我傍的な話(裏話・実話を絡めた歴史空想話)

    自分の「前世記憶」は、どのあたりが願望なのか? 分類

    アンチ(唯物論者)への反論記事は終了。
    ここは小説読者様向けの長い付録です。

    ※需要を考え『永遠』についての話をカットし、『我傍』についてのみとしました。

    本文常体。

    『我傍に立つ』は、どこまで願望なのか


    私の鬼門。
    他人はこの『我傍に立つ』こそ、お前の願望の表れそのものだと叫ぶだろう。

    あれが潜在記憶や脳による創作ではないことは、何度も書くようにこちらで証明しているのでここでは省く。
    (小説としての意図的なフィクションは本の後書きに掲載しています)

    こんな証明があっても他人は「願望でしかない。絶対そうに決まっている」と言い続けるはず。
    輪廻転生を信じないと決めている人を除けば、何故なのか?

    私が宗教を興すのではという警戒心もあるだろうが、ほとんどが嫉妬からだろう。
    「有名」だったり「頭がいい」と褒められる人生は多くの人が羨ましいと思うものらしい。

    怒られるのを覚悟で言っておくと、私にとって

    ・有名だった記憶 → ありがたいとは思っているが恐怖だった。
    ・頭がいい人と呼ばれチヤホヤされた記憶 → 今世の幼少期も同じ(チヤホヤの次元は違うが)だったから、願望ではあり得ない。
    ・貴族的家系、名家に生まれた → 今世も同じ。願望で夢見るはずがない。

    なので何が羨ましいのか分からない。
    だから多くの人と話が噛み合わず、怒られる。

    「有名な名」に関して付け加えておくとそれは今現実の私自身の恐怖でもある。
    今のところ、どうせ誰も信じないのだから大丈夫と安心しているところがある。だけど、もし多くの人が自分の話を信じるようになったらどうすればいいのか分からない。否定されるより過剰に信じられるほうが怖い。
    きっと人生を失う。命も失うかもしれない。
    たまに、そんな事態を想像して冷や汗をかく。
    だから「有名」であることは羨ましがられる願望などではない。試練だ。


    私は愛の証明として記憶・記録を信じたい


    もし『我傍に立つ』のなかに願望があるとすれば――ただ一点、「愛された」という記憶だけだ。

    『我傍』だけではなく全転生記憶を通し、私にとって唯一の快楽と言える記憶は、ありのままの自分を認めてくれた人たちがいたということ。
    前世ではあれほどまでに愛してくださった主人がいて、友がいた。大勢の人々がいた。その前の人生では先生が愛してくださった。
    (愛してくださったなどと言うと語弊あるけど、もちろん人間として)

    こんな、半端な勉強しかできない、愛想を振りまけない不器用な人間をそのまま認めてくれる人が地上に存在するとは。
    あり得ないことだと思った。始めはとうてい信じられなかった。
    今(17歳当時)があまりにも孤独だから愛されたという「願望」をイメージして精神を保とうとしたのだと思った。

    でも記録を発見して、こういう嫌われタイプの人間をそのまま認める人が地上にいたという歴史事実を知った。
    それから愛は現実だと信じられるようになった。
    私が記録と自分の記憶を一致させたいという願望を持つとしたら、ただ一点この「愛の証明」を理由とする。


    ……笑
    さすがに書いていて恥ずかしくなってきた。
    「愛の証明」などと、恥ずかしい言葉だし本気で誤解されるな。

    しかし今世、愛に飢えていたのは事実。
    どれだけ孤独を感じていたのだろうかと自分の子供時代を憐れに思う。
    今世では(いや過去世でもか)親にさえ愛された経験がなかったもので。

    本気で愛してくれるのはいつも遠くから訪れる他人だった。今世でもそう。

    今は少し現実でも自分が愛されることを信じられるようになってきた。
    そうは言ってもまだ足取りがおぼつかず、自信満々とは言えないのだけど。

    こんな記事も書いていました。本当は記憶だけでも確信できたはずだが「記録」で裏付けられたことには感謝:
    【関連する話】 死の直後の“走馬灯”は嘘がつけない

    >>2023年の公開にあたって補足
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