2019
Feb
09
-
『ラ・ラ・ランド』には人生の素晴らしさが集約されている
数日ぶりに自宅へ戻って休養。息抜きに、ちょうど放送されていた『ラ・ラ・ランド』を鑑賞しました。
ミュージカル映画は苦手……と思っていましたが、観て良かった。
長く心に刻まれそうな映画です。
(感想は常体で書きます)
革新的な手法を使った新感覚ミュージカル映画だの、アカデミー賞ノミネートだの、珠玉の恋愛映画だの。
日本ではそのようなコピーが躍っていて、私は興味が持てなかった。
日本での売り方は間違っていたと思う。
これは技術や賞ばかり称えるような映画ではない。
ただ監督の情熱に共鳴すべき映画だ。
表面的なことしか称えないコピーではそのことが永久に分からない。危うく見逃すところだった。
音楽やダンスの素晴らしさも感動するところではある。確かに。
散りばめられた古典映画へのオマージュには監督の映画愛を感じて楽しい。
(私はあまり映画に詳しいわけではないけど、それでもオマージュは分かりやすく情熱が伝わってくる)
ダンスや音楽、衣装まで、古いアメリカの雰囲気を醸し出しているところも好きだ。
そこへ現代の要素が割り込むのがまた皮肉で笑った。
パーティ客の乗る車が全てプリウスだったり、50年代さながらのダンスの後にiPhoneの着信音が響いたり。冷や水を浴びせる演出がある。アメリカの高等ジョークなのかなあれは。
音楽や映像だけではなく、ストーリーも素晴らしかった。
ストーリーあらすじ:
夢を選ぶか恋愛(友情)を選ぶか。
多くの人が経験する葛藤だと思う。
同じ経験をしたことがある人は共鳴するだろう。
最近流行った『ボヘミアン・ラプソディ』とも似たリアルなテーマだ。あちらは一つの現実そのもので、こちらは多くの人の現実を集めてデフォルメ化した寓話というだけの違い。
現実を素材にした寓話だからこそ、こういう経験がない人は何が描かれているのか理解できず退屈だろうと思う。
※ここからはネタバレあります
この映画のラストを
「ハッピーエンド」
と称し、
「陳腐でご都合主義な成功物語。世の中そんなにうまくいくか!」
と怒っている人たちも多いのだけど本当にストーリーを理解しているのだろうか?
特に「ハッピー」と称している人たちは大丈夫か?? と心配になる。
「成功のために愛を裏切った、汚い女の話」などという解釈をしている人もいて、心の貧しさを感じる。
これは一面では確かにハッピーエンド。
でも完全なハッピーではない。
むしろアンハッピーエンドの割合のほうが多いからこそ、長く心に残り得る物語となっている。
“戻らないIF”を思い描くのはラストの走馬燈。
現実に返り、最後に視線と視線を交わした二人。セバスチャンがミアを見つめて微笑み、無言で頷くシーンは胸が熱くなった。
これは男女の恋愛物語なのだけど、その前にお互いを想い合う人間同士の話だ。
人が人を本当に大切に想う、「人として愛する」とはどういうことなのかが描かれている。
恋愛がらみではなくてもあのようなことが現実にある。
たとえば同性の友人同士であっても、心底から相手を想い、遠く離れて応援し続けることがある。
遠く離れても想い合う。相手の幸福を願う。それは本物の人間同士の愛と呼べる。
でもたとえそうだとしても、好きな者同士が離れるのは何より辛いことだ。
「あの人と結婚していれば」
「あの人と伴に生きていれば」
そんな心残りを抱えて生きる人生は想像外に辛い。
ずっと喉に棘が刺さっているような痛みを感じながら生きることになる。
他人が「サクセス」と呼ぶ目標、金や地位や名誉を得ることは、最終的にどうでもいい。
たいていの人が成功してからそのことに気付く。
失って初めて知る、
「高みに昇ることなどより大切なものがあった」と。
ラストの走馬燈が「大切なもの」を鮮やかに浮き彫りにしている。
反転した現実の「アンハッピー」があるからこそ、はっきりと眩しく輝いて見える。
