我傍的、ここだけの話

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高楼心譚(六)

これは小説です。2009年筆 〔中国語版

高楼心譚(六)



「英珠、君は死んだ」

 赤壁戦から時が過ぎたその日、仰臥する青年に私は語りかけた。
「君の葬礼も済んだ……、劉綺の人生は終わったのだよ。だから心安らかになっていい。もう何も、君の心を煩わせることはない」

 眠る青年の頬は血の気を失い青ざめていたが、穏やかだった。
 閉じられた瞼へ落ちる睫毛の影は濃く深い。
 と、その影が揺れた。
 微かに開かれた瞼の隙間から輝く瞳が私を見つめていた。
「本当に……?」
 まだ弱々しい声だった。しかし瞳が放つ光は強い生気を持っている。
「ああ。本当だ。公には君は病で亡くなったと発表されている。君があのような捨て身の行動に出たことは公表されていないし、まして」
「生きているなど、誰も知らない?」
 ふ、と笑った英珠の頬はまだ青ざめている。
「そう。私とここにいる医師と、主人以外に。誰も知らない」

 血溜まりの中で座り込んでいた時には友人を失ったと思った――。
 あの戦闘勝利後。
 荊州牧の位につき、“王”となった英珠だった。
 ところが地元の民たちは、今回の大戦勝利で英雄としての名声が高まった劉備が牧の位につくことを強く求めた。
 お家騒動を乗り越えたと思えばまた、新たな騒動に巻き込まれる。
 追いつめられた英珠は自らの立場に疲れ果てていた。
 いつしか英珠の心に芽生えた希望は“自由”という言葉、一つになった。思えば英珠は子供の頃から立場に翻弄されてきた。そんな英珠が心の底から願っていたのはもはや“王”の地位ではなかった。名誉でもなく、領土でもなかった。一個の人間として自らの意志で生きる、ただその叶えがたき自由な人生だった。
 あの時、我々の主人に譲位を宣言したのは彼の最後の挑戦だったのだ。
「譲位を受け入れてもらえないならこの場で命を絶つ」
 とまで言い、喉元に刀を突き付けた英珠の決意は本物だった。
 自由を望み、その自由が与えれないなら自ら自由を得るまで……と。
 (※以上、『我傍に立つ』第六章の設定)

 英珠は自刃した、と思われた。
 室内から運び出される英珠の身体を呆然と見つめていた私は、もう友人の命はその身体から旅立ってしまったのだと思い込んだ。
 泣いている暇もなく友の葬礼の手配に追われていた最中、「英珠が生きている」と医師から知らされた。
 傷は幸いにも急所をはずれていた。
 大量の血を流してしまったが、若さゆえ奇跡的に体力が快復した。そう医師は語った。
 しかし私は英珠に生きる意志があったからだと考えている。何より英珠の“希望”が、自由な未来を求める心が命を現世に繋ぎ止めさせたのだ。

「済まないことをした。本当に済まなかった……英珠」
 しばらくぶりに目を覚ました友の手を取った時、力なく握り返して来た手の冷たさに私は驚き、堪えきれずに謝まっていた。幾度も謝る私を彼はぼんやりと見つめ、喉の奥で笑った。
「ええ。ほんとうに、ひどいですよ。あなたまで私が死んだと思うなんて」
 済まない。
 泣き笑いで繰り返した私に英珠は真っ直ぐな視線を寄越した。
「死ぬわけ、ないではないですか。やっと手に入れた未来。あなたが、背中を押してくれて手に入れた人生を、手放すわけが」
「そうだ……そうだな。君は強い人だ。自分で未来を手に入れることが出来る人。そんな人が死ぬはずがない」
 私は瞼を強く閉じて口の中で呟いた。
 “生きていてくれてありがとう”
 それから、
「しかし劉綺は死んだ」
 宣告して私は瞼を開いた。力強く見返した英珠の瞳を覗き込んで告げる。
「全て整えてある。劉綺は病で亡くなったとされ、領民も納得している。葬礼は済み、劉綺英珠の人生はこれで終わった。ここから君には、」
 既に覚悟を決めている英珠の瞳が、先を促すように輝いた。
「新しい名、新しい人生が待っている」
 
