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吉野圭のプライベートブログです。小説裏話、前世+占星術
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名を名乗ることは、自分の行跡に鍵をかけることである

一昨日、
「自分の名が星に刻まれて永久的に残るなどと、想像しただけでゾッとしてしまう」
「どちらかと言えば行跡だけ残るのが最もカッコイイ。それは人類として生まれた者の理想」
と書いた。
 →星を買うファン。歴史に自分の名を刻みたいと言う人たちは、何故そう思うのか?

書いておきながら、昨夜からブログの説明文に「吉野圭のプライベートブログです」などと痛い文言を表示したのにお気付きで?
言っていることと、やっていることが違うよと思われたかもしれない。

これは実は人間ではなくロボットに対するアピール。
説明文で、誰の・何のブログか書かないと順位が落ちていく、ということを知ったため。
順位が落ちるどころかペナルティを受けた当方は、こんなの焼石の水だと思いつつも試してみたら少し持ち直した気がする。ほんの少しだけど。

だいたい人間に対しては、「吉野圭の~」と名乗ったところで「誰だよそれっ」と思われるだけなので意味がないでしょう。笑

ただ、無名人であっても名乗ることは必要と言えるかもしれない。
自分の行いを保護するために。

分かりやすい例を挙げると、現状、「書いた物を保護する」には名乗るしか手段がない。
法的な観点から言えば、著作権を保護するためには、著作物(書いた文や画像)に名前を表記することが必要不可欠となる。
その手続きが欠けていると、書いた物を保護することは事実上不可能だ。
誰が・いつその文書なり画像なりを作成したかの情報が記録されていなければ、たとえば裁判となったときに盗作した相手方に「自分が書いた」と主張することができない。
これは自分の権利を主張できないだけではなく、書いた物、それ自体を保護することも不可能となることを意味する。
どれだけ改変されて滅茶苦茶にされても「やめてください!」と言えなくなるわけだ。


匿名で、行跡だけ残すのが人類として最もカッコイイし理想――
私は幼い頃からそう思ってきたし、死ぬまでそれが達成できることを願っている。
でも今の人間社会でそれは事実上不可能なのだ。残念ながら。
(よほど人類を決定的に変える思想や技術を提供するのでない限り)

名乗ることでしか、行跡を保護できないのが今の人間社会。
これは自分がその作品などから得られる利益を守るということだけではなく、行いそのものが改変されないようシールドして未来へ残していくことを意味する。
つまり、名を名乗ることは自分の行跡に鍵をかけることである、と言える。

私も結局、今ここでみっともなく名を晒して生きた証を残していくしかないのだろうなと思っている。
恥ずかしい過去と今の名を二つ、セットで残さなければ全く意味がない。

この恥ずかしさは拷問に等しいが、やり抜かなければならない宿命なのだと思う。

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