一個の物語としてはあの走馬燈は蛇足で、芸術性を貶める危険もあった。でもあのシーンはきっと『ニューシネマパラダイス』へのオマージュ。そうだと分かった人には切なさの増幅という効果がもたらされて感動が高まる。
トトが涙を流して観た、カットされたキスシーンのフィルムと同じメッセージが『ラ・ラ・ランド』の走馬燈に篭められているのだろう。
最後に物語以外のことも。
この映画は、懐かしい音楽と映像に満ちていた。
それはアメリカの人たちが最も活き活きとしていて楽しく過ごしていた時代の産物。
全ては過ぎ去った時代のもの。今はもう忘れられていて捨てられかけている。
そのことを嘆くのでもなく現代を否定するのでもなく、ただ
「あの頃の音楽・映像は良かったな。好きだったな」
と微笑んで懐かしむ心がこの映画にはある。
『ラ・ラ・ランド』の前面に出ている物語がアンハッピーなので、対照的にバックの音楽や映像が鮮やかに引き立ち、記憶に刻み付けられた。
過去にあのような心躍る文化を生み出した人々へ、純粋な称賛の気持ちが湧いてくる。
ストーリーに焦点を置いても、音楽に焦点を置いても深く味わえるのは、どちらも手を抜いていない本物だからだ。
まるで本当の人生のようだと思った。
ここには人生の素晴らしさが集約されている。
悲惨な出来事にうんざりして地上を去りたいと思っても、やはり捨てがたいのはこういう芸術を生み出す人間の情熱のせいだ。
ミュージカル映画は苦手……と思っていましたが、観て良かった。
長く心に刻まれそうな映画です。
(感想は常体で書きます)
日本での売り方は違うと思った
革新的な手法を使った新感覚ミュージカル映画だの、アカデミー賞ノミネートだの、珠玉の恋愛映画だの。
日本ではそのようなコピーが躍っていて、私は興味が持てなかった。
日本での売り方は間違っていたと思う。
これは技術や賞ばかり称えるような映画ではない。
ただ監督の情熱に共鳴すべき映画だ。
表面的なことしか称えないコピーではそのことが永久に分からない。危うく見逃すところだった。
手法は幻想的、でも物語はリアル。本物の人生を描いたストーリー
音楽やダンスの素晴らしさも感動するところではある。確かに。
散りばめられた古典映画へのオマージュには監督の映画愛を感じて楽しい。
(私はあまり映画に詳しいわけではないけど、それでもオマージュは分かりやすく情熱が伝わってくる)
ダンスや音楽、衣装まで、古いアメリカの雰囲気を醸し出しているところも好きだ。
そこへ現代の要素が割り込むのがまた皮肉で笑った。
パーティ客の乗る車が全てプリウスだったり、50年代さながらのダンスの後にiPhoneの着信音が響いたり。冷や水を浴びせる演出がある。アメリカの高等ジョークなのかなあれは。
音楽や映像だけではなく、ストーリーも素晴らしかった。
ストーリーあらすじ:
夢追い人が集まる街、ロサンゼルス。映画スタジオのカフェで働くミア<エマ・ストーン>は女優を目指していたが、何度オーディションを受けても落ちてばかり。ある日、ミアは場末のバーでピアノを弾くセバスチャン<ライアン・ゴズリング>と出会う。彼はいつか自分の店を持ち、本格的なジャズを思う存分演奏したいと願っていた。やがて二人は恋におち、互いの夢を応援し合うが、セバスチャンが生活のために加入したバンドが成功したことから二人の心はすれ違い始める……。
映画情報より
夢を選ぶか恋愛(友情)を選ぶか。
多くの人が経験する葛藤だと思う。
同じ経験をしたことがある人は共鳴するだろう。
最近流行った『ボヘミアン・ラプソディ』とも似たリアルなテーマだ。あちらは一つの現実そのもので、こちらは多くの人の現実を集めてデフォルメ化した寓話というだけの違い。
現実を素材にした寓話だからこそ、こういう経験がない人は何が描かれているのか理解できず退屈だろうと思う。
ミアとセバスチャンの選択に賛否両論
※ここからはネタバレあります
この映画のラストを
「ハッピーエンド」
と称し、
「陳腐でご都合主義な成功物語。世の中そんなにうまくいくか!」
と怒っている人たちも多いのだけど本当にストーリーを理解しているのだろうか?
