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最近アクセスの高い、『経緯2.記録と向き合う。「現実調査」の過程 』を読み返していて、今さらながら「時代は変わった……」と思い知った。

皆様はあの記事を読んで、表の左側を
「後から創作した話」
と思っているだろう?
でも私は17歳当時、本当に何も知らないで左側に書かれた内容を思い出したのだよね。

たとえば“忠臣の鑑”というワードも、周囲の人々から言われた言葉として(意訳で)思い出した。そう呼ばれた人は何万人もいると思い込んでいたのでごく自然に受けとめていた。わりと特殊なケースだと知り、ショックを受けたのは後々のことだ。

それに当時は実際、知られていない話だった。少なくとも周囲の友人は誰も知らない話だったんだよ。
「教養の欠如した時代」に生まれ育ったもので。
 参照 →教養の欠如した時代に生まれた人、典型例

あれから、何故かどんどん流行りだし。
昔に比べれば遥かに多くの人に知られるようになった。
これもきっとオーディエンスたちの嫌がらせ 支援のおかげだと思う。やれやれ。


若い頃はこんな時代が来るとは思っていなかったので平気で公表したのだった。
それはただ「正直でありたい」と思ったから経緯を告白しただけのことだった。

最初にそうしてしまったために逃れられず、撤回もできず、今日までこうして世間から嘲笑される話をし続けるしかなかった。

でも今となっては、正直に語っていて良かったと思う。
たとえ有名とならなくても小説という形で自分自身の記憶がこの世に存在できて良かった。(記憶は多分に間違っている箇所もあるのだろうけど、核心の気持ちは間違いなく真実だ)
他人に踏みにじられるばかりの過去。ここに僅かでも自分の言葉で語ることができたことを、心から有難く思っている。

それと私は今、死後世界を証明する標本となりたいと願っているので、あのとき本当のことを言って良かったと思う。

もちろん私の話など信じない人がほとんどだろうが、1000人のうち一人でも信じてくれたら嬉しい。
「魂は存在する」「死は終わりではない」という伝説が真実であると確信する人がこの世に一人でも増え、唯物思想の打破に貢献できるなら本望だ。

繰り返し書くが、
「天知る、地知る、我知る、人知る」
という言葉こそこの世で広めるべき真実だ。これはカルマの法則にも適っている。
しかし、唯物思想は「天」も「地」も「人」も否定する。
天地とのつながりを失った「我」は欲望の奴隷となり、道徳も失う。
結果、虐殺の王をヒーローとして崇拝し、無実の人に拷問を与え処刑することを「正しい」と称賛する人々が大量に出てくる。我が子を虐待し、なぶり殺しにすることを心から愉しむ者まで野放しになる。
もちろん天地を意識しなくても道徳を貫ける人はいる。ただ唯物思想があるとこのような異常者たちを抑えられなくなるということ。そもそも、唯物思想は彼らが地上で悪事を自由に行うために考え出した屁理屈なので当然だ。

こんな唯物思想が導いている暴力を終わらせるための一助になれるなら、私は喜んで標本になる。


「標本になる」と言っても今のままでは不十分だと承知している。
今は家族の人生を壊してはならないと思うから、出生日の証明書などは公開できない。
でも、家族が皆世を去り、私自身も死に近付いたら公開しようと思っている。
現代の頭の良い人たちや、未来の人たちがホロスコープなどと比較して理解してくれたらいい。

※「天知る~」の意味: おてんと様が見ている。悪事は神も自分も知っている。=犯罪が裁かれなくても悪いことをすればカルマの絶対法則で負債を負うということ/アカシックレコードに全ログ残ってますよ!と翻訳してもいい。



参考になる話、追加 

唯物思想の弊害はこの方が書いている通り。下線は当ブログ筆者による。
『永劫回帰(wikipedia書き手。2019年3月24日現在)』
永劫回帰批判

しかし、『歴史の終わり』を書いたフランシス・フクヤマらに批判されているように、蓄積している知識や歴史が、近代化という不可逆な方向性を持っているのは社会科学的な事実であり、永劫回帰の思想は人類史的なスタンスから見れば誤りである。歴史は繰り返しているようで、弁証法的に発展しているのである[注釈 1]。