 英珠には諸葛の名を与えた。
 帝の系譜にある英珠の姓に比べれば、諸葛は遥かに下位の姓だ。その下等な姓を上位者に“与える”とは無礼にも程があるが、その姓を使えば住む家について問題がなくなるのだから仕方がなかった。
 領土内にはちょうど空家となっている家があった。
 私がかつて住んでいた里の家だ。均も出て行った今、住む者もなく荒れている。
 あばら家で申し訳ないが、私のもう一人の弟ということで彼が空家に暮らすようになれば、里の人々もこの“弟”を大歓迎してくれるはずだ。
 こうして彼が諸葛となり、里に身を隠していれば当面は何の心配もなくなるのだった。危険からは遠く離れ、食べ物も充分に得られる。温かい付き合いをしてくれる人々の存在も既にある。
 やがて一人で暮らしていけるだけの力を蓄えた後に、彼が他の場所で暮らし、他の名を名乗ることは自由。その時には彼はもう、私の手の届かない遠い未来にいる。

 別れの日に言葉は要らなかった。
 城門を出る時に振り返り、眩しげに目を細めた英珠の顔は笑顔だった。笑顔のまま小さく頭を下げてから前を向き、彼は新しい道へ踏み出して行った。
 生まれて初めて供も連れず、ただ一人の自由な身として歩いて行く背中が逞しい。
 密かに主人と二人、城門の見張り台から彼の旅立ちを見送っていた私はその背中を見て、
“ああ、二度と会えないのだな”
 と唐突に悟った。
 理屈を越えた確信だった。会おうと努力すれば会うことも可能だ。これまでがそうだったように。だがもう、お互いそうはしないだろうと悟った。あの強い背中を見れば、その必要はない。だからこれはきっと今生の別れとなる。
「泣かないのか?」
 突然、笑いを含んだ声が物思いを破った。横を見ると主人の笑顔があった。
「泣きません」
「ほう。お前にしてはめずらしい。これでお友達とは会えないかもしれないんだぞ」
「分かっています」
 主人は笑ってからかう。
「無理すんな。あいつが死んだと思った時には真っ暗な顔してたくせに。ほら、泣きたかったら泣け。俺の胸、貸してやるから」
「ありがたいお言葉ですが、遠慮しておきます」
「そうか? 残念だな。俺がこれほど親切にしてやることは滅多にないのに。次はないぞ、次は」
 いったい誰のせいで肝を冷やしたのか。今回の事件の元凶となった男の減らない口に苛々しながら、その声が弾んでいることに気付き私はつい微笑んだ。
 主人も喜んでいるのだ。
 立場上、己の信念を曲げることが出来なかったために英珠の譲位を聞き入れることをしなかった主人。しかし一人の人間として、若者の幸せな未来を望まない人ではない。いや、本当は誰より英珠の不幸な生い立ちに心を痛め、密かに心配をしていたのだった。
 だから私の願い通りに英珠に新しい名を与え、新しい家で住む手はずを整えてくれた。今やこの土地の最高権力者となった彼の協力がなければ、全領民に秘密の計画がこれほど思うまま進んでいたはずがない。
 劉備とはこういう人だ。生まれつき人としてごく自然の情けを持ち、抑えきれない温かい心を持つ。
「それにしても惜しむらくは、英珠が届けてくれる旨いものを二度と口に出来なくなったことだな」
 ……そう、そして自然の食欲も。
 主人がぼそりと呟いていた卑しい言葉に私は脱力した。
「まだ言いますか? 仕方がないでしょう。我慢してください」
「我慢するには惜しい、あれは惜しい味だ」
 英珠の酒をあの後、主人も口にしたことがあるのだった。入手の経路は英珠しか知らない。従って英珠が去れば酒ともお別れだった。
「もし我慢出来なくなったら心で味を思い出せばいいでしょう。良き思い出があれば、充分なのではないですか」
 言うと主人はじっと私を見つめ、「お前はそれでいいのか」と訊いてきた。私は小さく笑った。
「ええ。いいのです。別れこそ、未来なのですから」
 生きて別れがあるから未来があると思う。
 この別れは未来が得られた証。
 彼は新しい人生を歩き出した。だから後ろを振り返ることは決してない。振り返るべきではない。
 過去にいた人間、たとえば私のことなどは忘れていい。
 忘れるほど夢中で幸せになってもらえたら、私が彼の過去にいた価値がほんの少しはあるということになるだろう。
 いつか遠い時の果てに再び巡りあうことがあれば、その時は思い出を持ち寄り笑い合いたい。希望通りに生き抜いた人生の思い出を。

 前を向いて歩き続ける青年の背中は地平線の彼方に消えて行った。
 夕陽を浴びた大地の先に輝いていたのは確かに、彼が掴んだ自由という名の未来だった。
 
『平話』異聞
 諸葛亮の弟は均のほかに一人いて、名を英といった。
 彼は亮の故里に住み、妻を娶って九人の子を持ち、家を大きく盛り立てた。
 英はその生涯を通して豊かで健康で、家族に囲まれ幸福に暮らしたという。


<了>
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