2009
Sep
01
-
高楼心譚(一)
これは小説です。2009年筆。〔中国語版〕
【注記】
・劉キの「キ(王+奇)」は機種依存文字のため「綺」に変えています。
・劉キの字、「英(えん)珠(しゅ)」は作者の創作です。
2019/7/2タイトル変更しました 『高楼想話』→『高楼心譚』(ブタノハナ様よりご提案)
先生、先生と声がするので、周りを見回すと木陰から白い顔が覗いた。
「英珠(えんしゅ)」
「先生、お話が」
頬を紅く染めてこちらを真摯に見つめる顔はまだ少年のようだった。
劉綺(りゅうき)――字(あざな)を英珠――はこの頃、確か二十歳になったばかり。私より七歳下の青年は何故か、私を“先生”と呼んでいた。
主人に伴われて私が劉表(りゅうひょう)の邸(やしき)を訪れるたび、英珠は“先生”を追いかけ回すのだった。
「“先生”などではありません。私は雑用係の身ですよ」
事実を述べても無駄だった。英珠の純粋な瞳は輝きを増すだけだ。
「でもご高名はかねがね、耳にしております。どうか少しだけ私の話を聞いていただけませんか」
「いいえ。滅相もない。勘弁してください」
頭を下げ、そそくさと私はその場を立ち去った。
何を勘違いされているのだか。
うっかり有名な武将のところへ仕えてしまったために、自分では望まない形で噂されている。“あの人は優秀だ”、“あの人に相談すれば何でも解決する”と街で宣伝している人々がいるらしい。英珠は、そんな根も葉もない噂を耳に入れ信じてしまったようだ。
勘弁してくれ、心から思う。
まっとうな理性のある大人なら、このような馬鹿げた噂話を信じたりしない。何の経験もない、出仕したばかりの若造に相談する価値などないと考えるのが普通だ。だが世間を知らない若い人は純粋なために、噂を鵜呑みにして舞い上がってしまう。
私は頭痛を覚えながら、狭い街でのこの噂が早く収束し、英珠が自分を忘れてくれることを祈った。
英珠の相談事が何かは分かっている。
これも街を賑わせている噂、劉表のお家騒動の件だろう。
荊州(けいしゅう)牧、すなわち劉綺(英珠)の父である劉表は、後妻への愛に狂い彼女の子へ跡を継がせようとしているという。長子の綺を差し置いて、だ。
後妻は綺の悪口を夫の耳に囁いたり、裏で協力者を募るなどして自分の子を跡継ぎの座へ据える画策をしている。綺の暗殺計画まで企てているとかいないとか……。
残念ながらこの話は単なる噂ではなく、私も間近で接した事実だった。
先日、英珠の食事に毒が入っていた。危ういところで英珠はそれを食せずに済んだ。犯人は誰の目にも明らかだ。しかし堂々とその名を口にする者はいない。 劉表に告げたところで事態は解決しないだろう。逆に愛する妻へ濡れ衣を着せたとして、英珠の立場がさらに危うくなるかもしれない。
何より気の毒なのは、劉表が英珠を毛嫌いしていることだった。
“英珠は能力がなくて底意地が悪い。出来損ないの子”、だと思い込んでいる。
後妻が吹き込んだ悪口を真に受けているのだ。血を分けた我が子さえ信じることが出来ない。
親に見捨てられた子ほど憐れなものはない。“出来損ない”と呼ばれ、害虫のように嫌われ、心を踏みにじられる。自分をこの世に生み出してくれた親による 否定は、世界による否定。親から受ける冷たい視線、蔑む言葉は身体に対する暴力よりも深く子を傷付ける。
いつも俯き、肩を丸めて歩き、おどおどとした目で周囲を見ている。それでも健気に、弱い笑顔を浮かべて皆に優しさを振りまいている英珠。
そんな彼を見ると身につまされる。父親へ憤りを感じる。
しかし私にはどうすることも出来なかった。口出しをすることは禁物だ。
しょせん私は他人なのだ。他人が何か言ったところで火事を広げるだけのことだ。真っ先に身を焼かれるのは英珠だ。それだけでは済まずきっとこちらまで大やけどを負うだろう。自分一人ならまだ良い。だが当然、主人にも迷惑をかけてしまう。主人へ迷惑をかけることは絶対に避けなければならない。
だいたい私には実力がない。人の問題を片付ける実力など、とうてい。自分の傷さえどうにも出来ないというのに。
良家に沈む澱(おり)をどれだけの人が知っているだろう。
上品な家の底には暗々と、鬱々と、人の卑しさが澱(よど)んでいることがある。
家系。血筋。金。
