我傍的、ここだけの話

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高楼心譚(三)

これは小説です。2009年筆

高楼心譚(三)



 逃げろ!
 逃げて、生きろ!

 拒絶されるかもしれないと思った。
 家から逃げる。それは残酷な行動だ。本人にとっても家族にとってもこの世で最も辛い裏切りであり、別れだ。その残酷を受け入れることは多くの人にとって難しい。
 私は祈る気持ちで彼の心に訴えかけた。
 頼む、聞き入れてくれ。これしか道はないのだ。
 何故だろう。今、目の前の人を救いたいと必死で思った。この人に自分の人生を生きて欲しい。英珠の中にかつての虐げられた自分を見てしまったからか。遠い他人であったはずの英珠の未来が、一瞬にして私の願いとなった。
「何……と仰いました?」
 英珠が目を見開いて聞き返して来た。一度きり「逃げろ」と囁いた私の言葉は確かに彼の耳に届いていたはずだ。けれど彼は言葉の意味をまだ呑み込めずにいた。あまりにも危険過ぎる言葉だったからだろう。
 焦ってはいけない。彼の心に届く言葉を選ばなければならない。私は深く呼吸して姿勢を正し、彼の瞳を見て言った。
「君は晋の文公を知っているだろう?」
 晋の王子、申生は国内に留まって殺され、重耳は逃れて後に晋の王となった。
 英珠が私の目を見つめて声を失っている。
 「ああ、」彼の口からため息が漏れた。次いで、ぽろぽろ涙がこぼれた。
「ええ。ええ。知っています。……ありがとう」

 “逃げて、王になれ”と言ったのだった。
 かつて国から逃げて機会を狙い、帰って国を取り戻した伝説の文公のように。
 逃げて王となった人がいるという過去の歴史は、確かに希望と言えた。
 だが私は彼に決して、そのまま実行しろと言ったわけではない。必ずしも戻って来て権力を奪い返さなくても良い。ただ今は逃げて欲しかった。生きて欲しかった。自分の人生を、選んで欲しかった。そのうえで未来にはどのような希望があることも知って欲しかった。
「……どうしてなのでしょう。今まで私には、思い浮かびませんでした。その選択肢は」
 家臣に命じて戻させた梯子を降りる時、英珠は呟いた。
 私も不思議に思った。どうして人は最も苦しい時に、逃げる、という選択肢を思い浮かべることが難しいのだろうか? 
 そしてその選択肢を思い浮かべることが出来ずに、どれほどたくさんの人が未来を失い、暴力にさらされて死んでいったことだろう。
「あなたは私に、新しい選択肢をくれた。そのことがとてもありがたい」
 
 結局、私には何も出来なかったのである。
 英珠自身が本当は知っていて、目を逸らしていた選択肢に気付かせただけに過ぎない。
 言葉は虚しい。何の力も持たない。遠い他人の私には言葉を与えることしか出来なかった。私は、呆れるほど無力だった。
 全てはこれからの英珠にかかっているのだ。
 逃げるということは生きるための試練だ。留まるよりも遥かに強い意思と勇気が要る。
 果たして英珠はその巨大な壁を乗り越えることが出来るのだろうか。想像するだけで難しく、不可能に思える。
 もしも失敗すれば英珠は殺されるのだった。屋敷に戻る彼の細い背中を眺めていると、私のほうが不安にかられ身が引き裂かれそうになった。
 だが、信じようと思った。
 柔らかく微笑んで手を振った彼の顔が、その時は本当に幸せそうに見えたから。 


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