プライベート

    『ボヘミアン・ラプソディ』異端スターの孤独を描いた物語。この人生は体感すべき

    ちょっと肩の力を抜いて、現代一般の雑談に戻りましょう。

    話題の映画を体験しに行った


    久しぶりに丸一日休みが取れた先日、話題の『ボヘミアン・ラプソディ』を観に行った。
    “ライブシーンの臨場感が凄い!”
    “フレディが蘇ったみたいで興奮する!”
    という噂だったので、これは歴史的体験として映画館で観ておかねばと思ったからだった。



    この映画は1970年~80年代に一世風靡したQueen(クイーン)というバンドのリード・ボーカル、フレディ・マーキュリーを描いた伝記映画。

    私はクイーン世代ではなく、音楽についてもあまり詳しくないので前知識なく観たのだが、全ての曲に耳馴染みがあったのは驚いた。
    人生のなかで何度も、CMやBGMで聴いてきた曲ばかりだ。
    音楽に疎い人間でさえ一緒に口ずさめるほど何度も聴かされてきたとは、確かに凄まじい伝説バンドだ。

    世代ではない者のボンヤリしたイメージだけで言うと。
    楽曲は子供心に上品だなと思っていて、クラッシック(オペラ?)とロックの奇妙な融合を魅力的には思っていた。意味はさっぱり分からなかったが(笑)、嫌いではなかった。
    映画で改めて聴いてから衝撃を受け、今さら何度も聴いている。
    当時は新しかったのだろう手法を駆使したオリジナルな楽曲は、今となってはクラシカルな印象だが、唯一無二の血の通った音楽として胸に響く。
    振り返れば、誰も彼らを真似できなかったことが凄い。クイーン世代には言わずもがなのことだろうけど、現代の機械音とは比べ物にならないエネルギーがある。心を育てる濃厚な音楽と思う。

    人物としてのフレディ・マーキュリーのイメージは、……子供の頃のイメージなので申し訳ないのだけど、
    「派手な衣装を着た、ちょっと変なタンクトップおじさん」
    と思っていた。
    子供的にはあの胸毛と髭、派手な衣装のインパクトばかりが強くて、「うーん。無理」と苦笑いで逃げたくなる感じだったな。
    際物として話題を取るミュージシャンなのだと思っていたけど、こちらの記事によれば当時の大人たちの評価も概ね同じだったらしい。
    彼らの異端ぶりを象徴するのが外見だ。普通にいうところのロック的な「格好良さ」「美しさ」とは違う美意識があった。それはギャグすれすれでさえあった。

    フロントマンがいわゆる美形ではなく異形だった。和服(女物)をはだけて着用。かの有名な全身タイツ。ブライアンのひらひら多めの服。フレディが口ひげを生やした時、日本にはしゃれか本気か「フレディのひげを剃らせる会」という団体がラジオ番組や雑誌に登場した(実在したのか?)。女王の王冠とガウン。ひげのあるまま女装。ライブ・エイドという大舞台なのに休日のお父さんみたいなフレディ――。

    『ボヘミアン・ラプソディ』はもっとクスクスという笑い声と共に観られてもいいと思う。
    https://toyokeizai.net/articles/-/253786?page=3
    ですよねえ。

    フレディが「異形」だったということは意外で、当時の女の人たちにキャーキャー騒がれていた印象だったから美形扱いなのだと思っていた。(映像で観ればわりと端正な顔のような気がするのだが、私には美醜がよく分からないのかな?)
    「歯が出ていた」という事実さえも全く知らず、「どうして矯正しないのか」とまで言われていたことも知らなかった。
    あと、始めからあの髭・短髪・タンクトップだと思っていたので、途中からスタイルが変わったことも知らなかった。
    はたまたゲイとなったのも途中からで、女性と結婚していた過去があったということさえ知らなかった。

    つまり、ほとんど何も知らなかった。偶像としてのイメージしか。
    そんな私には、「一個の人間・ファルーク」の真実は意外な話の連続で、新鮮な驚きをもって眺めることのできた物語だった。

    結果、
    「なるほど。三国志のフィクションイメージしか知らない人が現実を知ったときの驚きは、こんな感じなのか」
    と疑似体験することができて個人的には面白かった。
    (我ながら、どういう次元で観ているんだろうか。笑)