それらにつきまとう誇りは他者を差別せずにいられない。下々の庶民より自分たちは優れていると思い込むだけでは飽き足らず、同じ家の中でも差別を始める。やがて自分が家族の誰よりも上に立ちたいと欲し、一位の座につくために争いを始める。
私はそのような良家の底辺で差別された人間だ。
父は心労で死に、異母兄は家を早々に出て行き、母は心を病んだ。
踏みにじられた私の心の傷も癒えない。生涯、癒えることはないだろう。
“貴族”と呼ばれる家系ではあるが最上級ではない、そんな格の私の家ですらこのような傷を受けなければならなかった。
まして帝の血を引く劉家で今、渦巻いている闇の深さはいかばかりか。とうてい私が太刀打ち出来る問題ではないと知っていた。
だから私は逃げたのだった。
後ろめたさを感じながらも、すがる瞳を振り切って英珠から逃げた。逃げ回った。
「先生」
にっこりと、屈託のない笑みに出会って私はぎょっと足を止めた。
迂闊だった。
考え事をしながら歩いていたら庭の奥へ踏み込んでしまった。それで避けていたはずの人物に正面から出くわしてしまったのだった。
意外にも英珠は満面の笑みだ。白い顔がやんわりほころんでいる。
ああ、なぜこんなに嬉しそうなんだ。
くらりと来る。あまりの手放しの笑顔に眩暈を覚えた。
私はずっと彼を避けてきたのだから、不愉快になり腹を立てるのが当然だろう。それなのに欠片も恨みを見せない瞳は、旧知の友と再会したかのような喜びを放っている。
……勘弁、してくれ。
こんな瞳に私が弱いと君は知っているのか。
離れても、邪険にしても、少しも懲りず疑わずまた向かって来る。こちらは高い壁を作って備えているのに、やすやすと越えてしまう。
自分でも分かっていた。降参は間近だ。
「こんなところでお会いするなんて、奇遇ですね。先生」
いかにも偶然会ったかのように驚いた顔で言う。それから彼は空を仰いで心地良さげに呼吸した。
「今日は良い天気。このような日にお会い出来て、嬉しいです。――そうだ、先生、いかがです? この素晴らしい空の下で、ひとつお酒でも。私にご馳走させてくださいませんか?」
>>次の話
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【注記】
・劉キの「キ(王+奇)」は機種依存文字のため「綺」に変えています。
・劉キの字、「英(えん)珠(しゅ)」は作者の創作です。
2019/7/2タイトル変更しました 『高楼想話』→『高楼心譚』(ブタノハナ様よりご提案)
高楼心譚(一)
先生、先生と声がするので、周りを見回すと木陰から白い顔が覗いた。
「英珠(えんしゅ)」
「先生、お話が」
頬を紅く染めてこちらを真摯に見つめる顔はまだ少年のようだった。
劉綺(りゅうき)――字(あざな)を英珠――はこの頃、確か二十歳になったばかり。私より七歳下の青年は何故か、私を“先生”と呼んでいた。
主人に伴われて私が劉表(りゅうひょう)の邸(やしき)を訪れるたび、英珠は“先生”を追いかけ回すのだった。
「“先生”などではありません。私は雑用係の身ですよ」
事実を述べても無駄だった。英珠の純粋な瞳は輝きを増すだけだ。
「でもご高名はかねがね、耳にしております。どうか少しだけ私の話を聞いていただけませんか」
「いいえ。滅相もない。勘弁してください」
頭を下げ、そそくさと私はその場を立ち去った。
何を勘違いされているのだか。
うっかり有名な武将のところへ仕えてしまったために、自分では望まない形で噂されている。“あの人は優秀だ”、“あの人に相談すれば何でも解決する”と街で宣伝している人々がいるらしい。英珠は、そんな根も葉もない噂を耳に入れ信じてしまったようだ。
勘弁してくれ、心から思う。
まっとうな理性のある大人なら、このような馬鹿げた噂話を信じたりしない。何の経験もない、出仕したばかりの若造に相談する価値などないと考えるのが普通だ。だが世間を知らない若い人は純粋なために、噂を鵜呑みにして舞い上がってしまう。
私は頭痛を覚えながら、狭い街でのこの噂が早く収束し、英珠が自分を忘れてくれることを祈った。
英珠の相談事が何かは分かっている。
これも街を賑わせている噂、劉表のお家騒動の件だろう。
荊州(けいしゅう)牧、すなわち劉綺(英珠)の父である劉表は、後妻への愛に狂い彼女の子へ跡を継がせようとしているという。長子の綺を差し置いて、だ。
