「泣いて馬謖を斬るは、悪」? AKSなどの不公正を「正義」と呼ぶ価値観

吉野 圭-Yoshino Kei

またネガティブな話を書いてしまう。しかも連日、ワンパターンな歴史の話ですみません。

日本人にとって、公正は「悪」なのか?


今日、私の身近な人が
「“泣いて馬謖を斬る”って、悪だよな」
と言ったことで激しくショックを受けた。

(えぐい話を含みます。大丈夫な方だけ続きをどうぞ)


 上の諺を知らない人へ。解説→コトバンクことわざ辞典

歴史の知識などほとんどない人だ。
「馬謖を斬る」の背景の事情に関する知識など皆無。
時代についても国さえもはっきり知っているのか疑問。
ただ、私が上のエピソードに深い関心を持っていることだけは知っているので、嫌がらせのためにわざとこのようなことを言う。
誤った浅いイメージだけで誹謗中傷するネット民と同じだ。

ずっと無視してきたのだけど今日だけは耐えかねた。

何故なら「泣いて馬謖を斬る」を否定するなら、世の中の不公正を全て「正義」と呼ぶことになるからだ。


法を守ることが、悪?


あのエピソードは確かに褒められたことではない。
そもそもが当初の判断ミスと、反対派の陰謀を抑えられなかった諸葛亮に責任がある。責められて当然だ。

しかしその不手際を責めるならまだしも、「悪」とは? 
それはどういう価値観だ?

犯罪が起こった後に、加害者の身分にかかわらず罪刑法定主義で処分すること自体を「悪」と呼ぶ。
仲間はどんな悪さをしても守れ! 被害者の人権なんか無視しろ!
と言う。
この価値観は鬼畜の属性と言えるだろう。

※馬謖の件では、たった一人の自己中心的な行いでたくさんの兵士が死んでいる。この兵士たちの被害を無視して、個人的に親しかったからというだけで馬謖をひいきし処分保留にすべきだったと言うのか?

ごく身近な最近の日本の事件で言えば、そのような価値観は
 ・AKS(芸能事務所)が山口真帆さんの加害メンバーを処分せずに守り続けている
などの行いをする者たちと同じだ。

※池袋暴走事故についての「上級国民」文は削除しました。メールをいただき安易だったと反省したため

今まさに「日本の縮図」と呼ばれて非難されている上の事件を「正義」と呼ぶとは。
人治主義でひいきして加害者を守ることが、「正義」だと思っているのだな。

そんな人ばかりの国に住んでいることを身近で改めて思い知り、ショックで耐え難かった。


馬謖を斬らなければどうなっていたか? NGT48が良いモデルケース


とても痛い話だが。
あの時、諸葛亮が馬謖を斬らなければどうなっていたか考えてみよう。

上で挙げたケースは良い見本だ。
NGT(新潟)48という女性アイドルグループ、そして彼女たちが起こした事件。
「次元が違う」と思われるかもしれないが本質は同じこと。

 →山口真帆さんとNGT事件とは? まとめサイト(真帆さん引退後)

この事件では、加害者グループと関係を持ったとされるメンバーが「処分保留」とされ、被害者である山口さんが斬られた。
つまり、事務所であるAKSは悪行をしたメンバーばかりを必死で守り、悪行を訴え明るみに出した被害者を追放したのだった。

AKS事務所は、被害者の山口さんを
「組織に害を与えている加害者」
呼ばわりして責めたのだというから憤りを覚える。
レイプされかかり、殺されていたかもしれない女性が勇気を振り絞って訴えたというのに、彼女を救うどころか必死で犯罪者を守り被害者を虐めて追放した。

しかも信じ難いことに、これだけ報道され叩かれているのに未だにAKSや犯罪に関わったメンバーたちは自分たちを「絶対正義」と思い込んでいて、山口真帆さんと彼女の親友を「悪人」と呼び虐めているらしい。
当然に謝罪することもなく、世の中を嘲笑するかのように犯罪者同士で仲良く遊ぶ姿をツイッターに上げ続けている。

犯罪者同士がお互いに守り合い、被害者を虐める。
このような光景は密室状態の学校や会社など、日本の組織ではよく見られる。
しかし犯罪行為が大公開され、イジメの様子も晒されて批判の集中砲火を浴びているのに全く反省がないのは異常な精神の持ち主たちだ。
たった数人の犯罪者同士、大多数の世間を敵に回して生きていけると思っているのか……? あまりにも謎過ぎる思考回路。これも「エコーチェンバー」の一種なのか、全く状況を把握していないらしい。

このような筋金入りの犯罪組織ぶりのせいで、悪評は新潟のローカルグループだけに留まらず全国の48グループに波及しつつある。
既に今年の「総選挙」は中止。曲やグッズの不買運動も始まっている。
かつて一世風靡したアイドルグループは今や見る影もない。

たった一度、最初の時点で犯罪に関わったメンバーを処分していればこのようなことにならなかっただろうに。
AKSは典型的な「アジア的・人治主義」によって人気を失った。
初期メンバーが気の毒過ぎる。

……この身近なケースを見ただけでもはっきりと分かるかと思う。
あの時、諸葛亮が馬謖を処分していなかったらどうなっていたか?

その時点で蜀の評判は地に堕ち、今このように伝説となってはいなかっただろう。
当然ながらあの時代の誰の名も有名とはなっていなかったはず。
(記録書に名は残るだろうがフィクション化はされなかったかもしれない。ほとんど誰にも知られない時代となっていた可能性がある)
【解説】何故このように言えるかと言うと、当時の中華大陸で民間に圧倒的人気だったのは劉備と彼が建てた蜀漢だった。諸葛亮は生前から既に民間で神格化され、後にフィクションのベースとなっただろうファンタジーも語られ始めていた。その同時点において、蜀センターである諸葛亮が法に反する行いをすれば人々の熱は一気に冷め、今このように三国時代のフィクションが語られることなど無かったと言える。もちろん諸葛亮はそのような世間の評価など意識しておらず、ただ普通に仕事をしただけなのだが。
後々このようにオモチャにされることを考えたなら、フィクションなど無かったほうが同時代の人々全てにとって良かったと言えるのかもしれないが、少なくとも諸葛亮が蜀を汚すような行いをすることは人格上不可能だったろう。

弁護するわけではない


重ねて言うが決して「馬謖を斬る」を正義と呼ぶつもりはないし、彼を弁護するつもりも毛頭ない。

ただ、道は誤っていなかったと思う。
あの爾後(罪が行われた後)の時点では選択肢は一つしかなかったと言える。

それなのに日本人は法を守ることを「悪」と呼び、嘲笑し批判している。
AKSと同じ価値観の持ち主がこれほどに多いのか。

「何を言っても理解できない無知な人々」
「法治を悪と呼び、犯罪を正義と呼ぶ人々」
人治と法治の区別がつかず、人治粛清を称賛する人々
「理不尽な作り話で誹謗中傷を愉しむ人々」
「虐殺を称賛し、拷問を善行と呼ぶ人々」……

こんな人たちが多数のこの国で生きる気力が消えつつある。


 続きの話。>>誤解だったらしいが、記事の掲載は続けます
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