2013
Jul
20
-
陽の当たる丘の家で
二十歳からの長い年月、ある寂れた町の丘に住んだ。
別に何かに因んだわけでもなく誰かを気取りたかったわけでもない。
たまたま偶然にその物件に出会って惚れ込み住み始め、他に行く当てもなかったので長いこと暮らし続けてしまっただけだ。
たぶん本能的に、丘という地が好きなのかもしれない。見晴らしの良さで選んだ物件だ。つまり、馬鹿と煙。
そこは丘の頂上付近、南側の斜面で、陽光が燦々と当たる場所だった。
“さんさん”と言うよりも“容赦なく”と言ったほうが正しいか。
丘の頂上という土地故さえぎるものが何もないから、朝から夕まで太陽が昇っている限りは日差しをまともに浴び続けるしかないのだった。
冬は良いが夏はたまったものではない。窓から差し込む陽光は部屋の全てのものを温める。壁や柱、家具に至るまで何もかもが高機能な保温材と化す。
題名に「家」と書いてしまったが正確には一軒家などではなく、古びた集合住宅。状況はプレハブと何も変わらない。いや、そこらの建築現場の監督用プレハ ブのほうが、エアコンが付いているだけ遥かにましと言える。エアコンなどという高級なものは我が家には無縁だったから、蒸し風呂という表現ではまだ生温い、人を殺せるレベルの温度に上昇した。
言い忘れていたがこれは平成の話です。
エアコンのない物件などがこの世の中にあることを知らない人には衝撃だろう。
平成の世にしては特殊な物件、特殊な経済状況だったよなと思う。
我がことながら、よく死なずに済んだ。
情緒のない話はここまでにして。
その丘に住んでいた頃はよく本を読んだ。
晴れていれば文庫を片手に散歩に出た。木の葉ずれをBGMに、公園読書が定番だった。
雨の日は当然ながら家に籠もって。雨垂れのBGMに囲まれながら延々と本の頁を見つめ続けた。
……今から思えばなんという贅沢な日々だったのだろう。
金はなかった。他人の目には不幸とも不憫とも映る生活だったと思う。蔑まれてもいたはず。
けれど多くの人が得たいと願いながらなかなか得難い「読書時間」を私は得ることが出来た。
稀有なことだし、恵まれていたのだと思う。
あの日々は、人として得られる限りにおいて最高の贅沢だったのだ。二度と戻ることは出来ない貴重な時間。
若い時を無駄に過ごしたと他人は嘲笑するのだが、私はあの日々に感謝したい。
※長い休み時間:ニートではありませんが、あまり強く否定したくない理由と解説はこちら
金がないので他に選択肢がなかったんだろうと言われれば、まあそれも確かに正しいのだけど。
幼い頃から大の本好きだった私だが、十代の頃は人目をはばかって本を読むことを控えていました。
本など読んでいると「暗い」とか「頭良さげ」というイメージを持たれて差別されるのではと恐れていたため。
何かと臆病だった十代の私。あまりにも空気を読み過ぎて、心から好きな趣味にすら突き進むことが出来なかったという。
その反動で、人目をはばからずに済むようになった二十歳過ぎから思いきり本を読むようになったわけです。
残念ながら、社会に役立つような本を読んでいたわけではないので、その頃の読書歴は現実何の役にも立っていませんがね。
フィクションにおける某歴史人物のように、本を読みながら「社会計画を練っていた」などということは全くないし、そのような目的で本を読むのは私はくだらないと思う。
くだらない、と言うのは言い過ぎかもしれないが、実利的な目的で本を読むのは虚しいことだと思うのです。ましてそれが文学なら実利目的で本を開くのは作者に対して大変な失礼、小説の冒涜に当たる。
もちろん仕事のためにテキストを読まなければならない状況なら実利目的も当然と思いますよ。
たとえば今の私がそうです。
仕事のためにビジネス関連の本しか読めない状況になってしまって、ここ数年は小説をほとんど読んでいない。
しかし仕事で強いられるわけでもないのに、ただ実利だけで本を読むのは虚し過ぎます。
小説、文学はやはり堪能するために読むべきものです。
つまり純粋に自己のためだけに読むのが本来の読書であって、それが作者への唯一の報いと言えるでしょう。
そしてただ味わうことこそ、与えられた貴重な休み時間に対する恩返しともなるのではと思います。
考えてみれば人生の目的とは全て味わうことにあるので、常に実利だけ考えて味わうことを忘れて生きるのは虚しい。
忙しい毎日となっても時々立ち止まって、好きなことを思うまま堪能した贅沢な日々を思い出したいものです。
別に何かに因んだわけでもなく誰かを気取りたかったわけでもない。
