プライベート

    人が世を去ることのダメージ。と、取り残される私の宿命について

    ここのところ近しい人が世を去ることが多くて参っている。

    「近しい人」:親や家族、親友など近親者のこと。私は普通に使いますが、最近あまり使わないので若者言葉の略語と思っている人たちがいるらしい。どちらかと言うと古風な文学用語かもしれない。

    2/9の記事に書いた通り、先日は義父が世を去った。
    その四十九日も来ないうちに、偉大な伯父も。私の養父になる可能性のあった人だ。
    父親二人を失ったに等しい……。

    もういい大人なのに情けないけど、やはり無意識にダメージを受けている。

    遥か年上の保護者だった人たちを次々に失うことは、どれほど年を取っても精神的に負担を覚えるものらしい。
    かつて我々の親世代が言っていた、上の世代が亡くなると「次は自分の番」と思ってストレスを感じるものだと。

    実際に体験してみて分かった。
    なるほど。自分たち世代を保護していた上層のシールドが無くなる感じなんだな。
    死は決して順番に訪れるものではないから、「シールド」などというものは現実には存在していないのだけど、無意識に考える順番というものがあるようだ。

    (しかし私の年齢では、上世代を失うのはまだ早いと言われる。癌などのイレギュラーが重なってしまった結果です)

    付け加えれば、私にとっては前世の記憶が投影されることのダメージも大きい。
    一人また一人と、年上世代が世を去って行ったこと(その時の情景や気持ち)が反射的に蘇る。
    これはもう本当に無意識的なものなので、「前世に囚われるのはダメよ、吉野さん!」などと叱られてもどうしようもない。

    今のところはたぶん見た目には平静を装うことができているはず。
    一人目や二人目の時にはまだ余力があるので耐えることができる。前の時もそうだった。
    でも、あまりにも重なると耐えられなくなり病的になってくるかもしれない。
    「よく泣く」と笑われても、あれは現代の知識で言えば明らかに鬱病だからどうしもようもないな……。情けないことではあるが。
     追記:泣き上戸は元々の性格のせいでもあるが、晩年は病気で症状が増したように思う。→補足雑談

    だいたい私は年上とばかり深く交流をするので、取り残されるのは宿命なのだ。いつもいつも。

    覚悟はしていても、気持ちが追い付かないな。毎回。
    寂しさに耐える心は鍛えられないらしい。

    それと上世代が世を去ると、一気に忙しくなることも避けようがないのか?
    今はとうてい前世の比ではないのだけど(あの殺人的多忙と比較になるわけがない。次元が違う)、あれから休み無しで息をつく暇がなく、現代なりに疲れを覚えている。

    余談…
    特に日本のシステムは不親切で非効率。だから日本の相続は大変過ぎる! 平日しか手続きできないということが、仕事を持つ者にとってはまるで難度の高いサバイバルゲームをしているかのよう。
    それと戸籍集めなど、一般の方々には無理な手続きだよね。だから専門職が食べていけるのだが……全体のコストという面ではいかがなものか。
    いつになったら効率良く手続きできるようになるんだ、日本は?
    マイナンバーは税務署以外にとって何の意味があるのだか。
    頭の悪い国家システムで、本当に疲れる。
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