後妻は綺の悪口を夫の耳に囁いたり、裏で協力者を募るなどして自分の子を跡継ぎの座へ据える画策をしている。綺の暗殺計画まで企てているとかいないとか……。
残念ながらこの話は単なる噂ではなく、私も間近で接した事実だった。
先日、英珠の食事に毒が入っていた。危ういところで英珠はそれを食せずに済んだ。犯人は誰の目にも明らかだ。しかし堂々とその名を口にする者はいない。 劉表に告げたところで事態は解決しないだろう。逆に愛する妻へ濡れ衣を着せたとして、英珠の立場がさらに危うくなるかもしれない。
何より気の毒なのは、劉表が英珠を毛嫌いしていることだった。
“英珠は能力がなくて底意地が悪い。出来損ないの子”、だと思い込んでいる。
後妻が吹き込んだ悪口を真に受けているのだ。血を分けた我が子さえ信じることが出来ない。
親に見捨てられた子ほど憐れなものはない。“出来損ない”と呼ばれ、害虫のように嫌われ、心を踏みにじられる。自分をこの世に生み出してくれた親による 否定は、世界による否定。親から受ける冷たい視線、蔑む言葉は身体に対する暴力よりも深く子を傷付ける。
いつも俯き、肩を丸めて歩き、おどおどとした目で周囲を見ている。それでも健気に、弱い笑顔を浮かべて皆に優しさを振りまいている英珠。
そんな彼を見ると身につまされる。父親へ憤りを感じる。
しかし私にはどうすることも出来なかった。口出しをすることは禁物だ。
しょせん私は他人なのだ。他人が何か言ったところで火事を広げるだけのことだ。真っ先に身を焼かれるのは英珠だ。それだけでは済まずきっとこちらまで大やけどを負うだろう。自分一人ならまだ良い。だが当然、主人にも迷惑をかけてしまう。主人へ迷惑をかけることは絶対に避けなければならない。
だいたい私には実力がない。人の問題を片付ける実力など、とうてい。自分の傷さえどうにも出来ないというのに。
良家に沈む澱(おり)をどれだけの人が知っているだろう。
上品な家の底には暗々と、鬱々と、人の卑しさが澱(よど)んでいることがある。
家系。血筋。金。
それらにつきまとう誇りは他者を差別せずにいられない。下々の庶民より自分たちは優れていると思い込むだけでは飽き足らず、同じ家の中でも差別を始める。やがて自分が家族の誰よりも上に立ちたいと欲し、一位の座につくために争いを始める。
私はそのような良家の底辺で差別された人間だ。
父は心労で死に、異母兄は家を早々に出て行き、母は心を病んだ。
踏みにじられた私の心の傷も癒えない。生涯、癒えることはないだろう。
“貴族”と呼ばれる家系ではあるが最上級ではない、そんな格の私の家ですらこのような傷を受けなければならなかった。
まして帝の血を引く劉家で今、渦巻いている闇の深さはいかばかりか。とうてい私が太刀打ち出来る問題ではないと知っていた。
だから私は逃げたのだった。
後ろめたさを感じながらも、すがる瞳を振り切って英珠から逃げた。逃げ回った。
「先生」
にっこりと、屈託のない笑みに出会って私はぎょっと足を止めた。
迂闊だった。
考え事をしながら歩いていたら庭の奥へ踏み込んでしまった。それで避けていたはずの人物に正面から出くわしてしまったのだった。
意外にも英珠は満面の笑みだ。白い顔がやんわりほころんでいる。
ああ、なぜこんなに嬉しそうなんだ。
くらりと来る。あまりの手放しの笑顔に眩暈を覚えた。
私はずっと彼を避けてきたのだから、不愉快になり腹を立てるのが当然だろう。それなのに欠片も恨みを見せない瞳は、旧知の友と再会したかのような喜びを放っている。
……勘弁、してくれ。
こんな瞳に私が弱いと君は知っているのか。
離れても、邪険にしても、少しも懲りず疑わずまた向かって来る。こちらは高い壁を作って備えているのに、やすやすと越えてしまう。
自分でも分かっていた。降参は間近だ。
「こんなところでお会いするなんて、奇遇ですね。先生」
いかにも偶然会ったかのように驚いた顔で言う。それから彼は空を仰いで心地良さげに呼吸した。
「今日は良い天気。このような日にお会い出来て、嬉しいです。――そうだ、先生、いかがです? この素晴らしい空の下で、ひとつお酒でも。私にご馳走させてくださいませんか?」
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