2018
Sep
09
-
eスポーツの子に戦術を任せたら? 分業が必要だという話
さっきちらっと見かけた報道番組で、「eスポーツ」日本代表選手が密着取材されていた。
「eスポーツ」とは、ゲームによって戦う競技のこと。
先日のアジア大会で、リアルなスポーツ競技に交じってeスポーツが正式種目になり話題となった。
eスポーツ、すなわちゲームが果たして「スポーツ」ということになるのか?
私は、「スポーツ」とは体を動かす分野だと思っているので、指と脳しか動かさないゲームは別枠にすべきと考える。ただしそれは、一般のオジサンたちのように
「たかがゲーム! そんな下等でくだらないお遊びを、神聖なスポーツ競技の場に持ち込むな!」
と思っているわけではない。
むしろ逆かもしれない。
「わざわざスポーツ大会に頭を下げて入れてもらわなくても、完全に別枠で成立するんじゃない?」
と考えている者。
私は、eスポーツは頭脳プレイの分野に属すると思う。たとえば将棋や囲碁の世界に近いはずでは。
経験上、頭を使う分野と、体を使う分野は違う。
脳領域が連動している、とかの話ではない。
これは人が生来持つ、得意分野についての話。
運動が脳を健康にして頭も良くする、ということを医学界がいくら言っても、
「運動ばかりしている人は頭脳分野の仕事が苦手」
「運動を一切しないで頭脳的なことをしている人は頭脳プレイに飛びぬけている」
ということは現状の事実として明らか。
だから、頭脳分野と体育分野を無理に同化する必要はないと思うね。
それで上の密着取材を眺めていて思ったのだけど、現実のワールドカップ等のサッカー日本代表の監督は、eスポーツ出身の子がやればかなりのところまで行けるのではないか?
取材されていた子は、eサッカーゲームの選手だという。
彼はゲームだけではなく、現実のサッカー映像を観て学習・研究を重ねている。
それどころか、実際の選手(現場の人)の意見を聞き入れて、現実に即した研究を続けているのだ。
あれは実は、現実の軍事戦略家の学習法と同じなのだよね。
戦略家はかつて兵士だった人たちがなるわけではない。
現場でいくら戦闘を重ねても、戦略の基本は身に付かないからだ。
(何故ならおそらく戦場しか経験のない兵士は理論を知らず、俯瞰の視点が持てないからだと思う)
もちろん、言うまでもなく「事件は現場で起きている」、いや「戦闘は戦場で行われている」のだから最終的には現場の声を聴かなければ話にならない。
兵士の気持ちを学ぶことも重要。
しかし、現場の具体的な話は理論を学んでからでも遅くない。
いや、むしろ理論を学んだうえでなければ、些末な情報に溺れて何がなんだか分からなくなり、行き当たりばったりの戦略に終始する人になる。
だから現場の声を聴くのは理論を学んだ後のほうが好ましい。
※これは占星術も同じ。本質理論を学ぶ→些末情報を当てはめる、という学習方法は何でも共通。だから「占星術の学習は他のあらゆる分野に活かせる」と言っています
そのようなわけで、現場経験を積んだサッカー選手が日本代表の監督になるよりも、始めからゲーム等で理論を鍛えてきたeスポーツ選手の子に監督をやらせたほうがうまくいくのでは? と思った次第。
現に、先日のサッカー日本代表、ポーランド戦の「戦略もどき」はあまりにも酷かった。
あれは現場感覚の行き当たりばったり、「やっつけ仕事」と呼ぶ。
(それを絶賛していた日本のサッカーファンも同等。全体を見る目がない)
あの試合を見て、申し訳ないが、スポーツばかりやっている人に頭脳プレイは難しいのだと確信した。
人間の個性として、得意な分野が決定的に違うのだ。
どちらが優位とか下等という話ではない。
明らかに得意分野の個性が違うということ。
得意ではない人に頭脳プレイを背負わせるのはあまりにも酷だ。
昔の社会は今よりも分業が進んでいて、それぞれの人が得意な仕事を担ってきた。
現代社会は、「差別」と「個性」の区別がついていないために、専門家ではない者が全てを担うことを良しとする傾向がある。
それで失敗すると徹底的に叩くのだから、昔の社会よりも残酷で不当だと思う。
そろそろ世の中、昔のように適材適所で分業すべきではないのか?
分かりやすく言えば、
餅は餅屋 ということ。
そのために人の個性・能力の正当な評価が必要と思う。
ゲームの能力しかない人を下等に見ることは差別。
親の資産力で子供の足を切る(貧乏な家の子は大学へ行き社会で活躍する道を永久に封じる)のは、もっと遥かに不当な差別。
きちんと現実を見て、個性と能力によって「餅は餅屋」の区別をしていかないと国が亡ぶし、人間社会も崩壊すると思う。
「eスポーツ」とは、ゲームによって戦う競技のこと。
先日のアジア大会で、リアルなスポーツ競技に交じってeスポーツが正式種目になり話題となった。
eスポーツ、すなわちゲームが果たして「スポーツ」ということになるのか?
