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検索していて秀逸な記事を見つけたのでご紹介。

『てんきゅうぶのはてダ(仮題)』さんより
 ⇒現世と来世の危ういバランス
もし、人生というものが「たかだか一世紀弱生きて、死んだらそれでパー」というだけのものでしか無いとしたら、人間は現世における目先の快楽のみを追求し、将来へ向けた活動、例えば勉強なり社会貢献なりを行う基盤が全く失われてしまうことになる。そのいきつくところは利己主義と拝金主義でしかなく、
だから、人間の共同体は、国家も、宗教も、会社も、あるいは家庭という一番小さなものでさえ、「個人の死後もそのコミュニティが残り、何らかの形で個人が存在したという事実が残り続けていく」という物語を持っている。

「靖国で会おう」と言って零戦でアメリカの空母へ特攻していった若者たち。
復活や輪廻転生を説く宗教。
先祖の霊を祀る家庭内の祭事。
これらは、全て生きている人間が死んだ後も何らかの形で残ることを担保し、生きている間に無責任に陥らないためのものなのだ。「来世」というものが存在しているからこそ、「現世」においても正しい生活を送ろうとし、やや逆説的ではあるものの、結果的に「現世」の繁栄がもたらされてきたのだと思う。

だが、ここ2, 300年くらいの間、人間は「来世」を引きずり下ろし、その埋め合わせを物質的繁栄の中に求めた。
しかし、一方で、「現世」と「来世」の問題は、制御理論で言うところの「不安定極」、峰の上に乗った転がりやすいボールのようなものなのだと思う。

現世の退廃を嫌うあまりに来世の側、精神主義の側に傾きすぎると、今度はもはや「現世」の側の論理によってその傾きを押しとどめることができなくなる。
だから注意深くそのスロットルを握り、そのどちらかがどちらをも破滅させないように、コントロールする必要がある。(こういう宗教の価値を相対化させるような考え方自体が宗教家には受け入れがたいんだろうけど)

素晴らしい。
全く仰る通りで、死後世界に偏り過ぎてもいけないし、地上(現世)の一生のみと思い込み過ぎることもいけない。

魂を切り捨て「死ねば終わり」という考えが主流となれば、この現代のように一生だけで可能な限りの金を得て欲望を貪り尽くそうと焦る人が多くなる。
「死ねば終わりなのだから何をやってもいいのだ」という理屈にもなり殺人の快楽を貪る人も増える。彼らは利己主義のためにどんな蛮行も許されると思い込む。
でも一生のうちどれだけの大金を得ても使い切ることは困難だし、蛮行で満たされることも不可能だ。
魂を否定した人々はやがて死の恐怖に怯えて発狂することになるだろう。唯物主義に侵された思想家たちが実証している通り。

かと言って、「来世」すなわち死後世界ばかりに偏り過ぎることもいけない。
(ここで言う「来世」とは仏教的な次の人生という意味ではなく、キリスト教的な来世。死後に住む永遠世界)
来世のことを重視するあまり、現世をおろそかにする人が増える。たとえばカルト宗教が「来世の幸福のためポアしろ」と命じれば従ったり、「全財産を寄付しなさい」と命じる教会へ唯々諾々と従ってしまうことになるわけだ。
こういう状況なら、来世への憧れは社会を崩壊させるだけの弊害となってしまう。

だから私も、「地上と死後世界のバランスが必要」と述べることが癖になっている。
「空の向こう」へ興味を抱き過ぎることなく、それでいて死は無で孤独なのだと絶望することなく、「空」を意識しながら現世を思い切り生きることが大事。

ちなみに私がこう述べるのは、宗教観でも哲学的な思索の結果でもなく、体験から導き出したはっきりした回答。
多くの読者様は私のことを表面的なカテゴライズで「スピリチュアル中毒者」と決めつけているだろうし、妄想家として嘲笑しているだけで考えようともしてくださらないだろうが。

体験をバカにする人たちは、上ブログ主の知的な表現に浴したほうが理解できるかもしれない。



もう一つ。
同じ方のブログで、こちらの記事も興味深い。

 ⇒よいこのための新左翼入門 序 「なぜ左翼は内ゲバに走るのか?」

皆が不思議になる、「左翼グループや社会主義国では何故100%お互いの殺し合いと虐殺が起こるのか?」という問題。
※以下引用内、検索の都合で一部の用語を変えます
K産主義のイデオロギーをものすごく乱暴に言ってしまえば、全ての人間が平等な社会を作ることにあります。
そうだね、確かに少々乱暴なところのある表現と思う。
K産主義が建前とする目標をもっと正しく述べるなら、
「全ての人間が見かけだけ平等な社会を作ること」
なのではないか。
つまり、個人差や多様性を完全に無視した「均一性」だけを目指すもので、それは「機会を平等に与える」などの本当の平等とは全く違う。

大量生産したロボットのように人間の差異をフラットにしなければならないから、はみだす者は「規格外」として切り捨てるべきだと考えられる。
そのために規格外の人間の「廃棄処分」、すなわち処刑も許容される。
ところがほとんどの人間には差異があり、規格に当てはまらない。そこで大量虐殺のスイッチがオンとなる。
自動的に虐殺が始まるわけだ。

そもそもベースにあるのはファシズムで、ファシズムは一神教から生まれている。
階級闘争の末に「最後の一」になるまでお互いを殺し合わなければならないプログラム。
西の神は言ったはず、「私は地上を争いで満たすために来たのだ」と。
この聖書の呪いが篭められた思想なのだから、K産主義システムに洗脳された人々が100%暴力と虐殺に走るのは当たり前だろう。
まさに悪魔(または神)から与えられた虐殺構文と言える。

「平等」という言葉のこのような誤用を例として見ても、「平等」にも差異を認めるバランスが必要と思う。
真実の平等が必要だ。

真実の平等とは、個性と差異が認められ尊重されること。
真に平等な社会とは、個々の差異に応じて公平な評価がされ、機会だけが均等に与えられる世界のことだ。

【関連記事】 「平等圧力による公平性ストレス」で極端差別へ。個性の彩り豊かな、ファンタジー世界の実現を願う

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吉野 圭-Yoshino Kei
Posted by吉野 圭-Yoshino Kei


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