また、自然科学的観点に立てば、1.世界はエントロピー増大の法則により常に拡散・多様化していくので類似の状況が再現されてもまったく同じ状況が再現されることはないという熱力学的見解や、2.有限の系に無限の時間を与えても繰り返しが起こるとは限らないことを発見したカオス理論、あるいは、3.本質的に不確定性を内包する量子論など、特に物理学によって永劫回帰を否定することが可能である[注釈 2]。

また、ニーチェの能動的ニヒリズムは、ナチスにヴェルサイユ体制打破という政治的目的に利用され、結果的にヨーロッパに破滅的な戦災を与えた。戦後、新左翼の若者たちの間でも流行し、彼らの刹那的で、盲動的な暴力行為を煽った。絶対的な善悪だけでなく、相対的な善悪すら存在しないと言うことは、あらゆる蛮行や凶行もすべて許されてしまうと言う危険思想に容易に直結する。その政治的に利用されやすい危険性と反省から、哲学者の永井均はその敗北の完璧さにおける思想的な意義を賛美しつつも、「ニーチェは思想家としては敗北した。マルクスには復活の可能性があるが、もはやニーチェにはない」と指摘している[2]。フランシス・フクヤマも、「ユダヤ的対等願望(奴隷道徳)は、ゲルマン的優越願望(貴族道徳)に勝利した」[注釈 3]と指摘し、弁証法的に発展する歴史には目的や終わりがあるとして、歴史の終わりを説いた。ブッダは「犀の角のようにただ独り歩め」と説き、ニヒリズムの政治化を戒めている。

永劫回帰は科学的に確定される現象や政治思想としてではなく、あくまでも実存主義の構えの柱の一つであり、個人の心的現象内によって発生しうるものなのかもしれない。ニーチェは、個人幻想の枠内ならば、人間は因果律も時間軸も超えられることを叫び、個人幻想の絶対的自由を主張したかったとも解釈しうる。これについて、永井均は永劫回帰は思想と言うよりも、ある日突然ニーチェを襲った体験である点を強調している[3]。

永井均はニーチェ哲学とは徹底した「問い」であると指摘している。確かにニーチェ哲学は狂気をはらんでいるが、それは無知や短絡的思考からくる狂気ではない。一般人なら適当なところでやめてしまう疑問を問い続けた結果であり、哲学的思索を徹底したがゆえに発生する狂気なのである。民主主義は価値相対主義を説くが、すべての価値を相対化し続けたら、絶対的な善悪だけでなく相対的善悪も否定されてしまい、究極的には善悪すべてが無意味化するのではないのか? 民主主義は国民の平等を説くが、すべての国民に平等に価値があるということは、すべての国民には平等に価値がないと言い換えられるのではないのか? キリスト教は普遍愛を説くが、すべてを平等に愛すると言うことは、何も愛していないというニヒリズムなのではないのか? フランシス・フクヤマはニーチェの近代批判は本質的で根源的であり、論理的に反駁するのが困難であることを認めている。永劫回帰の能動的ニヒリズムから貴族道徳の復活を説くニーチェ思想は、現代人の視点からしたら危険思想以外のなにものでもないので、多数派の支持を受けることはなく、もはや政治思想として復活することはありえない。その点においてニーチェは思想家としては間違いなく完敗した。しかし、感覚的に拒否できても、論理的に反駁することが困難である点がニーチェ哲学の特徴のひとつである。


>絶対的な善悪だけでなく、相対的な善悪すら存在しないと言うことは、あらゆる蛮行や凶行もすべて許されてしまうと言う危険思想に容易に直結する

是。
このため蛮行を目的に生まれてきている者たちに大活用されている。
現代の病の原点である。

>感覚的に拒否できても、論理的に反駁することが困難である点がニーチェ哲学の特徴のひとつである。

今のところはね。
だけど自然科学でも政治でも誤っており、道義に反するということは、合理ではないということだろう(地上においては。永遠の場では正しいとも言えるが)。
地上に照らせば必ず反駁する論理がある。

ニーチェさんが自身で反駁してくれたらいいのにな。
(生まれ変わりを否定したニーチェ自身がもし別の肉体を持って別の人生を歩んでいるとしたら、ただそれだけで『ツァラトゥストラ』の反駁になる。世界が変わる)
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吉野 圭-Yoshino Kei
Posted by吉野 圭-Yoshino Kei


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