2009
Sep
01
-
高楼心譚(二)
これは小説です。2009年筆 〔中国語版〕
酒に釣られたわけではない。
しかし、その酒は美味だった。
水のように澄んでおり、口に含むとほのかな果実の甘みが広がり、次いで花の香りが漂う。なるほどこんな酒ならば、“神の水”と呼んでいい。酒と言えば黄色く濁り強い匂いを放つものと思っていた。このような上品な香りを抱く水の存在を、私は伝説でしか聞いたことがない。
酒はあまり詳しいほうではない。この若さではまだろくに味も分からない。そんな私でさえ、英珠(えんしゅ)の酒を一口含んだだけで、これは滅多に手に入らない特別なものだということが分かった。
「いかがですか。お味は」
英珠が次の酒を杯に注いだ時、くら、と来た。強い。
「素晴らしい。このような絶品を味わうのは初めてです。何という名の酒で?」
「新しい酒なのです。異民族が持っていたのを父が譲り受けました。米から作るそうですよ。名前は分かりません。香る澄んだ酒と呼ぶことにしませんか」
それよりも神水と呼んだほうがいいと思った。この水には魔力がある。
英珠は楽しげに私の顔を眺めている。
「先生、お強くないのですね」
既に顔が赤くなっているらしい。まったく、恥ずかしい。英珠が言う通り、私は酒に強くない。
「ええ。まあ。ですから、程々で勘弁してください」
「大丈夫。ご主人は父と話し込んでらっしゃいます。夜分まで解放されることはないでしょう。ですから今日はお仕事を忘れて、遠慮なくくつろがれてください」
そう言って英珠は笑顔で、また杯を満たした。
次第に遊ばれている気がしてきた。酒に弱い私を酔わせるのが楽しいらしい。けれど英珠の笑顔を見ていると断れなかった。英珠がこれほど楽しげにしている様子など、見たことがなかったからだ。
か、たん。
その時、不審な物音を聞いた。
音のしたほうへ目をやる。
「ん……」
酔った目でも事態を悟った。梯子(はしご)がない。
庭園を眺めるために作られた高い建物の上で酒を飲んでいた私たちは、梯子がなければ下へ降りることが出来ない。
つまり、私たちはこの場に閉じ込められたのだ。
英珠の表情を見た。慌ててはいない。まさか風で梯子が倒れたわけではないだろう。これは始めから英珠が計画していたこと。予め、彼が誰かに命じて梯子をはずさせたのだ。
やられた。
英珠が姿勢を正した。さっと頭を下げた英珠の頬に光るものがあった。
「今なら、天にも地にもあなたの声は届きません。あなたの声は、私の耳にしか入らないのです。ですから、どうか! どうか私にお聞かせください。あなたのお考えを!」
英珠は泣いていた。声を殺して肩の震えを必死で抑えていたが、その苦しみを隠し通すことは出来なかった。
「私は、どうすればいいのでしょう。……死ぬべきか……生きて殺されるべきか……どちらを選ぶべきですか。どちらを……」
額を床に付けて泣く英珠を見つめ、私は古い記憶を思い出していた。
暗い、高い天井にこだまする泣き声が蘇る。
あのすすり泣きの声は母なのか、弟なのか。
それとも、私なのだろうか?