たまたま偶然にその物件に出会って惚れ込み住み始め、他に行く当てもなかったので長いこと暮らし続けてしまっただけだ。
たぶん本能的に、丘という地が好きなのかもしれない。見晴らしの良さで選んだ物件だ。つまり、馬鹿と煙。
そこは丘の頂上付近、南側の斜面で、陽光が燦々と当たる場所だった。
“さんさん”と言うよりも“容赦なく”と言ったほうが正しいか。
丘の頂上という土地故さえぎるものが何もないから、朝から夕まで太陽が昇っている限りは日差しをまともに浴び続けるしかないのだった。
冬は良いが夏はたまったものではない。窓から差し込む陽光は部屋の全てのものを温める。壁や柱、家具に至るまで何もかもが高機能な保温材と化す。
題名に「家」と書いてしまったが正確には一軒家などではなく、古びた集合住宅。状況はプレハブと何も変わらない。いや、そこらの建築現場の監督用プレハ ブのほうが、エアコンが付いているだけ遥かにましと言える。エアコンなどという高級なものは我が家には無縁だったから、蒸し風呂という表現ではまだ生温い、人を殺せるレベルの温度に上昇した。
言い忘れていたがこれは平成の話です。
エアコンのない物件などがこの世の中にあることを知らない人には衝撃だろう。
平成の世にしては特殊な物件、特殊な経済状況だったよなと思う。
我がことながら、よく死なずに済んだ。
情緒のない話はここまでにして。
その丘に住んでいた頃はよく本を読んだ。
晴れていれば文庫を片手に散歩に出た。木の葉ずれをBGMに、公園読書が定番だった。
雨の日は当然ながら家に籠もって。雨垂れのBGMに囲まれながら延々と本の頁を見つめ続けた。
……今から思えばなんという贅沢な日々だったのだろう。
金はなかった。他人の目には不幸とも不憫とも映る生活だったと思う。蔑まれてもいたはず。
けれど多くの人が得たいと願いながらなかなか得難い「読書時間」を私は得ることが出来た。
稀有なことだし、恵まれていたのだと思う。
あの日々は、人として得られる限りにおいて最高の贅沢だったのだ。二度と戻ることは出来ない貴重な時間。
若い時を無駄に過ごしたと他人は嘲笑するのだが、私はあの日々に感謝したい。
解説。
二十歳だったあの頃、長い休み時間を得た私が本を読む日々を選んだのは、やはり幼い頃から読書が好きだったからです。※長い休み時間:ニートではありませんが、あまり強く否定したくない理由と解説はこちら
金がないので他に選択肢がなかったんだろうと言われれば、まあそれも確かに正しいのだけど。
幼い頃から大の本好きだった私だが、十代の頃は人目をはばかって本を読むことを控えていました。
本など読んでいると「暗い」とか「頭良さげ」というイメージを持たれて差別されるのではと恐れていたため。
何かと臆病だった十代の私。あまりにも空気を読み過ぎて、心から好きな趣味にすら突き進むことが出来なかったという。
その反動で、人目をはばからずに済むようになった二十歳過ぎから思いきり本を読むようになったわけです。
残念ながら、社会に役立つような本を読んでいたわけではないので、その頃の読書歴は現実何の役にも立っていませんがね。
フィクションにおける某歴史人物のように、本を読みながら「社会計画を練っていた」などということは全くないし、そのような目的で本を読むのは私はくだらないと思う。
くだらない、と言うのは言い過ぎかもしれないが、実利的な目的で本を読むのは虚しいことだと思うのです。ましてそれが文学なら実利目的で本を開くのは作者に対して大変な失礼、小説の冒涜に当たる。
もちろん仕事のためにテキストを読まなければならない状況なら実利目的も当然と思いますよ。
たとえば今の私がそうです。
仕事のためにビジネス関連の本しか読めない状況になってしまって、ここ数年は小説をほとんど読んでいない。
しかし仕事で強いられるわけでもないのに、ただ実利だけで本を読むのは虚し過ぎます。
小説、文学はやはり堪能するために読むべきものです。
つまり純粋に自己のためだけに読むのが本来の読書であって、それが作者への唯一の報いと言えるでしょう。
そしてただ味わうことこそ、与えられた貴重な休み時間に対する恩返しともなるのではと思います。
考えてみれば人生の目的とは全て味わうことにあるので、常に実利だけ考えて味わうことを忘れて生きるのは虚しい。
忙しい毎日となっても時々立ち止まって、好きなことを思うまま堪能した贅沢な日々を思い出したいものです。
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