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吉野圭のプライベートブログです。自作品『我傍に立つ』裏話と世間雑記、占星術メモ
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「平等圧力による公平性ストレス」で極端差別へ。個性の彩り豊かな、ファンタジー世界の実現を願う

しばらく平和的な話を書こうと思っていたのだけど、悲しい事件に触れて耐えられずに書く。

米国でまたヘイトクライムによる凶悪な事件が起きた。
ブラジルでは差別主義者のナショナリストが大統領になったという。
世界中で差別と偏見を礼賛し、暴虐を愛する人々の声ばかり高まっていることを憂う。

どうすれば差別がなくなるのか?
この根本的な問いに世界が応答してくれたことはない。
かつては、「いずれ人類から差別がなくなるのでは」と望める雰囲気があったというのに、世界は再び差別主義の方向へ傾いている。しかも大虐殺(ジェノサイド)が起きる可能性のある、極端な針の触れ方だ。

「どうすれば差別がなくなるのか?」という問いの答えは見つからないが、
「どうして今のような極端な差別主義が蔓延する時代になったのか?」
との問いの答えは分かるような気がする。
近現代の極端かつ間違った、
“平等圧力による公平性ストレス”
で抑圧された不満が爆発
しているのだ。


下のリブログ参照。
※kokodakenobekkan-2018が筆者、前半文章は他者
『有害な人とそのネガティブな波動から自分を守る10の方法ライフハック-カラパイア』記事について

サービス終了に備えて引用。
charlietokyojp

“ここでいう有害な人とは、他者に悪影響を与え被害をもたらす人のことである。有害な人には様々なタイプがある。自己中心的でナルシストだったり、パーソナリティ障害だったり、サイコパスやソシオパスなど多種多様だ。いずれもネガティブな波動を撒き散らす困った人種である。”

オモシロイ。
世の中の流れとしては、そういった人達が世間に理解を求める方向だが、記事の内容は真っ向から避けている(笑)。
一般人同士、好き嫌いで付き合ったり避けたりするのは普通だから、問題がある(とされる)人達を何も好きになる必要はない。
世の中的に問題があるとされる人達を嫌ってはいけないという設定はただの同情(上から目線)であり、好き嫌いは自由だし、常に選択権が与えられている。
白人社会において、黒人を差別してはいけないが、黒人を好きになれと言われる筋合いはないのと同じだ。
今この線引きが上手くできず、一般人の方がヤキモキしているように見えることが増えた。
平等圧力による公平性ストレスとでも呼ぼうか。
ソレで自分が壊れてしまっては身も蓋もない。
先日のクリステン・スチュワートのソレも、どこか飲み込むしかない空気感を漂わせている世間を観察していて気の毒になることが増えた。

↑こちらに反応しての私のコメント:
「平等圧力による公平性ストレス」、この表現はとても的確で唸った。

どちらかと言えば差別心がなく、"公平人間"と言われた自分も今の時代の「見境なく・みんな同じでなければいけない」にはついていけない。
と言うか、これは間違った公平で、逆に不当となっている。

前に上げた「障がいは言い訳に過ぎない」も、「みんな同じでなければいけない」との間違った公平圧力からの押し付けになりかねない。
実はそのほうが差別を助長してしまう。
できる人・できない人、十人十色の千差万別なのだから、できないことを責めてはいけない。同じ扱いをして責めるほうが差別。

また、快楽殺人者など他人に危害を加えることを生き甲斐としている反社会的タイプを「差別するな」「受け入れろ」と言うのも不当。
ストーカーの独占欲を差別してはいけません。喜んで受け入れて奴隷になりなさい。相手には黙って殺されなさい。それが多様性を認めること――??
これは加害者だけを優遇し被害者を圧倒で差別していないか?

相手をよく見極めもせず、肌の色や性別だけでレッテルを貼るのが差別だろう。個々の差異を認めて判断し、不当ではない対応をすればいいだけでは。

続きの話……

近現代社会は、障碍を持つ方々へ健常者と同等の結果を求めることを「公平」と呼んだり、男女を無理やり同じ扱いをして一律の対応をすべきだと言ったり、有害人物や犯罪者を優遇することを「平等」と呼んできた。
間違った平等を無理やり強いられ、かえって激しい不平等感・不公平感に皆が苦しんでいる。
その抑圧された不満が今になって一気に噴出し、
「差別は正しい! 差別すべきだ! 被差別対象を殺せ!」
という叫びを生むなど極端な方向へ針が触れているのではないかと思う。
(そして、悪行を崇拝している欲深い人々を増長させている)

差別は明らかに間違っている。
でも、個性を否定し、差異を無視して誰に対しても同じ対応をするのが「平等」「公平」ではない。

個性は主張され認められるべきもの。
むしろ個性がなければ世界は無味乾燥でつまらない。
誰も無個性の枠に入れられることを強いられるべきではない。誰もが同じである必要はない。同じことを強いて誰かの個性を殺すことのほうが犯罪的な不平等だ。

たとえばこのブログで書いているような、「占星術のサインによる個性の違いを語る」ことを差別と呼ぶ人もいるのだが、それこそ誤った平等教育が生んだ歪んだ思想。
個性の違いはあったほうがいい。サインなどを悪口に使うのは絶対ダメだし、一律のレッテルで最初から決めつけてはならないが。→そのためにも多様な情報を取り入れ俯瞰で見る必要がある、単純化は危険

個性を認め、尊敬し合い、能力や性質で個別の対応をする社会が「平等」「公平」な社会ではないか?
十人十色の能力や個性があるからこそ人間関係が生まれ愛も生まれる。

犯罪への対応も必要。
犯罪者にはそれなりの処罰をし、一般社会から隔離するなどの対応をしないと、かえって不当で不平等になるだろう。犯罪者を野放しにすることは、真面目に生きている他の人々や被害者よりも犯罪者だけを圧倒で優遇することになるからだ。
同じように、「宗教信者を差別してはならない」からと言って霊感商法などの犯罪的な勧誘を許容することも間違っている。それは宗教信者だけを圧倒で優遇し、他の一般の人々に奴隷制度を強いるのに等しい不公平だからだ。

要は生まれつきの属性――人種・性別・血統・障碍・貧富など――だけで始めから可能性を断たれるべきではないこと。
属性だけで殴られたり殺されたりする人がいなくなること。
全ての人が自分の行いだけで正当に評価され未来を拓けること。
それが真に「平等」「公平」な社会であると思うし、私がずっと夢見てきた世界だ。


個人的には、ファンタジーゲームのような世界になるといいなと願う。
ゲーム主人公が各地域を移動すると、その地域独特の装いをした人々や妖精・怪物たちで溢れている。でも皆、相手の見かけで差別することなく交流し、それぞれの個性を活かして仲間になっていく。そんな彩り豊かで友好的な世界に憧れる。

そういう世界を求めて人々はファンタジーゲームをやるのだと思う。
実は魂が地上に降りてきているのもファンタジーゲームを求めることに似て、彩り豊かな場を愉しむためだったりするのだろう。
世界が全て同じ文化風俗となり、同じ顔をしたロボットだけが歩き、どこへ行っても変わらない景色となってしまったら地上に価値はない。
そんな無個性となった世界は誰も存在しないのと同じ。地球滅亡したに等しいのではないか?
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Author : 吉野 圭

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