    スターの壮絶な孤独、そしてかけがえのない絆


    この映画の価値は、話題となっているラスト21分のライブ再現にも確かにあるが、何より個人としてのフレディの苦悩を描いたことにある。

    スターの高みに祭り上げられたフレディ。
    栄光のなかでの、想像を絶する孤独が痛々しくて涙せずにはいられない。

    フレディの孤独について、「セクシャル・マイノリティとして差別された孤独」とだけ理解している人も多いようだけど、私はそうではないと思う。
    確かにマイノリティは少々生きづらい。差別もある。恋人も友達も得られる確率が大多数の人より低い。
    ただこれだけは言える――孤独へ落ちたならマイノリティ・マジョリティ、どちらの境遇も同じだと。
    性的属性など全く無関係に人は常に孤独の危険に晒されている生き物。
    マイノリティでもパートナーがいれば孤独ではないし、ストレートでも一人きり孤独の底に落ちることがある。

    おそらく、人間関係に妥協できない人ほど孤独を感じる可能性が高くなるだろう。
    「傍に居て欲しい」
    そう心から願う相手が、常に傍に居てくれるとは限らないのだから。
    求めても求めても叶わない願いがある。
    癒えない孤独がある。
    そんなとき、妥協して手近な人間関係でごまかしてしまえる人は、あれほど傷付き苦しんだりしない。

    つまりフレディが孤独を感じていたのはセクシャルマイノリティだったからではない。
    誰よりも寂しがりで、真実の人間関係を求めたからこそ妥協できず、偽物の愛や友情を拒絶していってしまったからなのだ。自分をごまかすことのできない正直な人だったと言えるだろう。

    だけど結果として、その性質ゆえに彼は最終的に真実の愛を知り、恋人と友達に囲まれ死んでいく。
    彼の傍には最初から真実の友がいて、彼を心から愛する恋人がいた。反発していた両親さえも深い愛を持っていたことを、フレディは最後には思い知る。

    45歳で早世したフレディを「可哀想」と思う人は多いだろうが、勘違いだ。
    これは愛に囲まれて生きて死んだ人の、最高に幸福な人生のお手本だ。


    個人的に共鳴したところ


    映画レビューから話が逸れるけど、個人的に私は我がこととして観た部分が多かった。
    社会から疎外されていて、孤独を感じており、真実の友だけ求めているというところ……できる限り正直に生きたいと思うからなおさら孤独になってしまうところ……、自分にも共通していると感じたので。

    そしてこれは私だけ、特殊なのかもしれないが
    「高みに祭り上げられた孤独」
    にも異次元の感覚で共鳴してしまい、辛かった。
    特にフレディが嫌らしいメディアのフラッシュを浴びる場面、嘲笑の視線を浴びる場面は我がことのように感じられ観ていられなかった。
    下世話な他人の評価の勝手さ、嫌らしさが本当によく表現されていて突き刺さる。
    欲望や嫉妬だけを向ける周囲の人間の醜さも、怖いほどリアルに描写されている。

    ちょうどあの冷酷な視線を浴びていた頃のフレディのインタビュー映像の言葉には打たれた。https://youtu.be/vW01ecOtzPYより
    Q.あなたを一言で言うと?

    フレディ回答:(僕は音楽の娼婦さ、とふざけて答えた後で)
    バカげた質問だ 僕は僕だ
    Q.人々の記憶にどう残りたいか?

    フレディ回答:そんなこと一度も考えたことない
    死んだら逝くだけだ
    勝手にすればいい 僕が死んだ後なんて誰が気にするの? 僕は気にしないよ
    全く同感だ。
    “死んだら逝くだけ”、それが理想。
    いつまでも語られるなんて悪夢だ。

    だけど語られる運命を負ってしまったなら、せめて悪用されないように頑張るしかない。それもまた義務で宿命なのだと思う。
    すぐに義務感などを抱いてしまうのが私の小物なところ。
    「名が悪用されて誰かが泣こうが、殺されようが、知ったことはない。私には何の義務も責任もない」、そう笑い飛ばせればいいのに。

    自分で言うのもなんだけど、難儀な性格だ。
    こういうところもやはりフレディに近いか。


    (ん? やはり純粋な現代一般の雑談とは言えないかこれ)
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