小説【試し読み】

    高楼心譚(四)

    これは小説です。2009年筆。 〔中国語版

    高楼心譚(四)



     その後、私は劉表の邸へ行くことを控えた。
     邸で英珠と会って親しげな表情でも見せてしまい、英珠と私との関わりを家人に悟られたら危険だからだ。私に相談したことが露見して英珠が命をおびやかされ、主人へ火の粉が飛ぶことは私には耐え難い。
     邸へ行かない理由を、それまでの経緯も含めて全て正直に告白すると、主人は
    「お前なあ。情に弱いのも大概にしろよ」
     とさすがに眉根を寄せながらも
    「しかし、英珠を見捨てられなかったんだろう? お前らしいな。そんな奴だから、俺は好きなんだ」
     と笑い飛ばしたのだった。
     こういう人だ。
     他の主人に仕えていたら激怒され斬り捨てられていたかもしれない。主人の身に危険が及ぶようなことを家臣が仕出かしたなら、斬られないまでも暇を出されて当然だ。私のしたことはそれほど非常識で甘かった。自分の立場をわきまえない行動だった。
     ところが主人は“そんな奴だから、好きだ”と言った。
     単なる温情ではなく、英珠の命がけの相談と、こちらも命がけで受けた心意気を酌んでくれたものだ。逆にあの時、私が英珠を拒絶していたら主人は怒っていたに違いない――そういう人なのだ。

     英珠と直接に会うことはなくなったが、彼の密使が手紙を携えて訪れることは度々あった。
    「今すぐ、荷物を抱えて邸を出たい」
     そう英珠が書いて来たのは二人で酒を酌み交わした日から、まだ一月も経たない頃である。
     私は英珠を抑えるのに必死だった。読んだら焼き捨てろと断り書きを添え、早急に返信を届けさせた。
    「今すぐに逃げたい気持ちは分かる。だが、堪えろ。この時機に単身で逃げて生き延びられると思うのか? 時機を待て。機会は必ず訪れる」
     その機会が本当に訪れるのか私には分からなかった。分からないまま、暗澹(あんたん)たる気持ちで手紙を書き送った。
     “堪えろ”と書くしかない辛さは筆舌に尽くしがたい。
     自分ならとうてい耐えられないだろう場所に置かれた人の気持ちを想像すると、胸が締め付けられ気がおかしくなりそうになる。それでも“堪えろ”と言うよ り他に私には選べない。救援を送る力もなく、脱出のための具体的な方法を考える頭もない私が出来ることは、遠くから客観的に眺めることだけだった。
     自分の無力さに苦しみ悶えながら絞り出した言葉に、けなげにも英珠は従った。
     私が“堪えろ”と言えば納得し、その通りにした。
     稀に見る素直な人だった。そして驚嘆すべき精神力を持つ人だった。だからだろう。前向きな逃亡を果たすことが出来たのは。
     
     翌年明け早々。
     英珠が脱出した、という知らせを聞いて私は自分の耳を疑った。あまりにも幸せな知らせだったので一瞬、信じることが出来なかったのだ。
     だが知らせは事実。主人も使いをやって確かめたが、現実のことだった。
     しかも“脱出”と言っても、単身で無理に出奔したわけではない。正当な理由によって、周囲の助けを得ながら邸を出たのである。
     英珠が堪えて邸に留まっていた頃、江夏太守の地位が空いた。機会を逃さず英珠は、この後任に就くことを申し出た。こうして英珠は堂々と、兵まで引き連れて親元を離れることが出来たのだった。
     当然、周囲の者には英珠が“逃げた”ことは分かっていた。
     “弱虫”と陰口をたたいている者は多いだろう。
     しかし正々堂々、英珠が道理にかなった独立を果たしたことは事実で、誰も表立っては文句のつけようがない。
     見事と言う他なかった。
     私は嬉し涙して、感謝した。英珠へ好機を与えてくれた天に。彼を助けてくれた周囲の人々に。誰よりも、強い気持ちで堪えに堪え、自ら未来をつかんでくれた英珠に!
     
    「最近、英珠から連絡はないのか」
     脱出を果たした後、英珠からの連絡はぱったり途絶えていた。主人は不満げに言った。
    「あいつはお前への礼も無しか? お前と会っていなければ未来はなかったろうに。まったく恩知らずな奴だ」
    「恩知らず、ですか」 
     いくら主人でも聞き捨てならない。
    「恩とは、形で返すものではありませんよ。連絡も特に必要ありません。知らせがないことは平穏無事な証。彼が無事でいてくれることで、恩は返してもらっています」
     お前って奴は、お前って奴は、とぶつくさ呟いて主人は首を振った。
    「お人好し野郎が。こういう時は、旨いもんの一つでも感謝の印として送ってもらいたい、と思うもんだ。それが人情ってもんだろう」
    「旨いもの」
     言われて思い出した。
    「旨いもの、と言えば、英珠からは以前に上等な酒をいただきました。実に見事な酒でした。あの澄んだ色と、かぐわしい香味は忘れることが出来ません。この思い出だけで、私には充分です」
     私の答えを聞いて主人は「阿呆めが」と吐き捨てそっぽを向いた。何故、主人のほうが不満げなのか分からず、笑ってしまった。


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