僕の顔を覗きこんでいた。まるで小さな子を心配する表情だった。
「なぜ、泣いているの」
僕は手の甲で涙を拭き、言った。
「いえ。ただ、嬉しくて」
なおさら、わけが分からないという顔になって瑠璃さんは心配している。
まさか僕が腹でも痛くしたと考えているのだろうか?
思わず、くっと笑った。
「瑠璃さん」
姿勢を正して言うと、彼女は、驚いたように「はい」と答えた。
「僕は今まで、あなたに会う日を夢見ていました」
「……はい」
「長いこと、この日を」
「……」
「会ったら、言おうと思っていました。ずっとあなたに恋をしていました、と。だからあなたを幸せに出来なかった父の代わりに、僕が幸せにしたいと。でも、その必要はなくなりました」
僕は上着の内側に隠していた一本の花を、彼女に差し出した。
淡いピンクのカーネーション。
僕のたった一人の母親に、似合うと思って買ったものだった。
瑠璃さんはカーネーションを受け取り、微笑んだ。涙を一つ、こぼしながら。
「ありがとう」
喫茶室を出た時には、雨は止んでいた。
公園は薫る緑に包まれている。母と二人で見上げた空には、大きな虹が架かっていた。
それは幾重にも連なる虹――生まれて初めて見るような虹だった。
虹が消えるまで眺めていた僕たちの場所へ、雲が吹き払われた空から光が降り注いだ。
<了>
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