数百年、連綿と続く貴族の家系の底に虐げられた私たちの、腹の底から搾り出した苦しみ。生きる価値がないと言われた私たちが、生きていることを示した弱い、精一杯の訴え。あの時、私たちは死んでいるに等しかった。だが、決して心を殺してはいなかった。本心から死にたいと思ったことはない。
誰かが死ねと言ったからといって、死ななければいけない道理があるはずがない。
いけない。
英珠、死んではいけない。
……鼓動が、高い音で打った。
英珠よ、君はこの時の私の気持ちを知っているだろうか。
全てを曝(さら)け出した君を目の前にして私の鼓動は高まり続けた。全身に冷や汗が滲み出ていた。
恐ろしかったのだ。真剣に尋ねる者に、答えることは激しい恐怖だ。
あの時、君は命がけだった。魂を篭めて私にぶつかって来た。そのような人間に対し、答える言葉は“全て”となる。
答える一言が、この人の一生を決めてしまうかもしれない。
そう悟れば私も命がけで答えなければならなかった。
だから腹をくくった。この人と共に、一言の重みを負おうと。
私は言った。
「逃げろ、英珠」
>>次の話
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高楼心譚(二)
酒に釣られたわけではない。
しかし、その酒は美味だった。
水のように澄んでおり、口に含むとほのかな果実の甘みが広がり、次いで花の香りが漂う。なるほどこんな酒ならば、“神の水”と呼んでいい。酒と言えば黄色く濁り強い匂いを放つものと思っていた。このような上品な香りを抱く水の存在を、私は伝説でしか聞いたことがない。
酒はあまり詳しいほうではない。この若さではまだろくに味も分からない。そんな私でさえ、英珠(えんしゅ)の酒を一口含んだだけで、これは滅多に手に入らない特別なものだということが分かった。
「いかがですか。お味は」
英珠が次の酒を杯に注いだ時、くら、と来た。強い。
「素晴らしい。このような絶品を味わうのは初めてです。何という名の酒で?」
「新しい酒なのです。異民族が持っていたのを父が譲り受けました。米から作るそうですよ。名前は分かりません。香る澄んだ酒と呼ぶことにしませんか」
それよりも神水と呼んだほうがいいと思った。この水には魔力がある。
英珠は楽しげに私の顔を眺めている。
「先生、お強くないのですね」
既に顔が赤くなっているらしい。まったく、恥ずかしい。英珠が言う通り、私は酒に強くない。
「ええ。まあ。ですから、程々で勘弁してください」
「大丈夫。ご主人は父と話し込んでらっしゃいます。夜分まで解放されることはないでしょう。ですから今日はお仕事を忘れて、遠慮なくくつろがれてください」
そう言って英珠は笑顔で、また杯を満たした。
次第に遊ばれている気がしてきた。酒に弱い私を酔わせるのが楽しいらしい。けれど英珠の笑顔を見ていると断れなかった。英珠がこれほど楽しげにしている様子など、見たことがなかったからだ。
か、たん。
その時、不審な物音を聞いた。
音のしたほうへ目をやる。
「ん……」
酔った目でも事態を悟った。梯子(はしご)がない。
庭園を眺めるために作られた高い建物の上で酒を飲んでいた私たちは、梯子がなければ下へ降りることが出来ない。
つまり、私たちはこの場に閉じ込められたのだ。
英珠の表情を見た。慌ててはいない。まさか風で梯子が倒れたわけではないだろう。これは始めから英珠が計画していたこと。予め、彼が誰かに命じて梯子をはずさせたのだ。
やられた。
英珠が姿勢を正した。さっと頭を下げた英珠の頬に光るものがあった。
「今なら、天にも地にもあなたの声は届きません。あなたの声は、私の耳にしか入らないのです。ですから、どうか! どうか私にお聞かせください。あなたのお考えを!」
英珠は泣いていた。声を殺して肩の震えを必死で抑えていたが、その苦しみを隠し通すことは出来なかった。
「私は、どうすればいいのでしょう。……死ぬべきか……生きて殺されるべきか……どちらを選ぶべきですか。どちらを……」
額を床に付けて泣く英珠を見つめ、私は古い記憶を思い出していた。
暗い、高い天井にこだまする泣き声が蘇る。
あのすすり泣きの声は母なのか、弟なのか。
それとも、私なのだろうか?
数百年、連綿と続く貴族の家系の底に虐げられた私たちの、腹の底から搾り出した苦しみ。生きる価値がないと言われた私たちが、生きていることを示した弱い、精一杯の訴え。あの時、私たちは死んでいるに等しかった。だが、決して心を殺してはいなかった。本心から死にたいと思ったことはない。
誰かが死ねと言ったからといって、死ななければいけない道理があるはずがない。
いけない。
英珠、死んではいけない。
……鼓動が、高い音で打った。
英珠よ、君はこの時の私の気持ちを知っているだろうか。
全てを曝(さら)け出した君を目の前にして私の鼓動は高まり続けた。全身に冷や汗が滲み出ていた。
恐ろしかったのだ。真剣に尋ねる者に、答えることは激しい恐怖だ。
あの時、君は命がけだった。魂を篭めて私にぶつかって来た。そのような人間に対し、答える言葉は“全て”となる。
答える一言が、この人の一生を決めてしまうかもしれない。
そう悟れば私も命がけで答えなければならなかった。
だから腹をくくった。この人と共に、一言の重みを負おうと。
私は言った。
「逃げろ、英珠」
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