我傍的な話(裏話・実話を絡めた歴史空想話)

    好きを手放しで表すこと(劉備の場合)

    2022/6/18 要パスだった以下の記事を公開しました。ショッキングな内容もあるかと思いますので、心の健康を害している方はクリックしないでください。

     『私は粛清したのか? 記憶を探ってみる 』

    ここから下はこれに関して新たに追記した卑近な話で、「現在の私について雑感」です。


    今思うこと


    『ラブバード』の映像、劉備の態度を客観的に眺めてようやく悟ったが、好きなら好きであんなふうに手放しに表現したほうがいいのだな。
    あれこそ人として素晴らしい。だから彼の態度は伝説となったのだと思う。

    えこひいきの謗りを受けたとしても、公のためになると考えた理由ある「ひいき」ならそれは公正とみなされるらしい。
    (妻や愛人、家族などを優遇したいというだけで高い地位に就けるのは駄目だと思う。その立場に相応する能力は必要)

    もちろん、「公正」と見ない者も多くて、ひいきされた側はわりと大変な人生を送ることになるのだが……。

    上の要パス記事より:

    >私は他人を好き・嫌いだけで判断しない。それは他人にあまり興味がないということにもなり、一種の障害と言える

    実はこの部分、今の私も全く同じで。
    特に仕事に関し、好き嫌いで判断するということはあり得ないと思う。

    現実には「嘘をつかない」「真面目にやる」などの誠実な人が私は好きなので、結局は好みで判断しているということにもなるのだが、誠実さという性質を越えたところ以外のことは判断基準にならない。

    たとえば容姿が良いとか、話がうまいとか、能力の高低さえ二の次だ。誠実さに優る能力はないと思う(こう考えることに儒教は関係ない)。最もどうでもいいのは、上手におべっかが使えるという才能。
    むしろおべっかがうまい相手は嫌だから避ける。嘘つきとしか思えない。
    よく私が「慇懃無礼だ!!」と怒っているのはそういう嘘つきな人たちのことを指す。嘘に付き合う時間がとても無駄に感じる。しばらく我慢して付き合うけど限界が来たらサヨナラする。
    …だから壁宿の、「おだてに弱い」というところは間違いだと思う。ただ頼られることに弱いだけ。結果、利用されやすくストーカーにつきまとわれやすいことでは同じだが。苦笑

    私は現代のリベラルな規範に従ってひいきしないのではなくて、どうも本能的に好き嫌いで判断しないたちであるらしい。
    子供の頃から友達や恋人に、
    「自分が好かれているのかどうか分からない」
    と言われ責められることがよくあった。「好きだよ」と言っても納得してくれず「愛してくれないなら死ぬ」などと脅される。(涙)
    「冷たい人なのか温かい人なのか、どっちか分からない。どっちなの?」
    ともよく聞かれたな。どっちなのか、そんなことは他人が判断することで自分で分かるわけがない。少なくとも邪悪なことは考えていない、できる限り優しくしたいと思っているのだけど伝わっていないらしい。
    黙っているので猜疑心の強い人たちから「悪いこと考えてる」と誤解されるのか。
    (そう、「猜疑心が強い」のは実は上の質問者さんのようなタイプのほうだ。自分自身に引き寄せて、裏読み深読みばかりするから妄想を抱く。こういう人が職場でも近所でもトラブルを起こす)

    こんな性格であることを反省している。
    本能の性格タイプなので見習いたいと思っても劉備を真似できない。
    自分はあれだけの信愛を受けておきながら……そのことが幸福であったとはっきり記憶しておきながら、下の人たちに返せなかったのは申し訳なかったと思う。

    当時の部下や国民を強く強く愛していたことだけは確か。
    今も想うと涙が出るほど愛している。
    それなのに愛を表現することが苦手で、だから身を捧げることしかできなかった。
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