特に「ハッピー」と称している人たちは大丈夫か?? と心配になる。
「成功のために愛を裏切った、汚い女の話」などという解釈をしている人もいて、心の貧しさを感じる。
これは一面では確かにハッピーエンド。
でも完全なハッピーではない。
むしろアンハッピーエンドの割合のほうが多いからこそ、長く心に残り得る物語となっている。
“戻らないIF”を思い描くのはラストの走馬燈。
現実に返り、最後に視線と視線を交わした二人。セバスチャンがミアを見つめて微笑み、無言で頷くシーンは胸が熱くなった。
これは男女の恋愛物語なのだけど、その前にお互いを想い合う人間同士の話だ。
人が人を本当に大切に想う、「人として愛する」とはどういうことなのかが描かれている。
恋愛がらみではなくてもあのようなことが現実にある。
たとえば同性の友人同士であっても、心底から相手を想い、遠く離れて応援し続けることがある。
遠く離れても想い合う。相手の幸福を願う。それは本物の人間同士の愛と呼べる。
でもたとえそうだとしても、好きな者同士が離れるのは何より辛いことだ。
「あの人と結婚していれば」
「あの人と伴に生きていれば」
そんな心残りを抱えて生きる人生は想像外に辛い。
ずっと喉に棘が刺さっているような痛みを感じながら生きることになる。
他人が「サクセス」と呼ぶ目標、金や地位や名誉を得ることは、最終的にどうでもいい。
たいていの人が成功してからそのことに気付く。
失って初めて知る、
「高みに昇ることなどより大切なものがあった」と。
ラストの走馬燈が「大切なもの」を鮮やかに浮き彫りにしている。
反転した現実の「アンハッピー」があるからこそ、はっきりと眩しく輝いて見える。
一個の物語としてはあの走馬燈は蛇足で、芸術性を貶める危険もあった。でもあのシーンはきっと『ニューシネマパラダイス』へのオマージュ。そうだと分かった人には切なさの増幅という効果がもたらされて感動が高まる。
トトが涙を流して観た、カットされたキスシーンのフィルムと同じメッセージが『ラ・ラ・ランド』の走馬燈に篭められているのだろう。
人生の集約のような音楽と映像
最後に物語以外のことも。
この映画は、懐かしい音楽と映像に満ちていた。
それはアメリカの人たちが最も活き活きとしていて楽しく過ごしていた時代の産物。
全ては過ぎ去った時代のもの。今はもう忘れられていて捨てられかけている。
そのことを嘆くのでもなく現代を否定するのでもなく、ただ
「あの頃の音楽・映像は良かったな。好きだったな」
と微笑んで懐かしむ心がこの映画にはある。
『ラ・ラ・ランド』の前面に出ている物語がアンハッピーなので、対照的にバックの音楽や映像が鮮やかに引き立ち、記憶に刻み付けられた。
過去にあのような心躍る文化を生み出した人々へ、純粋な称賛の気持ちが湧いてくる。
ストーリーに焦点を置いても、音楽に焦点を置いても深く味わえるのは、どちらも手を抜いていない本物だからだ。
まるで本当の人生のようだと思った。
ここには人生の素晴らしさが集約されている。
悲惨な出来事にうんざりして地上を去りたいと思っても、やはり捨てがたいのはこういう芸術を生み出す人間の情熱のせいだ。
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