私は、「スポーツ」とは体を動かす分野だと思っているので、指と脳しか動かさないゲームは別枠にすべきと考える。ただしそれは、一般のオジサンたちのように
「たかがゲーム! そんな下等でくだらないお遊びを、神聖なスポーツ競技の場に持ち込むな!」
と思っているわけではない。
むしろ逆かもしれない。
「わざわざスポーツ大会に頭を下げて入れてもらわなくても、完全に別枠で成立するんじゃない?」
と考えている者。
私は、eスポーツは頭脳プレイの分野に属すると思う。たとえば将棋や囲碁の世界に近いはずでは。
経験上、頭を使う分野と、体を使う分野は違う。
脳領域が連動している、とかの話ではない。
これは人が生来持つ、得意分野についての話。
運動が脳を健康にして頭も良くする、ということを医学界がいくら言っても、
「運動ばかりしている人は頭脳分野の仕事が苦手」
「運動を一切しないで頭脳的なことをしている人は頭脳プレイに飛びぬけている」
ということは現状の事実として明らか。
だから、頭脳分野と体育分野を無理に同化する必要はないと思うね。
それで上の密着取材を眺めていて思ったのだけど、現実のワールドカップ等のサッカー日本代表の監督は、eスポーツ出身の子がやればかなりのところまで行けるのではないか?
取材されていた子は、eサッカーゲームの選手だという。
彼はゲームだけではなく、現実のサッカー映像を観て学習・研究を重ねている。
それどころか、実際の選手(現場の人)の意見を聞き入れて、現実に即した研究を続けているのだ。
あれは実は、現実の軍事戦略家の学習法と同じなのだよね。
戦略家はかつて兵士だった人たちがなるわけではない。
現場でいくら戦闘を重ねても、戦略の基本は身に付かないからだ。
(何故ならおそらく戦場しか経験のない兵士は理論を知らず、俯瞰の視点が持てないからだと思う)
もちろん、言うまでもなく「事件は現場で起きている」、いや「戦闘は戦場で行われている」のだから最終的には現場の声を聴かなければ話にならない。
兵士の気持ちを学ぶことも重要。
しかし、現場の具体的な話は理論を学んでからでも遅くない。
いや、むしろ理論を学んだうえでなければ、些末な情報に溺れて何がなんだか分からなくなり、行き当たりばったりの戦略に終始する人になる。
だから現場の声を聴くのは理論を学んだ後のほうが好ましい。
※これは占星術も同じ。本質理論を学ぶ→些末情報を当てはめる、という学習方法は何でも共通。だから「占星術の学習は他のあらゆる分野に活かせる」と言っています
そのようなわけで、現場経験を積んだサッカー選手が日本代表の監督になるよりも、始めからゲーム等で理論を鍛えてきたeスポーツ選手の子に監督をやらせたほうがうまくいくのでは? と思った次第。
現に、先日のサッカー日本代表、ポーランド戦の「戦略もどき」はあまりにも酷かった。
あれは現場感覚の行き当たりばったり、「やっつけ仕事」と呼ぶ。
(それを絶賛していた日本のサッカーファンも同等。全体を見る目がない)
あの試合を見て、申し訳ないが、スポーツばかりやっている人に頭脳プレイは難しいのだと確信した。
人間の個性として、得意な分野が決定的に違うのだ。
どちらが優位とか下等という話ではない。
明らかに得意分野の個性が違うということ。
得意ではない人に頭脳プレイを背負わせるのはあまりにも酷だ。
昔の社会は今よりも分業が進んでいて、それぞれの人が得意な仕事を担ってきた。
現代社会は、「差別」と「個性」の区別がついていないために、専門家ではない者が全てを担うことを良しとする傾向がある。
それで失敗すると徹底的に叩くのだから、昔の社会よりも残酷で不当だと思う。
そろそろ世の中、昔のように適材適所で分業すべきではないのか?
分かりやすく言えば、
餅は餅屋 ということ。
そのために人の個性・能力の正当な評価が必要と思う。
ゲームの能力しかない人を下等に見ることは差別。
親の資産力で子供の足を切る(貧乏な家の子は大学へ行き社会で活躍する道を永久に封じる)のは、もっと遥かに不当な差別。
きちんと現実を見て、個性と能力によって「餅は餅屋」の区別をしていかないと国が亡ぶし、人間社会も崩壊すると思う。
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