最近の私は文章を書きながら、DA PUMPか米津玄師ばかり見ている(聴いている)。
人は年を取ると心が十代に戻るのだろうか?
いや、良い曲は良いということだよね、幾つの人間が聴いても。
と言うより、音楽はある時期から変化がストップして世代ごとの好みが変わらなくなってきている……気がする。
昔は年上の人たちは演歌や歌謡曲など、我々とは全く別ジャンルの曲を聴いていた。だから自分も年を取れば過去の音楽だけに閉じ籠もり、若い世代の曲を聴かなくなるのだと思っていた。
でも全くそんなことはなかった。
なんてことはない、人は自分の若い頃に馴染んだものを求めるだけだ。そして今は我々が昔聴いていた曲と、現代の新曲にあまり違いはない。
もちろん少しずつ進化していて、昔より楽曲も歌い手も洗練されてきたが、演歌とPOPSのように全く世界観が違うということはない。
単に昔は流行のスピードが速かったから世代ごと聴く音楽ジャンルが違っていただけなのだ。
だから今は年寄りも若い人も同じような曲を聴いているのではと思う。
(これが、我々よりもう一世代前だと今の曲は分からないと拒否することがあるのかもしれないが)
米津について。
彼は楽曲もダンスも凄いのだろうけど、何より歌詞が飛び抜けて優れているね。
言葉の感覚が鋭敏で、さらに日本古来の感性もあり面白い。
個人的に『Flamingo』の語感と楽曲の絶妙な科学反応が好きで、何度も聴いている。
それと最も有名な『Lemon』は、言葉が悲鳴のように聴こえ、切ないを通り越して痛みを覚える。
この『Lemon』の中の、
「今でもあなたは私の光」――
これはショッキングな歌詞だ。
純愛の歌詞のように思える。
でも想われている相手はもう忘れているかもしれない、まだ自分が想われているなど夢にも思っていない。そうすると絶望の歌なのだ。
闇を貫く光は、絶望の静寂を切り裂く悲鳴として私には視える。
どこかであなたが今 私と同じようなこれも和の感性だな。きっと梶井基次郎の『檸檬』が意識されているのだろうなと想像する。
涙に暮れ寂しさの中にいるなら
私のことなどどうか 忘れてください
そんなことを心から願うほどに
今でもあなたは私の光
(C)米津玄師『Lemon』
あの灰色の世界を強烈に貫く黄色の爆弾。静かで強烈な叫び。
たぶん二度と会うことがない相手を思い続けることは、死んだ人を想うことにも似ているはずだ。
蘇ることのない過去に悲鳴を上げる人もいるだろうし、光としての思い出をそっと静かに見つめる人もいるだろう……。
偶然だが昨日、この曲を聴きながら前記事に書いた過去の出来事を読み返していた。
私の場合は戻らない過去の絶望に悲鳴を上げるのではなく、楽しい思い出に心が温かくなった。
あの思い出に触れるだけで、今でも心に火が灯るように、しばらく温かい気持ちが続く。
私にとってもあの人はまだ、「今でもあなたは私の光」なのだなと思った。温かい気持ちで満たされる光を持つ自分は幸せ者だ。
最近、このような人間の気持ちが僅かも理解できない、きっと米津の『Lemon』を聴いても僅かも理解できないはずの歴女など、木偶のごとき現代人ばかり見かけ心は冷え切っていた。
でも再び温かい光に触れて気力が湧いてきた。
――結局また二千年近く前の話になってしまったのか、これは? 笑
でも、悪くない。
思い出を持ち続けるのは決して心の健康に悪いことばかりではない。
かつては忘れよう・棄てようと努力していたのだが、もうそんなことを考えるのはやめよう。
あの光は私にとって絶望ではなく、生きる糧なのだ。(私の場合は光合成のための光だな)
※アーティストの敬称略